要旨

戦後合気道の復活を目ざした2代道主は大先生のきびしい合気道を一般人にもできる合気道にすることを考えられ、自ら「合気会合気道(合気会スタイル合気道)」を編集された。それは終戦直後までの大先生の技の中から「気の流れ」の一部分を抜粋したものであり、「固い稽古」は削除された。また「武器技」については大先生自身も当時まだ未完成の状態であり特に教育指導の方法については2代道主は理解されていなかったので採用されなかった。

しかしながらその精神性(和合の強調)と大衆性(技のとりつき易さ)とによって合気道を一部の者の秘技から一般大衆の武道とすることに成功された。その意味では2代道主の功績は誠に大きい。

もちろん合気会合気道にいくつかの優れた点があることは言うまでもない。

精神的に相手との和合を第一に考えること、宇宙の気・相手の気と一体になるよう努めること、そしてとりつき易く稽古が楽しいことなどである。そして私自身の経験から言って少なくとも入門してから相当の期間は、すばらしい近代武道として護身にも、健康にも、仕事にも、日常生活にも役立っていくに違いない。

一方、大先生自身は岩間においてさらに修業研鑽を重ねられ、体術の技を改良されるとともに、体術と武器技の理合(りあい)の完成をなしとげられる。

私の経験では合気会合気道も実際の「護身」の場面で役に立つことは事実であるが、同時にいろいろの実戦場面を考えるとその「護身」に一抹の不安が残ることも事実なのではないだろうか。

ではどのような経緯を経たためにそのようになってきたのであろうか。これについては少し長くなるが歴史的考察を加えて記述してみる。

昭和20年代、日本の社会は戦後の混乱と食糧難の時代であり(当時私は中学・高校生であった)、岩間におられた大先生は自給自足の生活をされ、一方東京におられた2代道主は会社勤めと合気会をつくり上げる仕事とを両立させねばならなかった。大部分の日本人は生きていくのがやっとの時代であるから、その労苦は筆舌に尽くし難いものであったと想像される。

2代道主は一部の特別の人間のきびしい合気道よりも誰でもがやることができる合気道にするべきだという考えから、大先生の教えの中から体術の「気の流れ」の一部分をとり上げ、これを教えやすいように分類、編集、名称付けされ合気会合気道の技とされたのである。

当時塩田剛三先生は大先生の戦前の技を土台とする独特の合気道を教えられており、昭和30年代に入ると自らその養神館合気道をもって合気会から独立され、主として警察・企業団体などを中心に普及されていった。

一方、2代道主はそれに対抗してその合気会合気道を大学・市民スポーツクラブなどを中心にして普及していく方法をとられたのである。

2代道主自身は大先生の子息として「固い稽古」も修業されたはずであるから、2代道主がその「固い稽古」を削除され「気の流れ」だけにされた真意を考えてみると、大先生の名人技をそのままの形で一般大衆に教えることは到底不可能と判断され、大先生の「和合」の精神を前面に押し出し、技は誰にでもできてとりつき易い「気の流れ」のみの合気道にしようとされたと考えるのが妥当である。

もう一つは合気会設立当時は進駐軍によって武道が禁止されていたという社会的な背景があり、合気道の実技面の「強さ」を強調するよりも「和合」という精神面(理念)を強調することで当時の社会状勢(平和主義)に適合し、政府の公式認可(昭和23年)を得られやすくするという配慮も働いていたのではないかと考えられる。

このことに対して大先生はどう考えられておられたのであろうか。

もちろん反対はされなかった。しかし昭和30年代後半に合気会合気道が日本だけでなく世界へ急速に普及し始めた頃、大先生は本部道場において内弟子達(この中から多くの指導者が生まれ活躍されている)に向かって「これからの社会では一般の人には武道は必要ない。しかしお前達は武道をやれ」という趣旨のことを言われたそうである。—合気ニュース第102号(平成6年10月)千葉和雄先生会見記—

これは合気会合気道を遠回しに評価された言葉ではないだろうか。つまりご自分がやってこられた武道的な強い合気道とご自分の子息(2代道主)が広められつつある精神的かつ大衆的な和合の合気道との違いを認められて、それを自分自身に納得させるために言われたのではないだろうか。

当時の演武会で披露される大先生の「気の流れ」の技はまさに合気道の究極の姿であるから、見物する大衆は魅了され、自分も修業次第でこんなすばらしいことができるのならという強い誘惑を感じたものである。従って一般大衆は「合気道」イコール「気の流れの技」という観念を何の疑問もなく受け入れ、それが現在も引き継がれているのである。

岩間スタイルに出会うまでの私もまたその一人であった。

しかしながら今になって考えてみると、先ず「動かない稽古(固い稽古)」から始めて、次に動く稽古に移り、しかもその速度を次第に速めていくというのが武道としての本当の道筋ではないだろうか。大先生自身もまたその道をたどられたのである。先生の「わしは固い稽古を60年やったから今日がある」という言葉を当時の2代道主はどう聞いておられたのであろうか。

それはともかく、当時2代道主がとられたこの方策は成功し、その後の本部師範部長藤平光一先生との確執も乗り越えられて合気会合気道は爆発的に普及していったのである。従って合気道という名を世に広めたのは2代道主、塩田剛三先生、藤平光一先生などであり、そういう意味ではこれらの方々の功績は誠に大きい。

もし合気会合気道が存在しなかったならば、私自身もまた合気道そのものに出会う機会を持つ可能性は小さかったかも知れない。その意味においては私は今でも2代道主に感謝している。

一方、岩間における大先生はこの頃黙々として「合気道の完成」に打ち込まれていたのである。まさにこの時期に大先生は2代道主とは別の方法(さらなる合理性の追求)によって合気道を特別の人ではなく誰にもできてしかもより強い合気道にまで改良させていかれたのである。

 

現在の合気会合気道と岩間合気道の体術の同じ技についてその合理性のレベルを比較してみるとそこには大きな差があり、この戦後24年間の岩間における合気道の進歩がいかに大きなものであったかがわかる。その意味では「戦後岩間の24年間で大先生の真の合気道は完成された」と言っても過言ではないと思っている。 第2章「年表」および 論文補足資料「 具体的な相違点 」(4)—①項(6)—①項など参照)

さらに次章で記述するように岩間にあった大先生は昭和30年代に体術と一体となった武器技(主として剣・杖)を完成されるのである。残念ながら東京におられた2代道主はご多忙ということもあって、遂にこの武器技を取り入れることができなかったのである。

 

2代道主も戦前すでに剣・杖の稽古を積まれ合気道の体術の技が剣の動きから出たものであることは早くから認められておられ、その著書を読むと両者の関係をよく理解されておられたことがわかる。(植芝吉祥丸著「合気道のこころ」第4章「剣の理合いを体現した手刀と四方投げ(P117) 講談社、昭和56年10月28日)

しかし新しい武器技とその体術との共通性(剣・杖・体術の理合)となると、残念ながら時期的・位置的な運命によって、それらを全体的かつ系統的に教わることはできなかったのではないだろうか。

今日、合気会本部の見解は「正式には合気道には武器技はない」としながら、何人かの高段者の方が体術の技を向上させるための補助手段として独特の武器技をつくられ精進されているのは黙認している。

これらの方のご努力には深甚なる敬意を表するものであるが、しかしそれらは大先生の行き方とは逆に体術に合わせた武器技を考案されている場合が多い。ということは体術の形がわからなくなったとき武器技に戻ってみると体術の正しい形がわかるという大先生の剣・杖および体術三者一体の武器技とは方向が逆になっている場合が多いのではないだろうか。

では合気会合気道の優れた点は何か。

第一に精神的な理念が重視され、自分の気を宇宙の気(宇宙万有の活動)と調和させるように、彼我関係において強弱・勝ち負けを考えずに相手と和合するように、合気道を通じて人間的に成長して正しい日常生活を送るように教えられることである。

このことは究極的に言えば岩間合気道も全く同じであり、自己の人間形成はすべてのスタイルの共通の目標であると言ってよい。

第二に実技的な面では「気の流れ」においては力を抜きリラックスして臍下丹田を意識し、そこから「気」の力を発揮せよと教えられることでる。これも「初心者」に対しては「気」という言葉を「呼吸力」という言葉におきかえれば全く正しいことである。そして技の練度が向上した後で「個人の気を宇宙の気と一体化すれば最高の力が発揮できる」と指導することもすべてのスタイルに共通の考え方であると言ってよい。第3章末の補足説明を参照されたい。

第三に「気の流れ」は「形」の反復というより相手の動きに合わせて動く「流れ」の反復であるから、その時その時の途中の細かい部分が少し違ったとしてもあまり問題にはならず、それだけ初心者にはとりつきやすいということである。

この点は正に2代道主の意図されたとりつき易い大衆的な合気道の特長であると言ってよいであろう。

第四にお互いに相手の動きに合わせて動くことから知らず知らずのうちに協調の精神が養われ、稽古そのものがきびしいというより楽しいということであろう。この点もまた2代道主が意図された「和合」の精神の発露であり、入門後少なくとも10〜20年ぐらいの間は誰でもが味わうことができる特長である。

大先生の唯一の著書「武道」(200部限定出版、昭和13年6月、論文補足資料「まえがき」参照)の中の「練習上の心得」に「練習ハ常ニ愉快ニ実施スルヲ要ス」と書かれているように、稽古が楽しいということはすべてのスタイルにとっての必要条件である。

第五に2代道主を初めとする指導者達の並々ならぬご努力によって国内および海外へ広く普及され、現在では指導的立場に立つ人や道場の数も多いので稽古相手に事欠くことはないということである。

以上のような優れた点があるから、現在合気会合気道を稽古している人達は自分の修業を積みさえすれば実際の護身の場面でも十分役立つものと信じ、日夜研鑽努力されているに違いない。そして、その「気の流れ」のみで武器技がないという合気会合気道の特徴も将来ずっと変更されることなく続いていくのであろう。

 

いずれにせよ2代道主が意図された「和合」を重視する合気道、大衆化されてとりつきやすい合気道の特長はその後の発展の中で如何なく発揮されて、それが現在合気会合気道が国内および海外に広く普及されている原動力となってきたことは万人の認めるところである。