要旨
私は入門以来合気会合気道をすばらしい武道であると思って精進を続けてきたが、20年余り後に出会った岩間神信合気道が強さ(護身能力)を身につける効率性において合気会合気道より優れたものであることを発見した。
合気道の究極の「目標(理念)」はどちらも同じ「和合」であるけれども、それを実現するための「武道としての合理性(効率性)」において両スタイルの間には大きな差があるのではないだろうか。
前述のように私は合気会合気道を通算して20年余り稽古してきたが、その経験を改めて反省してみたい。
先ず初めの入門期の3〜5年は先生の指導に従って「正面打ち一教」から始めていくつかの基本技(気の流れ)の稽古に取り組んだ。その過程で「中心」と「気」が強調され、自分の中心(臍下丹田)から「気」を出し、相手の「気」を導き、宇宙の「気」と和合する(一体となる)ように教えられ、そのことに精神を集中し「力」を抜くことに努力した。
「気」についてはこの章の末尾の補足説明を参照されたい。
有段者になれたときの喜びは誰しも同じであるが、合気道は健康にはいいし、年をとってもやれるし、日常の生活にも役立つし、漠然とはしていたが、この「気」と「和合」の考え方をもってさらに精進していこうと誓ったものである。
同時にこの頃から自分の技は果たして実際の護身の場面で本当に使えるのだろうかということを考え始め、技の「形」についてああしたらこうしたらといろいろ試行錯誤をくり返したように思う。
入門から15〜20年を経過し、2段、3段‥‥となって一応人並みに「気」がわかり、人並みに「形」もできてきたと思うころ、今ふり返って考えると依然として自分が技の上では取り立てて進展がなく(一つの壁にぶつかり)、あとは自分の精神(人格)をみがかなければだめなのかと精神的なものに解決を求めていたように思う。
言い換えれば自分の強さ(護身能力)について表面的には強く意識していなかったとしても心の底には何か一抹の不安が残るという状態を脱することができなかったのではないかと思う。
そして入門後25年余り経って初めて岩間合気道を知る機会を持ったのであるが、そのとき「これは本物だ」という強烈な印象を受けたことを覚えている。
2代道主はその著書の中で合気道は実技だけてなく人間形成に励まねばならないことを強調され、武道そのものが持つ強弱・勝敗の観念や破壊的・非人間的な面をできるかぎり排除しそれを乗り越えねばならないと説かれている。そして、それは2代道主の高貴なる信条・哲理としてよく理解できる。しかしながらその人間形成のためにも先ず自分の実技を信頼できるものにすることが必要なのではないだろうか。
簡潔に言わせていただけば、合気会合気道の技は入門段階から「気の流れ」で始まるために、その「形」は岩間合気道の「固い稽古」と比較するとどうしても細かい部分は見過ごされがちとなる。
そして10〜20年という年月が過ぎて、各人の努力によって技の「形」は少しずつ合理的な方向へ改善され技のスピードも速くなることは確かであるが、実際の場面をアレコレと想像したときに壁にぶつかるということになるのではないだろうか。
以上のことを言い換えると、合気道は「理念(哲理)」と「実技(熟練)」の両者が相伴って確立されることが最終的な「目標」なのであるが、合気会合気道は「実技」の第1段階から「気の流れ」であるため初めはとりつきやすくて短期的には効率的であるように感じられるのに対して、岩間合気道は第1段階では「固い稽古」を鍛錬しそのあと第2段階として「気の流れ」に移るため長期的にみればより効率的に目標に近づくことができるということである。
言い換えれば、武道として長い目でみれば岩間合気道は合気会合気道より効率的に技が修得でき(護身能力が身につき)、それに本当に意味の「和合」の精神が加われば合気道の目標(奥義)に近づくことができると考えるものである。
以下の各章においては、何故このような違いが生じるかについて改めて基本に戻ってくり返し記述していきたい。
(補足説明)「呼吸力」と「気」について
先ず「呼吸力」とはわれわれの呼吸による力である。普段われわれは口、鼻そして全皮膚を通して呼吸をしているが、リラックスした上でその吐気をある一点(例えば手刀の指先)から集中して吐き出すように意識するとその一点は必要な筋力に呼吸力が加わってきわめて強力になる。合気道は「呼吸力」がなければ成立しない武道であるから、スタイルに関係なく稽古の前後に呼吸力の鍛練が行われており、余計な力が抜けるようになれば一人前であると言われている。
次に一般的意味での「気」とは全宇宙を満たしているエネルギーのような存在であり、われわれはその存在を神とか仏とかという言葉で呼んでもよい。そういう「宇宙の気」は当然われわれの一人一人の肉体をも満たしており、リラックスしてその「気」を意識するとき、われわれの精神は充実し最も強力な力を発揮することができる。
ここで注意すべきことは武道の世界では厳密に言って「呼吸力」イコール「気」ではないということである。「呼吸力」のみでは「気」になるには不十分なのである。先ず初めに「筋力」があり、それに技の正しい「形」や「順序」が加わり、さらに真の「呼吸力」が加わり、さらにまた受けに対する「合わせ」が加わり、そういうすべてのものが加わった結果として出てくる総合的な力が真の「気」なのである。
従って初心者に対しては技の正しい「形」「順序」そして「呼吸力」を指導することが最優先事項であり、安易に「気」という言葉を使うことは武道的に言えば単なる幻想を持たせることになりかねない。初心者の段階では「呼吸力」という言葉を使うべきであり、究極的に「気」という言葉に至るべきであろう。