要旨
「勝ち負けを問わず強弱を争わない(争わざるの理)」という合気道の理念(哲理)は全く正しいものである。しかしながら、厳密に言うならばこの理念(哲理)は武道としての強さ(護身能力)において「絶対的強さ」(章末の(注)参照)を身につけることによって初めて真に理解できるものである。
私は合気会合気道のときは「固い稽古」がなかったために、ずっとあとの段階になって武道としての強さ(護身能力)に一抹の不安を抱いて過ごしてきた。しかし岩間神信合気道では先ずその強さ(護身能力)を段階的に身につけることを出発点としており、そのために「固い稽古」において一つ一つの技の「形」と「順序」が細かくきめられている。
この技の正確かつ細かい「形」と「順序」が合気道の強さ(護身能力)を決める基本的な要素となるのである。
初めに、合気道の強い弱いは現実にはその技が実戦の場面つまり「護身」に役立つかどうかできまると思う。それを客感的に判断することは難しいといえば難しいが、しかし長期間(30〜40年以上か)修業を積んだ者が冷静に判断すれば大体のところはわかるのではないだろうか。
技に力強さ(気力、呼吸力)や切れ味はあるかないか、合理的で無理なところはないか、相手の攻撃にうまく合わせているか、馴れ合いはやっていないかなどについてできる限り冷静に判断するわけである。もちろん実際の「護身」の場面は予期し難いあらゆる事態が生起するものであり、相手はかくされた凶器やそれに類するものを持っていたり、あるいは近くに仲間がいるかも知れず何が起きるかわからないのが実際の場面である。そのことをよく承知した上での話である。
さて、2代道主植芝吉祥丸先生はこのように合気道の「強さ」(護身能力)について云々することを否定され、「合気道は勝ち負けや強い弱いの次元を超越したものである。つまり戦う前から相手と和合してしまうのが合気道である」という哲理をもって合気道の真髄とされておられた。
あるいは「確かに強いに越したことはないが、もう一段武道を高い次元でとらえ強い人も弱い人もみんな相手と一つになって和合していく。それが合気道である」とも言われている。つまり2代道主は、「強さ」の必要性を一応肯定されつつも、それ以上に「和合」という精神面を最大限強調されておられるのである。
換言すれば2代道主は大先生のつくられた「合気道」の精神的な目標「和合」を前面に強く打ち出され「合気道は人間形成道である」という旗じるしの下に誰にでもできる合気会合気道を編集されたのでないだろうか。端的に言えば合気道を「精神武道」「哲学武道」として定義され、自ら新しい時代の新しい武道であると自負されたのではないだろうか。
こういう理念(哲理)を心に持つことはすばらしいことであり、誰もの気持ちが平穏になって戦わずして和していく雰囲気が醸し出されるものであり、合気会合気道のこの理念(哲理)そのものは間違いなく正しいものである。
しかしながら、そもそも武道というものの原点には、そういう精神的・観念的な理念だけではなく、同時に実践的・実技的な強さの存在が不可欠であり、究極的には( 「絶対的強さ」(章末の(注)参照)が要求されるのではないだろうか。
もちろん合気会合気道においても「実技」の面における「強さ(護身能力)」がないがしろにされているわけではない。
2代道主はその著書あるいは演武会において「合気道は表面の動きは丸く柔らかくてもその中心においてはしっかりとしたきびしさがなくてはなりません」ということををくり返し力説されておられる。つまり合気道は「きびしい中心の安定した移動」と「丸い円(球)の動き」とによって武道として十分役に立つのだということである。この発言自体も全く正しい。
しかしながら実際の技の習得方法ということになるとどうであろうか。
確かに基礎・基本の技の初めの稽古ではその形は一応きまっている(「規範合気道」基本編・応用編 — 第2章の年表の注3参照 )。しかしながら現実の稽古でその「気の流れ」の動きが流れていく段階になると「臍下丹田の中心を意識する」「気を出して力を抜く」「相手の動きを丸くさばく」あるいは「相手の攻撃線をはずして入り身する」というような一般的な表現が主体となりやすく、一つ一つの技の細かいところは見過ごされてしまい勝ちである。
なぜならば「気の流れ」は攻撃してくる相手の動きに合わせて初めから円運動に入ったり側面に入り身したりして動くために、一つ一つの技の形は概略はきまっていても細かいところまでをきめるのは難しく、最終的にはそれは稽古する者が自分で工夫し自ら会得していくという自己修練にまかせざるを得ないというのが実情ではないだろうか。「気の流れ」においては何よりも技が流れていくことが優先されるからである。
私自身の経験から言えば、真面目な人であればあるほど一つ一つの技についてどの方向から入ったらよいか、どう抑えたらよいかと自ら研究を重ねており、その姿はいじらしいほどのものである。私自身もいろいろと試行錯誤をやってみたが私のような一般人(アマ)が自分から最善の「形」を見つけだすということは至難のことである。
50〜60年以上修業されておられるプロの指導者の方々はすばらしい技をもっておられるけれども、初心者にとっては初めの段階で技の細かい形と順序を、なぜそうなるのかの理由も含めて、教えてもらいたいというのが本音ではないだろうか。
それは結局2代道主が大先生の技の中から「気の流れ」の一部分だけを抜粋されたからであり、初心者の段階から「技の流れ」が強調されるために、技の「形」と「順序」の細かい部分については最終的には各人が工夫・研究・試行して会得するということになってしまうためではないだろうか。
そして、10〜20年後になって自分の流れに相手が合わさなかった場合などを考える段階になったときに、私のように自分の強さ(護身能力)にどうしても一抹の不安を持たざるを得ない者も存在するようになるのではないだろうか。
一方岩間合気道では、初めの段階で相手にしっかりつかませてから動く稽古をするために一つ一つの技の「形」と「順序」が合理的に細かくきめられており、先ずそれをきちんと身につけることから始まる。これが「固い稽古」である。その正しい形や正しい順序は可能性のある相手のあらゆる抵抗を想定しそれを無効とするようにできており、そのとおりにやりさえすれば必ず技がかかるということが納得できる。
その代わり形ができないうちは動くことができないから、一回の稽古の中で少なくとも数回は「きびしい」と感じる。それは合理的なきびしさとでも言えるものであり、それを乗り越えればつかまれても動けるという喜びをもたらすきびしさである。ただし初心者や女性などを相手とする稽古では相手の体力や技量に合わせたそれなりの稽古をしなければならない。
これを第三者的に眺めると、岩間合気道の稽古は全体として合気道の合理性をきびしく「鍛練していく」という感じになるのに対して、合気会合気道の稽古は全体として合気道の合理性をお互いに「確認していく」という感じになるのではないだろうか。
以上を要約すると、合気会合気道においては「和合」という理念が実際の稽古においても強調され、取りと受けがお互いにその動きを合わせることが技の基本となっており、そのことが一つ一つの技の「形」や「順序」の細かいところを看過されやすいものにしているのではないだろうか。そしてそのことがずっとあとの段階になって自分の技に一抹の不安を感じる原因となるのではないだろうか。それは誠に残念なことである。
この章の結論を言えば、「固い稽古」で修得される一つ一つの技の細かい(概略でない)「形」と「順序」の合理性のレベル(精密度)の高さが合気道の強さ(護身能力)をきめる最も基本的な要素になると思うものである。