要旨
合気道の「強さ(護身能力)」を育てるものは日常の稽古における馴れ合いのない「鍛練」しかない。岩間神信合気道では「固い稽古」という鍛練をした上で「気の流れ(相手に合わせる稽古)」に入る。
合気会合気道では「固い稽古」という鍛練が省略されている。その「気の流れ」の稽古においては取りと受けがお互いに動きを合わせるのが基本であるが、それは相手が合わせなかった場合の問題を解決してはくれない。一方、岩間合気道の「気の流れ」では取りが一方的に受けに合わせるのであって、それが合気道の真の「合わせ」である。
結論として、「固い稽古」で一つ一つの技を鍛練すること、そして「気の流れ」では取りが一方的に受けに合わせること、この2つによって合気道の強さ(護身能力)は育てられるのである。
試合のある多くのスポーツや武道では試合のルールが存在するから、そのルールの許す範囲でとにかく勝つことを目標として練習(稽古)することが基本である。試合のない合気道では、試合のない理由は別の問題として、試合がないことによってきびしさが消え自己満足に陥りやすいことはまぎれもない事実である。
合気道競技を行っているスタイルの指導者の「試合をやることによって自分の実力を知り謙虚になれる」という言葉を素直に受けとめる必要があり、自己満足を排し冷静に自分の実力を評価しなければならない(私はそういうスタイルの存在そのものを強く否定するけれども)。そのためには馴れ合いは徹底的に排除されなければならない。いくら普段の稽古をはげしく行い華麗な演武を行ったところで、実際の場すなわち実際の護身の場面において役に立たない合気道であってはならないからある。
合気会合気道は「気の流れ」が主体であり、その稽古は技をかける者と受ける者とが動きを合わせるように動くのであるが、そこに馴れ合いは絶対にないと断言できるであろうか。同じくらいの実力の二人が相対したとして、例えば自分の片手を相手が諸手でしっかりとつかんだ場合はそれをはねのけられるのだろうか。そういう状態になる前に動くのだと言ったとしても、もし動けなかったらという一抹の不安は残るのではないだろうか。
2代道主は「合気道では無理に抵抗する必要はありません。相手の言いなりになることと、相手に自分の気持ちを通わせて相手に連れて動いていくのとは違います。自分の気持ちを相手に通わせるように動けば、結果的に鍛えられるのです。」—「規範合気道(基本編)P.18—(合気道を知るためのQ&A)」—と言われている。
つまり2代道主は「和合」という合気道の理念を実際の稽古の方法の中においても実現されようとされて、取りと受けとがお互いにその動きを合わせるという形をとられたのではないだろうか。
しかし原点に戻って相手が合わせることを知らない場合、あるいは相手の力が強くて技がうまくかからないような場合はどうすればよいのだろうかと考えてみると、つまり2代道主の言われている「結果的に鍛えられる」ということを実戦の場面に当てはめて考えると、どうしても心の隅に一抹の不安が残るという問題は解決してはくれないのではないだろうか。(第3章「初めの部分」参照)
一方、岩間合気道では初めの「固い稽古」で、もちろん鍛錬の積み重ねが必要ではあるが、受けがどのように強くつかみどのように強く打ちこんでも必ず技がかかるということを経験する。これはこの「固い稽古」の段階で既に「合わせ」の稽古をしていると言ってよい。
そしてそのあと「気の流れ」に入るのであるが、「気の流れ」では受けは取りに合わせて動く必要は全くないのであって自由に攻撃してよいのであるから稽古そのもをできる限り実戦に近づけることができる。すなわち取りは受けの自由な攻撃に対して自信をもって対応し、受けの動きに自分(取り)の方から一方的に合わせれば技が成立するということである。
このとき指導者は取りと受けが「力のぶつかり合い」にならぬように細心の注意と指導が必要である。(第8章「岩間合気道の注意すべき点」参照)
言い換えれば、合気道における真の「合わせ」とは、合気会合気道のように取りと受けがお互いにその動きを合わせることではなく、岩間合気道のように取りが一方的に受けに合わせることによって否応なく受けを和合させてしまうことである。この真の「合わせ」もまた「固い稽古」を経験することによって初めて身につけることができるものである。
そしてこの真の「合わせ」が合気道を合気道たらしめる究極の要素となるのである。このとき多様な「当て身」が活用されることは言うまでもない。
前章とこの章との結論を言えば、一つは固い稽古で一つ一つの技の細かい「形」と「順序」そして「呼吸力」を鍛練し、もう一つはその「形」「順序」および「呼吸力」をもって取りが一方的に受けに合わせることに習熟すればそれが合気道における真の「合わせ」となり、この2つによって合気道の真の強さ(護身能力)は育てられると思うものである。