大先生の晩年と齊藤守弘先生の業績

第2次世界大戦真っ最中の昭和17年(1942)、大先生は奥様とともに東京から茨城県岩間の里に移住されました。そのあと昭和44年にご逝去されるまでの28年間の岩間での生活について、2代道主はその著書の中で「東京の合気会の活動の後ろ盾となって支援をされながら、あとは武農一如数人の内弟子を相手に悠々と稽古を楽しんでいるはずだったが、実は朝から夜まで矍鑠(かくしゃく)として道場に立っておられた」(「合気道一路」植芝吉祥丸著、平成7年、芸術出版社 P160 以下 )と記述されておられます。

 

そのとおりです。この間の大先生は一貫して武器技と体術の両方の研究・改善を続けられ合気道のさらなる合理化を進めておられたというのが真実です。このうちの23年間は昭和21年(1946)に入門された齊藤守弘先生とともに過ごされた期間であり、齊藤先生ご夫妻は大先生ご夫妻の日常生活の面倒をみられ農業を手伝いながらの生活をしておられました。

特に武器技については大先生と齊藤先生との一対一の稽古であり、系統的に武器技を受け継いだ人は齊藤先生以外に誰もおりません。(本論文第10章「年表」参照)

 

昭和30年代に入って(1955以降)大先生は70才を超えておられましたが、武器技と体術との統一された理合いに到達され、それが今日岩間神信合気道(岩間スタイル合気道)といわれる合気道の真髄になって残されております。東京に住んでおられた2代道主もこのことに気づかれてはおられたのですが、ご自分の合気会合気道が世界中に急速に普及発展しつつありましたため多忙をきわめておられ、これを取り入れることなくそのままご自分の道を進まれたのです。

 

昭和44年(1969)大先生はご逝去のときを迎えられます。(86才)

 

ここで大先生の晩年のご心中をお察ししますと、ご子息の2代道主に対する親子の情愛とご自分が岩間で完成させた合気道に対する執着という2つのものの矛盾の中で人間的な悩みを抱かれながらも何とかそれを乗り越えようとされていたのではないでしょうか。特にご自分が晩年に岩間で集大成された系統的な武器技について2代道主が理解されていなかったことを心残りにされていたものと想像されます。

 

大先生ご逝去の翌年、齊藤守弘先生は合気会茨城道場長および合気神社社守に就任され、道場・神社全般の維持・管理・運営そして毎年の合気神社大祭の実質的な執行にあたられました。

昭和48年(1973)齊藤先生は最初の著書「合気道(剣・杖・体術の理合)」全5巻を出版されます。後に、齊藤先生はこれによって大先生の合気道の基本的なものはすべてまとめられたと考え、これが合気道の決定版になると思ったと言われております。

 

しかしながら実際の稽古となるとそう簡単にはいきませんでした。その強さを強調しすぎたことも影響して高段者の中には形が完全にできていないままに力で技をきめようとする「がんばり稽古」が多くなり、時には相手を痛めつけたり、怪我をさせたりする事例がしばしば発生しました。これがいわゆる初期の岩間スタイルの時代であり、東京からは「力の岩間スタイル」「齊藤しかできないスタイル」と非難されました。

 

齊藤先生はいろいろと考えて試行錯誤を続けられました。それは長くて根気のいる道のりでした。

そして結局、武器技も体術も基本の一つ一つの動作にまで戻って(必要なら番号をつけて)丁寧に教えなければならないということに気づかれました。つまり武器技の「素振り」と体術の「固い稽古」の重要性に改めて気がつかれたということでもあります。

齊藤先生がこの「段階的指導教育法」を工夫考案されるまでには実に10年以上の年月を費やしておられることを忘れてはなりません。

 

こうして昭和60年代(1985以降)になってからようやく大先生の合気道が一般社会人にも稽古できるようになります。重ねて言えば、武器技と体術は初心者の段階から同時に稽古すること、武器技は素振りの鍛錬から入ること、体術は「固い稽古」(相手にしっかりつかませる稽古)を鍛錬しそれができたあとゆっくりと「気の流れ」(相手の動きに合わせる稽古)に入るということです。

 

以来25年余り、「岩間神信合気道」は現在はまだ少人数ではありますが「大先生の合気道」として国内外に次第に普及されつつあります。

齊藤先生は、平成6年(1994)から平成9年(1997)にかけて畢生の著書「武産合気道」全6巻(新装版は全2巻)を出版されますが、上記の5巻本とともにこの中に大先生と齊藤先生の生涯の業績が結晶されていると思います。

 

平成14年(2002)齊藤先生もご逝去のときを迎えられます。(74才)

 

大先生と齊藤守弘先生、お二人の武道家の生涯をかけたご努力によって、大先生が晩年に岩間で完成された合気道は「岩間神信合気道」として後世に残されていくという事実をどうぞご理解いただければ幸いに思います。

                                               (終)

(平成24年9月22日 記)