要旨
合気会合気道(合気会スタイル)から岩間神信合気道(岩間スタイル)へ転換(入門)して少なくとも半年間辛抱すれば必ず岩間神信合気道の良さがわかってくるはずである。
ただし岩間合気道にもいくつかの注意すべき点(陥りやすい欠点と言ってもよい)があり、それらを参考にされて最初の段階で本当の岩間合気道を稽古している指導者や同好者と接触することが大切である。
初めに岩間合気道への転換に際してそれまで長い間やってきた合気会合気道の稽古が全く無駄になるのかというとそうとも言えない。
合気会合気道の特徴である「気の流れ」の体さばきにおいて「力を抜きリラックスする」「臍下丹田を意識して呼吸力を発揮する」「相手の動きを丸くさばく」「相手の攻撃線をはずして入り身する」などということなどはそのまま岩間合気道の「気の流れ」でも生かされる。
ただし岩間合気道では先ず「固い稽古」や「武器技」を修練した上で「気の流れ」に移るのであるからとりあえず「気の流れ」のことは忘れて基本の「固い稽古」と「武器技」に取り組まねばならない。それによって「気の流れ」自体もより正しい形となり本物の「気の流れ」となるのである。( 第5章 合気道における「合わせ」参照 )
岩間合気道の特徴については前章に記述したとおりであるが、初めて稽古する者が出会うことは次の2つ、すなわち一つは固い稽古(つかみ稽古)をすること、もう一つは剣・杖・体術を同時に稽古することであり、これらの稽古に数カ月か半年くらい辛抱すれば岩間合気道の入口が開けてくるはずである。この時期を黙って乗り越えねばならない。
そして3〜5年ぐらい稽古を続け、その時点で改めて自分の合気道の過去と現在を確認してみれば自分がより強く変身していることを納得できるはずである。
ここでは世間には名前だけ「岩間(神信)合気道」または「岩間スタイル」と称して実際にはそうでない合気道をする人もまた存在するのではないかと思うので、参考までに岩間合気道のいくつかの注意すべき点(陥りやすい欠点と言ってもよい)について記述しておきたい。
第一に岩間合気道の稽古を相当期間積まれた方の中には、自分自身に対する自信を持たれた上で、さらに強くなりたいという欲望から、自己流の稽古(独断的なもの、変形的なもの、混合的なもの、スパルタ的なもの)をしようとされる方もおられるのではないかと思うけれども、それは結局は回り道をするだけであることを知るべきである。
なぜならば不世出の名人(大先生)の80年余りの仕事と一般人の数十年の仕事とでは比べものにならないからである。
岩間合気道では稽古をすればするほど技に対する一つ一つの疑問が解決され心の悩みが晴れ、精神が安定し希望が生まれてくるから、その勢いでより強くなりたいと思って自己流の稽古を試みる傾向が出てくる。しかしながら、そこまで来られたのは大先生が86年の生涯をかけてつくり上げられた技の形を、齊藤守弘先生が工夫考案された段階的指導教育法に導かれて忠実に守ってきたからこそであることを忘れてはならない。たとえ少しでも自分の努力で道を開いてきたような錯覚を持つならば、それは自分の我(が)の稽古であり、そういう自分をきびしく自制しなければならない。
そのときは謙虚な気持ちで大先生の技と精神を思い返すべきである。
大先生が体術と武器技の真髄を究められ、一つ一つの技を一分一厘のくるいもなく身につけられ、無限の呼吸力をもって「絶対的強さ」を身につけられ、最後に真の「和合」の精神に行き着かれたという偉業は80年余の遠大なる道程の上にでき上がったものである。それを考えるならば、この広大無辺にして天地人和合の「合気道」という贈り物に対してわれわれはただ敬い畏れるばかりである。
岩間合気道を稽古する者は大先生の歩かれたと同じ最も効率のよい道程の中にあること、絶対不敗の技で誰とでも和合してしまう目標に近づいていること、それだけで十分に満足しなければならない。そしてあくまでも大先生の技と精神に固執しその修業に専念することが大切であり、そのとき自分自身の道もまた自然と開かれていくのではないだろうか。
第二に体術にしろ武器技にしろ「形」をいい加減にする岩間合気道は当然のことながら本当の岩間合気道ではない。それは大先生が残された「合理性」をいい加減にしているからである。
一回や二回の稽古でわかったように感じてもそれは始まりに過ぎない。何回も何回も反復演練をくり返し、わからないところは謙虚に人の教えを受け、互いに切磋琢磨しつつ長い時間をかけて一つ一つの技の合理性を修得していかねばならない。(「一分一厘くるっても技にならない」ー大先生の言葉 )
そのためには少なくとも年1回は齋藤仁平先生あるいはそれに匹敵する指導者の直接の指導を受けることが絶対に必要である。
またこのことを可能にしたのは正に齊藤守弘先生の「段階的指導教育法」の工夫考案であって岩間合気道を指導する者はこの稽古法を活用することを決して忘れてはならない。(第2章(注6)参照)
ただし反対にあまりにも「形」にこだわり過ぎて相手の「やる気」や「呼吸力」の発揮まで妨げてしまうようなことは避けなければならない。基本の「形」をしっかりと習得したあとは取りは受けに合わせることに専念し、のびのびと「呼吸力」あふれた楽しい稽古をしなければならない。稽古が終わったあとみんなの顔が満足感と充実感に輝いているような稽古でありたいものである。
第三に岩間合気道を稽古する者が一番注意しなければならないことであるが、絶対に「力の岩間合気道」になってはならないということである。
なぜならとにかく強ければよいという考えから多少の「力の稽古(がんばり合いの稽古、力くらべの稽古)」はやむを得ないと考えるならば、前項と同じく合気道の「合理性」が無視され、無理な力のぶつかり合いをくり返し、相手に強烈な痛みを与えてやる気をなくさせたり、場合によっては相手に怪我をさせてしまうからである。
そこまでいかなくても「力の稽古」は稽古自体が殺伐となり、粗野となり、自然と楽しさがなくなって、結局長続きはしなくなるものである。「稽古の楽しさ」は合気道が存在するための一つの必要条件である。
指導者は先ず正しい武道的なつかみ方・打ち方・突き方を指導し、さらに相手の技量に合わせて力を加減し、少しずつ「呼吸力」を主体とする稽古に移っていくことが必要である。稽古全体を通じて決して自分の「形のいい加減さ」を「力」でカバーするような稽古を指導してはならない。
一方、初心者の側は正しい形を覚えるまではどうしても力が入ってしまうのはやむを得ないことであり、むしろそういう過程を通ることは当然のことである。そして一日も早くそれを克服して力を抜くことに努めれば「呼吸力」を主体として技が鋭くきまるようになっていくものである。
第四に岩間合気道においても有段者を対象とする場合には「固い稽古」とともに「気の流れ」の稽古を取り入れることが必要である。大先生は「気の流れは3段から」と言われたそうであるが……。
「気の流れ」は基本的には固い稽古の速度を速めていきさえすればいつでもできるものではあるけれども、やはりその初動の部分はそれぞれの正しい「形」を普段から稽古しておかなければならない。また最後の仕上げとして受けの自由な攻撃に対して取りはいつでも自分の方から一方的に合わせることができる稽古をしておかなければならない。
ただし、少しでも「気の流れ」に疑問を生じたときは、すぐに「固い稽古」に戻ってその疑問を解消しておくことが絶対に必要である。
<第五に注意すべきことは、私自身もその一人であるが、合気会合気道と岩間合気道というように2つ以上のスタイルの指導を受けた場合のことである。どちらが先でどちらが後であるかは別として、2つ以上のスタイルの指導を受ければ相当の期間それらのスタイルの形が混合された形で現われ、特に若い時に身についた形はなかなか抜け難いものである。岩間合気道は非常に奥が深いものであるから、混合スタイルの稽古を続けているかぎりはその真の極意や楽しさはなかなか理解できないのではないだろうか。
そういう混合スタイルを正しい方向へ導き本当の岩間合気道へ向かわせてくれるものは、体術の基本である「武器技」に習熟することであり、そこから体術の正しい形を導き出していくことが最善であると思う。従って武器技をおろそかにしない人は本当の岩間合気道に近づきやすいと言うことができるのではないだろうか。
以上、本論文を読まれた方が岩間合気道への興味を持たれたときはこれらのことをよく注意されて、正しい岩間合気道を稽古している指導者や同好者と接触されるよう老婆心ながらつけ加えるものである。