2014年の映画・演劇 評論






  ショーシャンクの空に     シアタークリエ

あらすじ: ショーシャンク刑務所に、浮気した妻とその相手のゴルファーを射殺した罪で、終身刑を言い渡されたが、殺してはいないと主張する元銀行員のアンディ・デュフレーン(佐々木蔵之介)が送られてきた。アンディがこれからの人生を過ごすショーシャンク刑務所は、看守と凶悪な囚人の暴力が支配する”希望のない世界”だった。その刑務所で外部と接触し、欲しい物を仕入れる調達屋のレッド(國村隼)と親しくなったアンディは、趣味の鉱石を採取する小さなロック・ハンマーと好きな女優リタ・ヘイワースのポスターを手に入れた。暴力で他の囚人たちを脅かすボグス(谷田 歩)のグループからもたびたび暴行を受けるが、アンディは彼らに屈することなく、看守や刑務所長スタマス(板尾創路 いたおいつじ)の節税対策や不正に金を隠す二重会計帳簿作成に力を貸し、徐々に刑務所内での存在を示すようになり、仮釈放の芽も生まれてきたが、脱税が発覚することを恐れたスタマス刑務所長は、無実の話を封じ込め、いつまでもアンディを刑務所内に留める気だった。仮釈放が叶わないと分かったアンディがついに。。。


女性という華のない男だけの刑務所だけど、よく練られた舞台になっている! 

 原作本は、スティーブン・キングの「刑務所のリタ・ヘイワース」があり、この本は、1994年に映画として「ショーシャンクの空に」のタイトルで公開されていて、私も観ている。もう誰が出ていたのか記憶も定かではない程度の映画だったが、今般調べると、元銀行員のアンディ役はティム・ロビンスで調達屋のレッドは、モーガン・フリーマンだった。映画の最後のメキシコあたりで、刑務所を出た二人が再会する場面は、舞台をみて思い出した。

 この原作を、ロンドンで舞台化したものを、小川絵梨子が日本語に翻訳し、白井 晃の演出で今回の舞台公演となっている。

 舞台構成は、刑務所の中ということで、多くの鉄格子が上から下まで伸びていて、それらが、話の展開に従って移動し、独房になったり、中庭になったり、また図書館になったりする。

 新しく刑務所に入ってきた、佐々木蔵之介ら3人の囚人が本当に素っ裸にさせられるシーンは、いかにもロンドン発の舞台という出だしだ。舞台回しは、調達屋をやっている國村隼。休憩を挟んだ2幕で、1幕目が約60分、2幕目は約85分とかなり長い舞台だった。

 1幕目は、無実であるアンディがいつかこの刑務所を出られるという希望をもっていても、もう暴力だけが支配する刑務所では、そんな甘い希望は到底叶わないのだということで、看守たちの囚人に対する暴力だけでなく、囚人グループがアンディへ性的暴行を強制するシーンなどが多くてあまり、舞台の雰囲気には入り込めない。

 しかし、2幕に入り、新しく若い囚人トミー(三浦涼介)が、アンディの無実の話を持ってくるあたりからは、随分と面白くなる。
でだしの話の設定から刑務所内で過酷な生活を送るアンディだが最後には無実が証明されて、明るいシャバに出られてめでたし、めでたしとなると想像したが、これがそうではないという展開が面白い。

 第1幕で出てきた小さなロック・ハンマーと女優リタ・ヘイワースのポスターが最後に活かされるとは、よく出来た脚本だ。

 この遠大な計画を完成させるためには、前半にかなりの時間・年数が必要だったのだと分かる。

 舞台回しをやる國村隼の立ち位置が、見事に決まっている。
多くの場合、他の役者が中心になっているシーンでは、つい気を抜いた姿勢となり、また相手のことよりも自分の次の準備にかかりやすいが、國村隼にはそのようなことはなく、舞台全体を見守っていて良い演技だ。

 また、称賛したいのは、刑務所長を演じた板尾創路だ。
彼は関西のお笑いの人だけかと思っていたが、今回の冷酷な刑務所長役も見事にこなしている。
発声も良くて貫禄も出ておりうまい演技だった。

 20人近くの男たちだけの暗くて暴力が中心の舞台だったが、観終わって感動は残る出来映えだった。

  フューリー     

あらすじ: 第二次世界大戦も終わろうとしていた頃。連合軍として北アフリカからヨーロッパ戦線と激しくドイツ軍と戦ってきた1台のアメリカ軍のシャーマン戦車がドイツ国内の戦いに加わっていた。その戦車の砲塔には「フューリー Fury(激怒、復讐)」と書かれていた。戦車には、ウォーダディー(ブラッド・ピット)をリーダーに5人の乗員がいたが、戦闘で操縦手を失い、新しく19歳の何も知らないノーマン(ローガン・ラーマン)が配属されてきた。次の命令は、歩兵たちと共に、5台の戦車でドイツの町を攻略するものだったが、ノーマンの判断の遅れで戦車が1台破壊されてしまった。ドイツ軍の攻勢も激しかったが、どうにか町を制圧し、兵隊たちはしばしの休みをえる。まもなく彼らに与えられた命令は今までよりも厳しいもだった。それは戦略上の要所である道を本隊が来るまで確保しろというものだった。4台となった戦車隊は目的地に向かうが、途中で、ドイツ軍の誇る優秀なティーガー戦車の砲撃を受け、仲間の戦車は次々と破壊されていくなか、どうにかティーガー戦車を破壊できたが、目的地に着いたのは、フューリー1台と5人の乗員だけだった。しかも、敵が敷設した地雷を踏み、キャタピラーが壊れたフューリーはもう動くことが出来なくなっていた。敵の精鋭部隊、300人に遭遇したフューリーと5人の戦いが始まる。。。


女:戦争の虚しさが途中から消えて、ヒーローだけが記憶に残るわね! 

男:監督は、デヴィッド・エアーで、主演のブラッド・ピットが製作と総指揮をしたようだ。
女:俳優も歳を取ってくると、今までは監督の言うなりで演技をしていたのが、自分のやりたい方向で演技もしたいということね。
男:そうだね。映画俳優としてよくある選択だ。
女:それにしても、映画とは関係ないけど、あなたのスケジュールでは毎年、11月終わりから12月、1月は、マンション管理士と管理業務主任者の試験問題の解説なんかで大忙しなのによく映画も観てるわね。
男:本当に、私が別のサイトで運営している「目指せ! マンション管理士・管理業務主任者」では、試験が終わると、問題文をテキスト文にして、時間と法律などの専門家としての知識が要求される面倒な解説を始めていて、暇が無いけど、たまには気分転換に映画も観ないと、面白くないからね。
女:今年の年末も特に観たいという映画はないわね。
男:年末・年始は、気持ちよく笑える娯楽性の強い映画を公開して欲しいものだね。
女:例えば、あなたが大好きな「フーテンのトラさん」シリーズってことね。
男:まあ、年末の映画の公開はアメリカでも娯楽性があるものが公開されているようだけど、アメリカの封切りと日本での公開はどうしても時間の遅れがでるので、この映画「フューリー」のように、深刻な内容の映画が日本では年末に公開されたんだね。
女:戦争が持つ悲惨さは、充分に描かれているわね。
男:戦場を何年も経験してきたブラッド・ピットが演じるウォーダディーや他の戦友にしてみれば、敵を殺すことは当たり前で、また敵を殺さなければ、明日は生きていけないということも事実だけど...
女:どうして日常生活では一人を殺しても殺人罪で咎められるのに、戦争という状況では、敵というだけで、彼らを殺せば殺すほど英雄になれるのかという、愚かな人間が過去から犯している過ちに対する批判の精神が欲しいということよね。
男:やられたらやりかえすという「復讐」は、まったく終わりがないということは、未だに、何十年に渡ってイスラエルと周辺の国で続いている紛争をみれば分かるのに、どうして、国境とか宗教・人種が絡むと、他の人たちとの妥協や寛容の気持ちがなくなるのだろうか。
女:上辺では国民のために奉仕することになっている政治家が、自分の地位が危うくなると国民の眼を外に逸らせるために戦争を利用しているのよ
男:戦車の名前が「フューリー」となっているのは、復讐や怒りをもって戦争をしても、結果は虚しいのだということだ。
女:新兵のノーマンが経験する無抵抗の敵を殺したり、子供でも敵なら殺さなければならないということは、戦争であっても許されない行為ということなのね。
男:その主張が前半ではかなり出ていたけど、後半のドイツ戦車とアメリカの戦車同士の戦闘シーンあたりから、かなり戦闘の方が優先して、戦争批判が無くなっている。
女:映画を製作していく上で観客のうけを狙った構成にしたってことね。
男:動きのとれない壊れたタンク1台で、300人のドイツ兵をやっつけるとは、もう、シルヴェスター・スタローンの「ランボー」を観ているようで、主人公の打つ弾は敵に正確に命中すのに、ドイツ兵の撃つ弾はほとんど当らないとはもうあきれたね。
女:ドイツ女性の家でブラッド・ピットたちが休憩をとるあたりから、もう、真実性からかなり離れた映画になっていたわよ。
男:たえず緊張感を与える編集や狭いタンクの中での動きを捉えた撮影のうまさはあるけどね。
女:あれだけ激しい戦闘をしても、ドイツ兵のお情けでノーマン一人だけが殺されないで生き延びたというくだりも、よくあるアメリカ映画の徹底しない終わり方でおかしな気分だったわ。
男:結局、観終わってみれば、戦争でのヒーローを描いただけだったということか。
女:もうこんな映画ばかりだったら、映画にかけるお金を私にくれない?
男:映画を観ないとこの「「映画・演劇 評論」のホーム・ページも更新が終わるけど。
女:それでも良いんじゃないの!
男:うっ・・・

ブラッド・ピットの: 「それでも夜は明ける」 (2014年)、「悪の法則」 (2013年) 



  西遊記 はじまりのはじまり  (中国映画)  -日本語吹替え版-   

あらすじ: とある川辺の村でのどかに暮らしている村人が突然水に棲む妖怪に襲われて多くの犠牲者がでるようになった。そこで、妖怪ハンターの新人:玄奘(げんじょう。ウェン・ジャン)は、師匠から授かった妖怪の善の心を呼び戻す極意書「わらべ歌 300首」を持って退治に出かけたが、「わらべ歌 300首」は、水の妖怪には効き目がなく、逆に襲われ危うく命を落としそうになったが、女性の妖怪ハンター:段(だん。スー・チー)に助けられ、水の妖怪は退治された。まだまだ修行が足りない事を悟った玄奘は旅にで、山奥にあるが繁盛している料理店に入る。その店で出される旨い肉は、実は豚の妖怪が襲った人間の肉だった。玄奘もその店で豚の妖怪に襲われるが、またも段が現れ、玄奘と段は協力して凶暴な豚の妖怪を退治しようとしたが逃げられてしまった。獰猛な豚の妖怪を退治できるのは、仏によって五指山の祠に500年も閉じ込められている孫悟空(ホアン・ポー)だけだと師匠に言われた玄奘は、悟空の力を得てどうにか、豚の妖怪を退治することができた。しかし、悟空は玄奘を騙して外の世界に出てくるや、元々持っていた凶暴性を現し、玄奘や他の妖怪ハンターを襲い、ついに段も悟空に殺される。玄奘の「わらべ歌 300首」で本当に妖怪は退治できるのか。。。


妥協、遠慮のない展開は、腹の底から大笑いできる! 

 話は、「西遊記 はじまりのはじまり」とうたっているから、これは、お馴染みの玄奘こと三蔵法師が、猿の孫悟空、河童の沙悟浄、猪の猪八戒の3匹のお供を従えて、中国から天竺まで苦労しながらお経をとりにいくという有名な「西遊記」に繋がる物語の元となるということだ。
監督は、今までと違ったありえないタッチで「少林サッカー」や「カンフー・ハッスル」を描いた香港のチャウ・シンチー(周 星馳)だ。
彼が、製作をし、脚本も書いている。

 川の妖怪:沙悟浄は河童ではなく、鯉が変化したものとなっているが、豚の猪八戒、猿の孫悟空はそれらのイメージで登場する。
妖怪といっても、妖怪になる前には、優しい気持ちの持主で、子供の頃にお母さんが歌ってくれた「童謡」で、無垢な「善」の気持ちを取り戻す筈とは、出だしから笑わせてくれる。

 この川の村での妖怪退治の場面では、シーソーという古典的で素朴な物をうまく使っていて面白い。
場面全体から、監督の笑わせてやるという意気込みが伝わり、テンポの良さが活き活きとしている。
今のハリウッド映画や日本映画にしても、子供や女性に対しては、あまり残虐な死に方や暴力的な扱いをすることを躊躇っているが、笑いを追及するチャウ・シンチー監督の采配では、子供も死ぬし、女にも遠慮のないパンチが襲いかかるのが、気持ちがいい。

 後に天竺までお経をとりに行く程の名僧となる三蔵法師も若い頃には、彼を必死に想ってくれる女性もいて、その恋には悲しい結末が秘められていたとは、笑わせる中にも一本筋を通しているからうまい。

 「少林サッカー」や「カンフー・ハッスル」でも、チャウ・シンチーは、まったく「ありえねー」人物や状況を設定して楽しませてくれたが、今回の「西遊記 はじまりのはじまり」でも、想定外の者・物を、またまた出してくれる。

 巨大な右足で踏みつける「足じい」もまったく目新しいキャラクターで感心するが、それ以上に病弱な「空虚王子」の輿を運ぶ4人の地元の普通のおばさんは、本当に普通な容姿で、このセリフがおおいに笑える。

 洞窟に閉じ込められている青白い顔をし頭の禿げた悟空にしても500年という時間を考えるとすごい想像力での設定だし、この洞窟内での、玄奘と悟空のやり取りは、もう完全にアドリブ的でまたまた噴出してしまう。

 仏と悟空との戦いは、少しばかり物足りないが、悟空の頭に着けられた輪は女性妖怪ハンター:段の武器だった輪だったとはいい纏め方だ。

 今回は、日本語吹替え版の2Dで見たが、段の声を演じた貫地谷しほりもラブ・シーンでの情感は足りないが、他は問題ない。
画面としてはかなり3Dの効果を狙ったようで、3Dで上映されていると、もっと面白いかも知れない。

なお、段を演じたスー・チーが段々と、綾瀬はるかに見えてきますよ!
また、日本のテレビ映画「Gメン ’75」の曲も使われています。

  紙の月    

あらすじ: ある銀行のパートから契約社員になり外回りの営業になったばかりの主婦:梅澤梨花(宮沢りえ)だったが顧客の老人たちの評判もよく、真面目に成績を上げ、給料もよくなってきた。夫:正文(田辺誠一)との間には子供がいなかったが、最近は上海へ出張することが多く余り梨花の気持ちを察しない夫に対して、梨花は以前は意識しなかったすれ違いを感じるようになった。そんな時、顧客の平林(石橋蓮司)の家で出会った孫の大学生の光太(池松壮亮 いけまつ そうすけ)に魅かれ、ついに二人は一線を越えてしまった。光太との逢瀬は楽しかったが、光太が滞納している授業料を出してやったり、二人の逢引用のマンションを借りたりとお金がかかる関係になり、ついに梨花は、顧客から預った銀行の金に手をつけてしまった。最初は、200万円の証書を偽造したがその横領がばれなかったので、次から次へと横領をかさね、その金はホテルのスイート・ルームで豪遊滞在などをして無くなっていた。銀行では窓口の責任者:隅より子 (小林聡美)が梨花の横領に気がつき上司:井上(近藤芳正)に箴言するが、銀行の対応は鈍かった。その間にも、梨花の横領は続き、その額は巨大なものとなっていった。。。


練られていない箇所も多いが、だめな男に尽くす主婦のあせりは充分に描かれている! 

 原作には、角田光代のかなり登場人物も多く場面も日本以外にタイに飛ぶなどあちらこちらがでてくる長編小説があり、それを早船歌江子が映画用に整理し纏めた脚本を書き、吉田大八が監督をした。

 タイトルとなっている「紙の月」とくると、私はすぐに、ナット・キング・コールが歌う「It’s Only A Paper Moon」という歌を思い出した。
歌詞の内容は、あまりはっきりと憶えていないが、「キャンバスに書かれたお月様は、見せ掛けの物だけど、信じれば、本物さ」というようなものだった。

 それはさておき、私の頭の中では、まずあの少女時代にお笑いコンビの「とんねるず」とふざけていた、まだあどけさの残っている頃の宮沢りえがあり、その後貴乃花との婚約が破局し、やつれ果てていた彼女が、今はもう年下の大学生に身をゆだね、少し大胆なSEXシーンをこなす主婦の役をやるまでの年齢になったのかという感慨の方が強く残った映画だった。

 冒頭の人妻:梨花が大学生:光太と出会い、二人がラブ・ホテルへ行くまでの過程においては、かなり端折った描き方で、この程度の付き合い方ではかなり平凡な人妻なら、肉体関係までを持つまでに発展するのは無理だろうという域から脱していない。
主婦の感情の盛り上がりと若者が人妻に惚れるという両方の描き方が足りないのだ。

 そして、当初は金持ちのエロ爺であった筈の平林が、エロ爺ではなかったことや、終わりの場面で梨花は、銀行の金を横領したことがばれ、銀行の窓を壊して逃走し、無事に海外(タイらしい)で暮らしているのだけれど、これもいくらなんでも銀行からの連絡や日本の警察の力があれば、そう簡単には日本から海外へ逃走できるとは考えられず、ここも、どうしてうまく逃げられたのか説明が欲しい。

 でもそれらの不都合さを補う内容が銀行という場を中心に描かれている。
男と女の不倫関係、会社の業績を上げるための不正操作、老人を騙して奪うお金。
そして、父親の財布から盗んでまでもする寄付行為。
通常、やって良いこととやってはいけないことは区別されている。
しかし、やってはいけないことを「ありがちなこと」として一度行ってしまうと、もう歯止めが利かなくなる人は多い。

 越えてはならない一線を越える人は少ない。
一線を越えた人だけが、一線を越えられない多くの人が経験できないことを経験できる。
たとえそれが失敗・間違いだったという結果に終わっても、手に入れたものは、一線を越えられない人よりも遥かに大きい。
しかし、それが、犯罪という世界に入ると、口では「失うものより、得たものが大きい。越えられない人には分からない。後悔はしない」と言い切っても虚しさだけが響くが。

 吉田大八監督が意図した、どうして銀行の女性職員が巨額な金額をばれずに横領できたのか、その横領した金は一体どこに使われたのかは、梨花の証券の偽造方法や銀行内部のチェック体制までを丁寧に描いたことによって成功している。
梨花が銀行の金を横領してからは、俄然面白くなっている。

 配役として宮沢りえに日常生活での張りのない表情から、反道徳的な世界に入ってからの輝きを出させているし、また、モラルを守る役としておかっば頭の小林聡美をもってきたことも、うまい配役だ。
本当に、小林聡美は素晴らしい演技をしている。

 女にたかるようなだめな男は好きではないが、そんな男にのめりこむ主婦感はよく出ている。
大胆とはいえないSEXのシーンもあるが、走る宮沢りえ、自転車を必死に漕ぐ宮沢りえに立派に成長した姿を見ました。

  夫が多すぎて   (シアタークリエ) 

あらすじ: 第1次世界大戦後のイギリス。執事やメイドを使う上流階級で育った世間知らずで可愛いヴィクトリア(大地真央)だったが、戦争で軍人であった夫のウィリアム(中村梅雀)を亡くし、その後、ウィリアムの親友であったフレドリック(石田純一)と再婚をし、戦後の耐乏生活をおくっていた。そこへ突然死んだと連絡のあったウィリアムが生きていて戻ってきた。戦場でウィリアムは頭を撃たれ、一時記憶をなくしていたが、今はどうにか元気となり帰還できたのだ。二人の夫と生活をすることはできない。しかし、ヴィクトリアとしては、元々愛していたウィリアムに対する気持ちもまだあるし、今の夫フレドリックも好きだ。どちらかを選ばなければならないが真剣にヴィクトリアを愛してくれている筈の夫たちの行動が少しおかしい。ヴィクトリアが、最終的に夫として選んだのは。。。


男の本心をついているが、まだまだ腹の底からの笑いをとるまでにはできていない! 

 この舞台劇「夫が多すぎて」の元になっているのは、イギリスの劇作家:サマセット・モームが1915年に発表した戯曲があり、第一次世界大戦後のロンドンでも舞台上演され、またジャック・レモンが1人の夫となり映画にもなっている。
日本でも、松たか子がヴィクトリアを演じたことがあるようだ。
シアタークリエ版の台本と演出をしているのは、板垣恭一。

 でだしの、ロンドンのビッグ・ベンの時計台をバックにし、ヴィクトリアが寝室で爪の手入れをさせているシーンは、場面の紹介と登場人物の説明として、簡潔で状況が分かるうまい導入だった。
大地真央ファンならかなり納得できるでだしだ。

 それからは、大地真央と2番目の夫を演じる石田純一との掛け合いで再婚に至った状況と、これまたヴィクトリアと結婚をしたがっている戦後の成金者(徳井優)を登場させて話を進めるが、このあたりで、観客からもっと笑いをとる積もりであったようだが、これが失敗している。

 世間知らずのかわいい女性という設定にしては、ヴィクトリアのセリフが実に多く、これに対応する石田純一の動きがぎこちない。
笑いの「間」のとり方ができていないのだ。
「浮気は文化だ」というだけでは、石田純一はまだまだコメディの世界から浮いている。

 そして、成金者を演じている徳井優だが、こちらは、小さい体で、狭い舞台をあちらこちらへと動きまわっていて、これもまるで、こまねずみがうろちょろしているだけで笑いをとれず、うるさく感じるだけだ。

 しかし、最初の夫を演じる中村梅雀が舞台に登場すると笑いが大きくなる。
だいたい、あの中村梅雀の顔と体型で頭の毛が茶色の白人にするとは、もうこれだけで、それはありえない。
茶髪で足が短い中村梅雀が出てきた当初は、これは、いくらんでもミス・キャストだと私も思ったが、流石に中村梅雀だ。
演技と話術で、体型を超えた存在をどんどん前に出してくる。

 中村梅雀を介して大地真央とのやり取りが生き生きとするだけでなく、石田純一の動きもよくなった。

 その後、話は当時の法律に従い夫と正式に離婚をする方法として、夫の浮気か暴力が必要となるため、弁護士(樋渡真司)と偽の浮気の相手となる女性(未沙のえる)が出てくるが、この場面が一番笑える。

 表面は君だけを愛しているという夫たちが、本心では身勝手な女にヘキヘキしているというすれ違いからくる肝心の面白さが多くの場で笑いをとれず、樋渡真司と未沙のえるという上手な脇役のおかげで、どうにか最後には、チラシでうたっているドタバタ喜劇に少しは近づいたが、場面転換で使う生垣の不自然さを含めこの脚本では、抱腹絶倒には程遠い出来だった。

大地真央の舞台; 「マイ・フェア・レディ」 (2009年)


  グレース・オブ・モナコ  公妃の切り札 

あらすじ: ハリウッドの女優としてアカデミー主演女優賞もとり人気が高かったグレイス・ケリー(ニコール・キッドマン)であったが、1956年、26歳の若さで、地中海に面して周りをフランス領に囲まれた都市国家、モナコの君主:レーニエ3世(ティム・ロス)にみそめられ、モナコの公妃となった。それから6年が過ぎ、子供も2人もうけたが、アメリカ育ちの性格から政治に口を出して政治顧問からは煙たがれ、宮廷の侍従達からは、レンガ職人の子などと言われていて、信頼できるのは、タッカー神父(フランク・ランジェラ)だけであった。そんな時、ハリウッドでグレイスを多用してくれていた恩人:ヒッチコック監督(ロジャー・アシュトン=グリフィス)から次回作への出演依頼がきた。レーニエ3世と結婚する際に、もう女優業への復帰はしない積もりであったが、モナコの生活に飽きていたグレイスは、最終決定までは出演を公表しない約束で、映画にでることにした。しかし、時のフランス大統領のド・ゴール(アンドレ・ペンヴルン)は、モナコが税金逃れに利用されているのに腹を立てて、モナコをフランスに併合すると言ってきた。隠していた映画出演の話も漏れ、政治的にもモナコは大窮地になる。そんな中、グレイスは、ド・ゴール大統領やアメリカの国防長官など、各国の要人を招いた舞踏会を開く計画を立てる。果たして、グレイス公妃の思惑は成功するのか。。。


気品(グレース)は、演技では生まれないということか! 

 久し振りのニコール・キッドマンの主演映画だ。
監督は、オリヴィエ・ダアンで、この監督の作品としては、「エディット・ピアフ ~愛の讃歌~」もある。

 話の展開としては、ハリウッドの女優であったグレイス・ケリーが、モナコへ嫁いでからも再び女優業にカムバックするのではという本当の話も取り入れ、また、政治的には、モナコがフランスに併合されるかどうかという実際あった危機をどう乗り越えたかということだ。

 それらを彩るために、映画的にモナコの宮廷内にフランスのスパイがいたり、信頼を寄せる神父を登場させて、少しばかりミステリー的に仕立て上げている。

 私にとって、グレイス・ケリーと言えば映画の中の「真昼の決闘」や「裏窓」で観ている実在していたグレイス・ケリーの気高い容姿が脳裏にあり、映画界を去っても、モナコの良き公妃としての写真での気品が溢れるグレイス・ケリーがいる。

 そのグレイス・ケリーをニコール・キッドマンが演じた訳だけど、この映画のクローズ・アップばかりの撮影方法では、気品(グレース)はまったく出ていない。

 ニコールの鼻の穴の奥までわかる程極端に顔に近づいた撮り方。
眼元だけが、大型画面に映し出されられる。
しかも、これらのクローズ・アップのシーンがセリフとかぶさり不適当に長くて、ここまでやられると、うんざりする。
オリヴィエ・ダアン監督の意図とは逆にこの手法は失敗だ。

 グレイスが単に政治的な危機を救ったでは、面白くないので、レーニエ3世との家庭内の争いや、嫌な侍女が本当はいい人でしたなどで話を盛り上げようとしているが、この描き方はよくある展開で意外性もない。

 最後の盛り上がりとして、舞踏会でのグレイスのスピーチが用意されているわけですが、この程度の内容のスピーチで、ド・ゴール大統領が変心するとは思えない。説得力に欠けている。
もっと政治的にグレイスが行動していた場面もないと、観客としては納得がいかない。

 これまた、アカデミー賞を取った役者であるニコールに、(また女優であったグレイス・ケリーに)、フランス語を勉強させるのは善しとしても、宴会での立ち振る舞いの仕方や、「怒り」や「喜び」など演技の初歩の表情までをやらしているけど、これらのシーンって、アカデミー賞女優のニコールに大して失礼な設定です。

 フランス人のオリヴィエ・ダアン監督なら、フランスとモナコの関係、モナコの政治体制なども分かっていて、海運王のオナシスや歌手のマリア・カラスがどうしてモナコにいるのか不思議がないでしょうが、私には、このあたりの説明がもっと欲しいところです。

 久し振りに見たニコール・キッドマンは、やつれた感じがして、美しさがなく、気品も欠けていました。

ニコール・キッドマンの; 「ナイン」 (2010年)、 「オーストラリア」 (2009年)
オリヴィエ・ダアン監督の; 「エディット・ピアフ ~愛の讃歌~」 (2007年)

  ふしぎな岬の物語 

あらすじ: 海に面した田舎の岬で虹を描くことが好きだった夫を30年前に亡くした柏木悦子(吉永小百合)はおいしいコーヒーを煎れるので評判の喫茶店を一人でつつましくやっていた。悦子を支えてくれるのは、近所に住む何でも屋の甥の浩司(阿部寛)と常連客の不動産屋のタニさん(笑福亭鶴瓶)や漁師の竜崎(笹野高史)たちだった。 そんなお店に母親を失くし虹を追いかけて霊感をもった少女が来たり、新米のドロボーも押し入ってくるが、 悦子が挽く優しさに溢れるコーヒーで慰められて帰っていった。悦子はこんなのどかな生活が永遠に続くと思っていたが、漁師の竜崎は胃が悪くて亡くなるし、悦子を慕ってくれている不動産屋のタニさんも転勤で大阪に行くことになるなどが重なり気が滅入っていて失火を起し喫茶店は全焼してしまった。。。


歳をとると確かに気力も衰えるが、それに負けるようでは、生きてはいけない! 

 主演の吉永小百合が監督の成島 出(なるしま いずる)と共同プロデュースして、モントリオール世界映画祭で賞をとっている。
原作は、森沢明夫の「虹の岬の喫茶店」。

 捻りのない宣伝担当の人があまり深く考えないでよく使う「こころ温まる話」とか「不器用な大人の恋」とかがそのまま当てはまる内容だ。

 軽い冗談を言い合って悪意のない人たちが住む田舎。
「おいしくなれ」と言えば、おいしくなるコーヒー。
金目当ての強盗も、もてなされて改心し、忍びこんだ喫茶店が焼けたと聞けば、さっそくお見舞金を持って長い列に加わるとは、もう落語の世界の再現だ。

 一人になった吉永を慕い庇う乱暴者の阿部寛。
30年間、好きだと言えずにいて、転勤を機に想いを伝えようとして、それでも言えなかった鶴瓶。
結婚に反対されて家を出て行った娘が帰ってくれば、それでも許す娘に甘い父親の笹野高史。

 彼らは、みんないい役を貰い、それなりの演技をしているが、肝心の吉永に、全体を包みこむ、ふっくらとした感じがでていないのが残念だ。
また、夫を亡くしても長年一人で暮らしてきたのなら、それなりの気丈さもどこかに持っていなければいけない。
それが、笹野の死、鶴瓶との別れで弱気になり、また亡き夫が残した虹の絵を手放したために、(この手放す理由が、霊感少女の再登場によるのだが、ここがよく分からない。)自暴自棄になり、お店を燃やすことになるとは、人生に対して弱すぎる設定だ。

 周囲が変わっても、自分の生きてきた人生に強く自信を持ち、凛として生き抜く態度が欲しい。

 また、小池栄子と春風亭昇太の結婚と別れ、学校の先生を演じている吉幾三の退官を控えて夜の校舎にいるシーンの電灯のつき方の不自然さ、さらに、阿部寛のプロレスやヌードなど余分な話が入っていて、関心が散漫になる。

 岬の鯨祭りなどよくある地元のイベントに頼らず、またつくり過ぎでない作品でないと、私は、賞をあげない。

鶴瓶がここまで、吉永小百合と接近すると、吉永小百合ファンのタモリは、憤慨しているだろうなー。

吉永小百合の; 「北のカナリアたち」 (2012年) 
吉永小百合と笑福亭鶴瓶の; 「母べえ」 (2008年)
最近活躍がすごい阿部寛の 「柘榴坂の仇討」 (2014年)、 「テルマエ・ロマエ 2」 (2014年)

成島 出監督の; 「八日目の蝉」 (2011年)

  蜩ノ記  (ひぐらしのき) 

あらすじ: 三浦藩で郡奉行を勤めていた戸田秋谷(とだ しゅうこく 役所広司) は、殿の側室:お由の方(寺島しのぶ)と不義を犯した罪で、10年後に切腹をするよう命じられ、その間は、幽閉されながら藩の歴史書を編纂することになった。戸田の妻の織江(原田美枝子)や娘 :薫(堀北真希)は、秋谷が不義を犯すような人間ではないことを信じ、この裁定の裏には何かあると感じていたが、それを口に出すことはなかった。その出来事から7年が過ぎ、切腹の日まであと3年となった頃、秋谷が藩誌に不義の一件をどうのように書くのか不安を感じた家老:中根兵右衛門(串田和美)は、城内で刃傷沙汰を起こした剣の使い手:檀野庄三郎(岡田准一)を監視役として戸田家に送り込む。戸田家の人々や村の人と共に暮らしていくうちに、庄三郎は藩に対して忠誠心の強い秋谷が殿の側室と 不義を犯したという話に隠された真実を突きとめるが。。。

久し振りに、時代劇の武士が描かれている映画を観た! 

 監督は、小泉堯史(こいずみ たかし)で、原作となっているのは、葉室麟(はむろ りん)の本だ。
タイトルになっている「鯛ノ・・・」、おっと変換を間違えた「蜩ノ記」とは、主人公の戸田秋谷が、藩誌を記録していく傍ら、その日、その”日暮らし”を書き留めた日記ということだ。

 チラシによると、10年後の切腹を命じられた武士が、残された時間をどう生きるかというので、これは、現代に置き換えるなら癌と宣告された病人で「余命10年の武士」となり、終わりを決められた人生をあたふたと生きるのか、それとも、ハリウッド映画がよく描くように家族愛で溢れた良き夫、良き父親になるのかと思ってみたら、かなり内容が違っていた。

 日本の武士にとって、例え10年後に腹を切れと言われても、日常の生活は、これまで暮らしてきたものとまったく変わりがない。
上から言われた、藩の歴史を淡々と綴っていくだけで、10年目には、切腹して、人生が終わるだけと実に潔い。

 どろどろとした藩の世継ぎ争いに巻き込まれてしまったために思いがけない死を命じられたが、それを平然として受け入れ、崇高な人生を送る武士の周りには、これまた物分りのいいよく出来た妻がいて、子供も父親を信頼して揺るぎない。
監視役として付けられた血気盛んな若者もいつの間にか、彼を師と仰ぐように変わっていく。

 このような物語の展開は、目新しいものではないが、監督:小泉堯史の手にかかると、平凡さがゆっくりとしたセリフと共に凝ったロケ地を背景にして、観客の脳に段々と感動を生み出していく。

 戸田秋谷の家や寺院など多くが岩手県の遠野や会津若松など現地で撮影されたようで、セットでは出せない重みと昔の雰囲気を画面に出している。
この撮影もきれいだし、墨のすり方や和本の綴じ方、また岡田准一の刀さばきなども、かなり練習したようで、細かなことにも手を抜いていない成果が十二分に現れていて、落ち着いて観ていられる。

 また、映画の中では諺もよく使われていて1つの彩りになっている。
「義を見てせざるは、勇なきなり」は有名だが、他の「桃栗3年、柿8年」までは知っていたが、続く「柚子(ゆず)は9年で花が咲く」は知らなかった。

 子供に簡単に殴られてしまう家老や、農民に暗殺される役人の犯人追求など、納得のいかない箇所はあるが、日本の武士や、今も多くの日本男性が持っている口には出さない愛情の表現もなされていて、久し振りに暴力的でない時代劇として気持ちよく観られた。

「蜩ノ記」とは反対に切腹が禁じられた; 「柘榴坂の仇討」 (2014年)

小泉堯史監督の; 「明日への遺言」 (2008年)
役所広司の訳の分からない; 「渇き」 (2014年)
岡田准一の; 「永遠の0(ゼロ)」 (2014年)
堀北真希の; 「県庁おもてなし課 」 (2013年)

  プロミスト・ランド   

あらすじ: アメリカの何も無い片田舎で育ったスティーヴ・バトラー(マット・デイモン)だったが、今は大手のエネルギー会社に勤め幹部候補生として期待されていた。その彼の今度の仕事は、マッキンリーという農地しかない寂しい町の地下に眠るシェール・ガスの採掘権を獲得することだった。会社の同僚のスー・トマソン(フランシス・マクドーマンド)と共にマッキンリーに乗り込み、不況で生活が苦しい農場主たちから 次々と採掘権を手に入れるが、地元でシェール・ガスの採掘方法が環境や土地に危険を及ぼすと説く老教師:フランク・イェーツ(ハル・ホルブルック)や環境保護団体の活動家:ダスティン・ノーブル(ジョン・クラシンスキー)の反対運動にあいとうとう採掘は住民投票によって決められることになった。そこで、スティーヴは住民を懐柔するため会社の支援を得て、お祭りを開催しようとしたが、生憎嵐がきて作戦はうまく行かなかった。しかし、 環境保護団体の活動家:ダスティン・ノーブルの身分が偽者であるとばれる。だが、会社のやり方に納得できないスティーヴは。。。


女:もう少し、社会批判やお金儲けに突っ込んだ内容にして欲しかったわね! 

男:脚本は、映画に出ているマット・デイモンとジョン・クラシンスキーが書き、監督はガス・ヴァン・サントで、日本では2014年の8月後半から公開されているけど、製作は2012年だ。
女:最近の映画は予告編をみても、チラシをみても、本当に観たいと思わせる映画が無いのよね。
男:そこで、この映画「プロミスト・ランド」が公開されてかなり日数が過ぎてもまだ上映されているので、それならばと思って観にいったというわけだ。
女:タイトルの「プロミスト・ランド Promised Land」って聖書によく出てくる「約束の地」とも関係しているの。
男:聖書ならイスラエルを追い出されたユダヤの民が戻っていく土地だけど、あまり深く考えなくてもいいんじゃないかな。
女:アメリカの地下に眠っているシェール・ガスやシェール・オイルはアメリカのエネルギー革命とも言われて持てはやされているんでしょ。
男:地下深くにある岩盤の間に埋め込まれているガスや石油を地下で砕いて取り出すのだけど、この映画で指摘されるように、地下水が汚染されたり土壌が変わったりで自然破壊など環境に悪影響を与えているようだ。
女::私も、水道管からガスが噴出して燃えているニュースは見た事があるわよ。
男:そんな社会的な背景も取り上げて、会社のために働くこと、金儲けが人間としてどうかということがこの映画のいいたいことだね。
女:先祖から引き継いだ農地はあっても、金銭の収入が無ければ、子供たちも進学させることができないという現実の厳しさの方の主張が足りないわね。
男:主に採掘に反対するのが、都会から来た老教師であったり、環境保護団体からの活動家であったりでは、実際に土地を荒らされることになる農家の人がどう選択するのか、つまり、お金を取るのか、それともこのまま貧しさに甘んじるのかが描かれていないんだね。
女:外から来た環境保護団体の活動家が実はエネルギー会社からの回し者だったとは、少しばかり捻った展開で面白かったわ。
男:でも、スティーヴ・バトラーの出身が、不況で荒れ果てた農家ということでは、だいたい結末は想像できた。
女:現代は、昔のように自分たちの生活ができるだけの範囲で畑を耕し食べていけばいいという時代ではないってことね。
男:文明の進化は、必ずお金を必要とする方向になっているからね。
  自然破壊に繋がることが分かっていても、生きるためには、いい生活をするためには、お金が必要となっている。
女:だいたい、増え続ける人間は、山を削って家を建てたり、川に汚物を流したりで、いつも自然を壊して来ているのよ。
  地球を傷つけないで人間が繁殖することはできないことでしょう。
  環境を守りましょうってことを言うのは簡単だけど、環境の保護と人間が生きていくこととどちらが大切かということにもっと深く突っ込んだ映画にしないと退屈になるのよね。

男:会社で出世すると、当然給料も上がるわけで、お金を持てば、お金を使う楽しみもあるから、若者ならガムシャラに働いて、金儲けをして欲しいね。
女:老人なら限られた余生を生きられる分だけのお金があればいいってこと?
男:いくらお金を持っていても、それは天国では使えないからね。
女:でも、今をもっと贅沢に生きるためには、もっと、もっとお金が必要なのよ。
  そのために、貴方にはまだまだ働いてもらうわよ。

男:もう、歳なんだから、勘弁してよ。
女:いいえっ、働けるだけ働いてっ!
男:うへっー。

この映画では、マット・デイモンと行動を共にするフランシス・マクドーマンドの演技が印象に残ります。

マット・デイモンの; 「インビクタス/負けざる者たち」 (2010年)
 、 「ヒア アフター」 (2011年)

フランシス・マクドーマンドの; 「ムーンライズ・キングダム」 (2013年)



  柘榴坂の仇討 (ざくろざかのあだうち)   

あらすじ: 時は幕末。尊王・攘夷で日本が荒れている頃。彦根藩主の井伊直弼(中村吉右衛門)は江戸幕府の大老として、水戸藩など反幕府の人々を厳しく取り締まったため、身辺が危うくなって来た。そこで剣に優れている志村金吾(中井貴一)が、駕籠回りとして 井伊直弼の警護役に任じられた。3月3日の節句の日、折りしも雪の降る中、江戸城に登るため桜田門に近づいた井伊直弼の籠が、水戸藩の浪士たちに襲われ、井伊直弼は殺害される。警護役としてその任を果たせなかった志村金吾は切腹を望んだが、彦根藩は、井伊直弼を殺した者たちを捕え、仇討をするよう志村金吾に命じた。それから13年、時代は明治となり、彦根藩もなくなり侍姿も少なくなったが、志村金吾は妻:セツ(広末涼子)の支えで、必死に殺害者たちを探した。しかし、彼らの多くはすでに切腹をさせられたりしていて生きてはおらず、その中でただ一人、佐橋十兵衛(阿部寛)が今は車屋としてどこかに潜んでいるとの情報を得る。柘榴坂で対決する二人に。。。

武士道にしか生きられなかった侍の気持ちがきれいに描かれた! 

 監督は「沈まぬ太陽」などの若松節朗(わかまつ せつろう)。
原作となっているのは、浅田次郎の短編集「五郎治殿御始末」にある1編らしい。

 私はあまり中井貴一という俳優の演技を買ってはいないが、この映画では中井貴一を見直した。
だいたい派手な演技は見栄えがして、下手な役者でも演じやすく、話題も取りやすい。
しかし、この映画のような内容では、しっかりしたセリフと情感を表す何気ない立ち居と振舞いが求められ、これは、上手くない俳優ではできない。

 それを、中井貴一は見事に表現した。この役においては、中井貴一は実に上手い。

 主君に忠誠を誓い、恥があれば、そのまま生きることよりも、死を選んだ武士とその家族。
死んでしまえば、すべては終わるが、死ぬことを禁じられた時に、どう人は立ち向かっていけばいいのか。

 これは、現代なら癌と宣告されて、余命がないという時に人はどう生きていけばいいのかということとは、まさに逆の立場である。

 残り少ない人生ならもう残された時間を最高に謳歌しようと多くの人は決心するだろうが、死ぬことは許されず、しかし、時代にも取り残され、どんどん貧しくなって行く時に、以前から持っていた自尊心や目的は崩れてしまう。

 その気持ちの衰えを必死に支えたのが武士道ということで、監督:若松節朗が中井貴一を使って、静かに美しく、その結果感動的に作り上げた。

 この映画では、桜田門外の変や寒椿、また最後の柘榴坂など雪が多用されるが、これらの撮影がきれいで状況を盛り立てている。
光の当て方も工夫がされていて上手い。

 ある人の死は、その人の妻や周りの人たちにとっては、辛い悲しみとなるが、それを防いだ終わり方もいい脚本だ。

 音もなく静かに雪が降るように、私の胸にもゆっくりと生きることを考えさせる映画だった。

中井貴一の; 「Railways」 (2010年)
阿部寛の; 「テルマエ・ロマエ 2」 (2014年)
中井貴一と阿部寛が出ている 「麒麟の翼」 (2012年) 


  舞妓はレディ   

あらすじ: 京都の花街(かがい)での売り物といえば舞妓さんだが、舞妓に欠かせない踊りや三味線などの芸事の修行が厳しく最近は舞妓さんのなり手がいなくて、下八軒にあるお茶屋:万寿楽の女将千春(富司純子)も困っていた。 そんな時、鹿児島弁と津軽弁が交じった言葉を話す16歳の少女:西郷春子(上白石萌音)が、舞妓になりたいと店を訪ねてきた。身元も分からない娘を預るわけにはいかなかったが、その場にいた言語学者の京野(長谷川博己)が、田舎言葉を話す春子を京言葉に矯正するというので、千春も納得し、春子は店で舞妓見習いとして住み込むことになった。姉さん舞妓の桃春(田畑智子)や芸妓里春(草刈民代)の助けを借りて、芸事を覚えまた、京野の励ましを受けながら京言葉も話せるようになり、どうにか、一人前の舞妓としてお披露目ができる。春子がここまで苦労をしても舞妓になりたいと思った訳が明かされる。。。
日本の舞妓さんの紹介だけでは、面白くない!
 
 あらすじから、タイトルとなっている「まいこはレディ」は、往年のヒット・ミュージカルで映画ではオードリー・ヘップバーンが主演した「マイ・フェア・レディ」をかなり強引に駄洒落的に付けたと分かります。
この駄洒落のタイトルをつけたのは、周防正行で彼が、脚本を書き監督もしている。

 オリジナルとなった「マイ・フェア・レディ」からのアイディアとして、田舎言葉を話す少女の存在。
その少女の言葉を「淑女(フェア・レディ)」が話すように期限内に矯正、舞妓として育て上げるいう言語学者。
この「マイ・フェア・レディ」の基本部分を借り、場所を京都の花街にして、一般の人には馴染みが薄い芸妓さんとの「お座敷遊び」が紹介される展開だ。

 映画の「マイ・フェア・レディ」や舞台版を観たことのある人なら、言語学者の研究室の螺旋階段のセットや、「舞妓はレディ」で歌われている「京都では雨は盆地に降る」の歌詞が、「マイ・フェア・レディ」で歌われていたアクセントを矯正する「スペインでは雨は平野に降る」のパロディだと分かる。

 周防監督の遊び心としては他にも茶屋の女将役をやっている富司純子(当時は藤 純子)の昔のヒット作の「緋牡丹のお竜」を草刈民代にやらせていたりもしている。

 今回主役を射止めた上白石萌音という、まだ本当にりんごのほっぺをした少女が京都という場所で舞いや謡など日本の伝統的な物を身に着けていくという成長記録的な面もある。

 確かに、私も知らない京都のお茶屋の仕組みや「お座敷遊び」を紹介してくれるのは、大変興味深いが、この内容ではそれが分かって、どうなの、というまでで終わっている。

 周防監督としては、歌や踊りを入れたミュージカル映画の面も強調したいようだが、日本の静かな「和」の趣にするのか、他の映画のようにアメリカ的な「賑やかな」物にするのかの統一がとれていない。

 これは、周防監督の奥さんでもあるバレリーナの草刈民代を多用したせいだ。
彼女を使用したため、踊りの振り付けがどうしても「和」よりも「洋風」になっていて、これでは芸妓も日本的ではなくなった。
ここは、舞台の設定を日本の古都:京都とし、さらに舞妓にしたのなら、もっと日本風に徹した展開が欲しかったところだ。

 また、妻夫木聡や津川雅彦などの有名な俳優がチョットだけ出てくるが、どうして彼らをこんな1シーンに使う必要があるのか、大いに疑問だ。
映画を観ている方としては、有名な俳優が出てくれば、これは後で、また彼らに絡んだ複雑な話があるのではないかと予想する。
しかし、結果として、彼らは、後には関係のないどうでも良い役をチョットだけ、暇に任せて、また監督の懇願で出ただけでは、観ている人には無駄な配役だ。
こんな起用は誇大宣伝で、止めて欲しい。

 この出来では、単なる京都の観光を兼ねた舞妓さんの紹介に過ぎず、笑いもとれず、まだまだミュージカルと呼べる内容でもなく、恋愛物にもなっていない。

舞妓の話なら; 「舞妓Haaaan!!! (まいこはーん)」 (2007年)
周防監督の作品: 「終の信託」 (2012年)

舞台版の; 「マイ・フエア・レディ」 (2009年 帝国劇場) 、 (2013年 日生劇場)



  シェルブールの雨傘  ミュージカル (シアタークリエ)  

あらすじ:アルジェリアで戦争をしているフランスは北西部にある軍港シェルブールで自動車の整備工として働いている20歳のギイ(井上芳雄)には、女手一つで傘屋を営んでいるエムリー(香寿たつき)の一人娘で16歳のジュヌヴィエーヴ(野々すみ花)という恋人がいた。ギイとジュヌヴィエーヴは結婚を望んでいたがまだ若い二人の結婚にエムリーは反対だった。エムリーが営む傘屋の経営は思わしくなく税金も滞納しており、エムリーは宝石を売って窮場を凌ごうと思いジュヌヴィエーヴを連れて宝石店に行くが、希望どうりの値が付かなかった。しかし、たまたまその宝石店にいた宝石商のカサール(鈴木綜馬)は、ジュヌヴィエーヴに一目ぼれをし、エムリーの宝石をいい値で買い、カサールとの付き合いも始まるが、ジュヌヴィエーヴとギイは将来生まれてくる子供の名前やガソリン・スタンドを持ちたいなど夢を語っていた。そんな折、ギイに召集令状が来て、2年間戦地のアルジェリアに行くことなり、その夜二人は激しく愛を確かめ合った。ギイの子供を宿したジュヌヴィエーヴは、戦地にいるギイと手紙を交換していたが、ギイは戦闘で行方不明となり、生死も分からず連絡も途絶えてしまった。ジュヌヴィエーヴは迷ったが、カサールのプロポーズを受け入れ、生まれてきた子供と母親と共にパリに引越をした。その後、足を怪我したもののどうにか生きてシェルブールに戻ってきたギイを待っていたのは、ジュヌヴィエーヴではなく、病気のギイの伯母(出雲綾)の面倒をよく看てくれていたマドレーヌ(大和田美帆)だった。戦争とジュヌヴィエーヴとの別れで荒れたギイの心を優しく支えてくれるマドレーヌとギイは結婚し、待望のガソリン・スタンドを開くこともできた。そして、数年後の雪が舞うクリスマスの夜。シェルブールに。。。

感動を盛り上げる音楽の力は、偉大だ!
 
 「シェルブールの雨傘」と言えば、原作は勿論、1964年に公開されたフランス映画で、私も好きな映画の1本で何度か観ています。
映画の監督はジャック・ドゥミで、この「シェルブールの雨傘」の最大の特徴は、すべてのセリフがメロディにのっていることで、その作曲をしたのがミシェル・ルグランです。
この映画の主題歌の「Les Parapluies de Cherbourg / I Will Wait For You」も随分と流行り、オリジナルのダニエル・リカーリのヴォーカル版だけでなく、アストラッド・ジルベルトではボサノバで歌われていたりし、また多くのイージーリスニングの楽団が演奏し、ジャズの演奏もあります。
そして、映画では、ジュヌヴィエーヴ役をカトリーヌ・ドルーヴが演じ、彼女の美しい金髪がいまだに強く印象に残っています。

 今回の舞台版でも、映画と同じジャック・ドゥミの脚本とミシェル・ルグランの音楽を使い、翻訳と訳詩は竜 真知子。
そして、演出と振り付けは謝 珠栄(しゃ たまえ)。彼女は、宝塚にいたようだが、宝塚はすぐに退団して、振り付けや演出を勉強し、2009年に今回と同じ井上芳雄がギイ役を演じた「シェルブールの雨傘」も彼女が演出・振り付けをしているようだが、私は観ていない。

 舞台の構成としては、一番後ろにカーテンのように白色の点電球を多く配し、これが絶え間なく上から下へ流れて雨の感覚を出す。
傘店や自宅などは、上部を切り取った小さな半円形の中に傘やテーブルを配置しこれを必要に応じて回転させて、店や自宅などに場面転換している。
音楽を奏でる楽団は、舞台の裏にいるようで、観客席からは見えない。

 話の進め方としては、映画と同じジャック・ドゥミの脚本とミシェル・ルグランの音楽を使用しているので、映画と同じ展開となる。
映画と少し違うのが、時々挟まれる踊りの部分だ。
この振り付けは、多くが飛んで廻ったりしているだけで、平凡だ。これなら、もう踊りのシーンは不要。

 また抱き合うシーンの多さが目立ち、全体として柔らかな感じがする。
もっと活動的な動きも入れると、メリハリがはっきりしたようだ。

 出演者については、ギイ役の井上芳雄はもう充分に舞台経験を積み、落ち着いたミュージカル俳優となっている。
ジュヌヴィエーヴを演じた野々すみ花は映画でのカトリーヌ・ドルーヴ程の金髪にしていないのが残念。
また、ジュヌヴィエーヴ役の野々すみ花の声と母親役の香寿たつきの声質が似ていてこれは、配役時に声質の違う配役にすべきだった。

 それにしても、音楽の持つ力の凄さは十二分に発揮されている。
これは、元のフランス語を分かり易い日本語に訳した竜 真知子の才能に寄るところもあるが、基本的には作曲したミシェル・ルグランの素晴らしい成果だ。

 テーマ曲を場面・場面で繰り返し演奏し、最後のクリスマスのシーンでは、雪とコーラスも入れて盛り上げる構成は、愛しても別れてしまった恋人同士の切なさがひしひしと胸を打つ。

 昼の回にも係わらず観客席は満員で、皆んな観終わっても感動していた。
ただ、額の脇に付けているマイクの性能が悪く、サ行の音が割れてしまうのは残念だった。

 観終わってシアタークリエの外に出ると、上演前には降っていなかった雨が降っていたのには、何か縁を感じた。

 井上芳雄の舞台; 「二都物語」 (2013年7月) 、「三銃士」 (2011年7月) 、「ウエディング・シンガー」 (2008年) 、「モーツアルト」 (2007年)



  ルーシー   

あらすじ:台湾に遊びに来ていたルーシー(スカーレット・ヨハンソン)は、韓国系のマフィアに脅かされてお腹にすごい威力を持つ覚醒剤の袋を埋め込まれ運び人となったが、その覚醒剤が体内で漏れて脳細胞が異常に覚醒し始めた。そのせいで今までは話すことも出来なかった中国語もすぐに憶えることができ、追ってくるマフィアも簡単にやっつけることができた。しかし、ルーシーはこのままでは人間性が無くなるようで不安になり、ネットで調べると、脳科学者ノーマン博士(モーガン・フリーマン)が脳細胞の利用についての権威者であることが分かり、パリでノーマン博士に診て貰うことになる。博士に会う間にもルーシーの脳はどんどん目覚めて、車の運転技術も驚異的なものとなり執拗なマフィアの追撃をかわすことができた。ノーマン博士に会ったルーシーの脳は当初の利用度からさらに覚醒し、ついに100%までになるが。。。

女:内容を細かく分かろうとしないで観たらいい映画ね!
 
男:監督と脚本は、リュック・ベッソンで、彼の有名な作品では「レオン」や「ニキータ」があるね。
女:通常、人間は自分の脳の機能の内10%しか使っていないという発想ね。
男:脳細胞はすごい量があるのに、日常活動してる部分が少ないのは確かのようだ。
  火事になった時に思いがけない力がでるという「火事場の馬鹿力」や記憶力を高める方法などは、この脳をもっと活用することができるということかな。
女:でも、人間の脳細胞が常に100%活用されていないということは、私たち、人類の進化の過程で得た防御本能のようなものが潜んでいるじゃないの。
男:生物には終りがあるので、生きている過程で得た進化を後に引き継いでいくには、次の世代、つまり子孫を残すことが遺伝子の役目なら、なんらかの防御方法も取るだろうね。
  それで、もしも脳細胞を100%使うと、危険だというこの映画で描いた部分もあるのかな。
女:現代でも、生まれつき臭いに敏感な人や、ある種の食べ物に特に反応する人がいることを考えると、人類といっても、体や脳細胞の一部が特に発達した人もいるわよね。
男:うん、予知能力だとか、透視ができるなどが言われるけど、まだまだこの分野は立証できない。
女:そんな脳の活用法としては、この映画は面白くないわよ。
男:で出しでは、漢字の看板がでてきてどこか中国の場所にあるホテルが舞台になっているけど、ここで話されるマフィアの言葉が、韓国語とは、一体どこを設定したのかここから変だった。
女:それは、徐々に台湾にいる韓国系のマフィアと分かるけど、どうして、台湾で韓国系のマフィアを登場させる必要があるの。
  台湾ならもう単純に現地の中国系のマフィアでいい訳でしょう。

男:どうして、そのような設定にしたのかは、もう監督・脚本のリュック・ベッソンに聞かないと分からないけど、この映画ではおかしな部分は多いね。
  例えば、ルーシーが自分のお腹にある覚醒剤を取り出させるために、手術中の患者を殺すけど、それほどまでに非情になれるなら、韓国マフィアのボスの両手にナイフを突き刺したときに、殺せばよかったのにと思うよ。
女:私もこのシーンでは、もうボスは死んだと思ったわよ。
  その大怪我をしたボスが、翌日にはパリに来て、両手が不自由な筈なのに、拳銃をバンバンと撃っているのでしょう。
  荒い筋書きね。

男:私がこの映画で興味があったのは、人類の脳細胞が100%使える状態になったらどうなるのかだった。
女:それで。
男:今まで人類の遺伝子が引き継いできた生物誕生まで遡ることができるのは許せるけど、その前の地球誕生からさらに宇宙誕生にまで記憶が遡るとは、もうついていけないね。
女:何かわけの分からない爆発や煙のようなものは、宇宙誕生の頃の星雲だったのね。
男:脳細胞を100%使えるようになったルーシーはついに時間までもコントロールできる能力を持つけど、最後には巨大なコンピューターに変身するとは、つまらない結末だった。
  ここは、人類の知能の行きつく先が人間の作った道具に過ぎないコンピューターではなく、もっと想像力を育むものを登場させて欲しいところだった。
女:SF映画で求められる「でたらめの中でも論理性」が弱かったってことね。
  
  でも、脳をどんどん使えるようになると、古い記憶でも忘れなくなるのかしら。

男:多分、そうだろうね。
  それだと嫌なことや悲しいこともいつまで、憶えているので辛いね。
女:そういう人間にとって良くないことから守るために、脳は10%しか活用できなくしてあるのね。
男:そうだよ。
女:でも、あたたの脳は、最近は物忘れがひどくて、その10%も使えていない気がするけど。
男:えっ、何か言った?
女:いいえ、なにも言ってませんっ。




  バルフィ! ~人生に唄えば~   インド映画   

あらすじ:インドの北部、ヒマヤラ山脈の麓にある避暑地ダージリンの街で生まれたバルフィ(ランビール・カプール)は耳も聞こえず、言葉も話せなかったが、その豊かな表情と体を使ったパントマイムで人々の心を捉え街の人気者として育っていた。そんなタージリンで夏を過ごしに都会のお嬢様シュルティ(イリヤーナ・デクルーズ)が友達と一緒にやって来た。美しいシュルティを一目見たとたんに恋に落ちたバルフィは、身体のハンディをもろともせず、果敢にアプローチをし、徐々にシュルティの気持ちを掴むが、既に金持ち男性との婚約をしているシュルティは、バルフィとの恋をあきらめコルカタに戻っていった。そんな時、バルフィの幼馴染で家族にも心を開かない自閉症のジルミル(プリヤンカー・チョープラー)が誘拐され、ひょんなことから、バルフィは自分だけには心を開くジルミルを匿うことになり警察に追われダージリンから逃げ出す。その逃亡先のコルカタで偶然にも結婚しているシュルティに出会う。昔の恋人に接するバルフィのうれしそうな表情に不満を感じたジルミルが失踪する。必死にジルミルを探すバルフィにシュルティも手を貸すが。。。

笑いもあるしほのぼの感もある!
 
 映画製作の本数ではアメリカのハリウッドを凌いでいると言われるインドの映画です。
監督はアヌラーグ・バスで、彼が原作と脚本も書いている。
インド映画と言えば、必ず訳も無く踊りが入り、上映時間が長いと評判ですが、踊りについては、この「バルフィ」では、最後の方にチョットばかり入っています。
そして、上映時間ですが、これは、確かに長い。
冒頭の映画上映中にしてはいけないことから始まり、なんと151分=2時間31分という長編です。
本国のインドでは、途中で休憩が入っていますが、日本では、休み無しに上映されます。

 確かに、かなり長い映画ですが、テンポもよくてそれほど上映時間は気になりません。
聾唖者のバルフィと自閉症のジルミルの話に、超美人のお嬢様シュルティの恋に臆病だった自分の後悔がナレーションとして入り、過去と現在が交錯して映画は進みます。

 セリフは、インドの言語(ヒンディー語かベンガル語か分かりませんが)のところどころに英語が混じります。
観光地ダージリンの街を特徴づける可愛い列車や美しい紅茶畑などを縦横にロケし、また仮面を被った民族舞踊も出すなど映像も実にきれいです。

 バルフィを演じたランビール・カプールに感情を無言でここまで豊かに表現させた監督アヌラーグ・バスの技法は巧い。
バルフィが高鳴るハートをシュルティに捧げても、シュルティから蹴られて返されたり、大きなシャボン玉の中に淡い光を放つ蛍を舞わせたりだけでなく、時計を15分間戻すなど、様々なアイディに溢れていて観ていても感心の連続だった。

 身障者の恋愛となると、どこか暗い方に陥り易いが、これに誘拐事件を絡め、間抜けの警察との追いかけっこを入れてここらで笑いをとるとは、気分転換のやりかたもよく心得られている。

 光の当て方、アコーディオンを中心としたメリハリのある音楽の使い方など、本当に映画が総合芸術であることを再認識させる。

 話としては、過去と現在の入り組み方で、特にジルミルが誘拐されて車とも川に落とされる箇所が分かりにくいが、全体としては、親子の愛も伝わり観終わっても気分がほのぼのとして良い映画だった。

インドをもっと知りたいなら; 「スリランカとインド 9日間の旅行記」  もあります。
ダージリンの映画なら; 「ダージリン急行」 (2008年)
インドを知りたいなら; 「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」 (2013年)


  しかし、シュルティを演じたイリヤーナ・デクルーズは、目元パッチリ、格好の良い鼻と(超)美人だ! 東洋人の黒髪は誇るべきです!



  ミス・サイゴン   ミュージカル (帝国劇場)  

あらすじ:ベトナムが北の共産主義と南の資本主義に分かれて戦争をしていた頃、南ベトナムの政府を支持して、アメリカも戦争に介入していたが、北側の攻勢が増して、南ベトナムの首都だったサイゴン(今のホー・チ・ミン市)も、北の支配下に入ろうといていた。そんなサイゴンでフランス系ベトナム人のエンジニア(駒田一)が経営する売春キャバレーで両親を戦争で失くした少女キム(笹本玲奈)が米兵のクリス(上野哲也)を相手に初めての夜を過ごした。互いの優しさに引かれたキムとクリスは恋に落ちるが、サイゴンが北の攻撃を受け大混乱の中、クリスを乗せた最後の米軍のヘリコプターは大使館から無情にも遠ざかり、現地に残されたキムは、エンジニアの助けを借りて、タイのバンコックに逃げ、生まれてきたクリスの子供:タムと共にクリスとの再会を待っていた。一方アメリカに戻ったクリスは、エレン(三森千愛)と結婚をしたものの、気持ちはまだ現地に残してきたキムの方にあった。そんなある日、戦争孤児援助をしているクリスの友人ジョン(岡幸二郎)から、キムと息子が無事でタイにいることを知らされ、クリスは妻のエレンを連れてジョンと共にバンコックへ向かう。クリスが来たことを知らされたキムは、喜んでホテルに行くとそこには、エレンがいた。クリスが結婚していたことを知らなかったキムが選んだ道は。。。

女:演出が新しくなって、キムの気持ちの切なさが心に響くわ!

男:このミュージカル「ミス・サイゴン」は度々日本で上演されているので、私も何度か観ている。
  新しいのでは、2012年に、この帝国劇場より狭い青山劇場で、エンジニア役は市村正親で、キム役は知念里奈のを観ているね。
女:その市村正親が今回観た駒田一と交互にエンジニア役で約1ヶ月出る予定でポスターが作られチケットも5月から前売りされていたのに、市村正親に胃ガンが見つかり彼は休演となっているのよ。
男:市村正親の胃ガンは早期に発見されたので、病状は軽いようだ。
  でも、この公演では、急遽市村正親の代わりに筧利夫が起用されている。
  劇場では、この市村正親の休演に伴うチケットの払い戻しには応じないといっているけど、この姿勢は、かなり傲慢なやり方で糾弾されるね。
女:あまり、市村正親の大げさな演技を買っていない貴方としては、今回の駒田一のエンジニア役を観れてよかったかもね。
男:そうだね。
  本論を戻すと、「ミス・サイゴン」がロンドンで初演されたのが1989年で、それから25年が過ぎて、途中青山劇場のように大型のヘリコプターが使えない劇場では、ヘリコプターを映写にするなど、少しは演出も変えたけど、今年2014年5月からロンドン版で大幅な演出の変更があって、日本版ではそれを受け、歌詞や振り付けも変えたようだ。
女:エンジニアのアメリカに行きたいという演出が弱くなって、キムとクリスの愛の物語性が強くなったのね。
男:だれかの援助が必要なキムとその子供を利用することでエンジニアも存在しているわけだけど、私としては、もっと、エンジニアの出番を減らしてもいいかとは思う。
女:キムの笹本玲奈の演技はいいわよ。
男:今回の帝国劇場公演でも、キム役は、笹本玲奈の他に青山劇場で観た知念里奈と新人の昆夏美が交互に出ている。
  笹本玲奈も2004年には、このキム役をやっているから17歳の処女の初々しさがかなり欠けてしまっているけど、清純な愛や子供を守る母親の気持ちを歌い上げる技術は上手いね。透通った声質もキムの性格にあっている。
女:アジア人の17歳の処女の初々しさを求めるのは、ヨーロッパ人の原作では無理でしょう。
  それは、貴方の高望みよ。
  でも相変わらずの巨大なホーチミンの顔を背景にした北ベトナム軍をイメージした旗の踊りは統一されていて綺麗だったわ。

男:それに第2幕での大使館からの脱出シーンで実物大のヘリコプターをまた登場させたのは、広い帝国劇場ならわでの構成だ。
  大使館の表門の扉をかなりのスピードで前後・左右だけでなく回転させたりする方法も一段と進歩していて、喧騒と緊迫感が十分に伝わる。
女:この巨大なホーチミン像と実物大のヘリコプターは「ミス・サイゴン」の売り物だから、これを無くしたら評判も落ちるわよ。
男:それに、今度から、大きな自由の女神の出番もあるよ。
女:今回は2階席から観たせいかも知れないけど、オーケストラの音が実にきれいに響いたわ。
男:ヴァイオリンやサックスの演奏も上手い。
女:今までの「ミス・サイゴン」や「レ・ミゼラブル」なんかでもでていたヴェテランの俳優たちと新人の起用、そして新しい演出でまた「ミス・サイゴン」はこれからも生き延びる作品になったってことね。
男:大人の男性を意識した演出は、効果があるよ。
女:それにしても、どうして、貴方の双眼鏡は、女性の裸の舞台となるとよく活躍するの!
男:いっ、いゃ、それは、女性の肌を観ているのではなく、笹本玲奈の表情を細かく観ているからだよ。
女:まあ、それなら、そういうことにしておきましょう。
男:ふぅー。

いつもの帝国劇場なら、男性の客は少ないのですが、今日は、かなり男性客が入っていました。

前回(2012年)青山劇場の; 「ミス・サイゴン」
2008年の; 「ミス・サイゴン」
2004年の; 「ミス・サイゴン」


ベトナムのホーチミン市(旧サイゴン)を知りたいなら; 「ヴェトナムとアンコール・ワット   7日間の旅行記」 もあります。





  ゴジラ   

あらすじ:1999年のフィリピンの炭鉱で、巨大な怪獣らしき化石が発見され日本の芹沢猪四郎博士(渡辺謙)らが調査に行くと、その化石に付着していた巨大な「何か」が、海に向かって動いた跡が残っていた。また、同じ頃、日本の原子力発電所で働くジョー・ブロディ夫妻(ブライアン・クランストン/ジュリエット・ビノシュ)は、発電所が「何か」に襲われ、ジョーは妻を失う。そして、発電所のあった街は、放射能に汚染された街として部外者は立ち入り禁止となった。しかし、その後も、ジョーは日本に残り原子力発電所を襲った「何か」を突き止める調査をしていて警察に捕まり、アメリカに戻り軍人になっていた息子のフォード・ブロディ大尉(アーロン・テイラー=ジョンソン)が身元引受人として日本に来た。父の話で、立ち入り禁止になっている元の家に15年前に置き去りにされたデータを取りに行ったジューとフォードの二人は、そこで芹沢博士らと出会い世間から隠されていた原子力をエネルギーとする強大な繭が孵化してカマキリのような形となり建物を壊してハワイの方へ飛び去るのを目撃する。芹沢博士の研究によるとカマキリのような形をした「ムートー」はオスで、アメリカにいるメスを求めているという。そして、「ムートー」と古代から天敵として存在する「ゴジラ」が現れる。サンフランシスコで激しく闘う2体の「ムートー」と「ゴジラ」。ゴジラの熱線が。。。

大きくも無く、地球を愛するゴジラでは、まったく迫力がない!

 ゴジラと言えば、水爆実験で発生した放射能を浴びて蘇った古代の巨大な怪獣で日本が誇る特殊撮影物として60年前の1954年に製作されていて、その口から出す熱線や暴れ方で街の中の建物という建物を次々と破壊するので評判となり、その後も、キングコングと闘ったり、モスラと闘うなど続編も随分と作られた東宝の看板映画です。私も、2,3本は観ている。

 それが、ハリウッドで、ギャレス・エドワーズが監督し、日本からは、渡辺謙が出ているということで、映画館に足を運ぶ。

 しかし、15年前の紹介から、話のつながりの悪い訳の分からない、まったくできの悪い作品だった。

 冒頭のフィリピンの炭鉱のシーンから、中心である渡辺謙のセリフがほとんど無く、これはおかしいなと思う。
そして、日本の原子力発電所が、どう観ても日本式の原子力発電所の建てかたでなく、これは事故を起こしたアメリカのスリーマイル島にある原子力発電所で違和感が生まれる。

 だいたい、タイトルとなっている主役であるべき「ゴジラ」の出番が少なすぎる。
これでは、ゴジラよりも「ムートー」の誕生から繁殖、そして破壊がメインだ。

 それにしても、どうしてハリウッド製作の映画では、家族の愛の描写をダラダラと長く入れるのだろうか。
夫が妻を愛し、親が子供を愛するのは当然のことで、子供を絡め、いつものようによくあるパターンで描く時間があれば、この時間をゴジラが暴れる時間に回して欲しい。
ゴジラをタイトルにするなら、ゴジラ中心で、物語を進めるべきだ。

 ゴジラの位置づけが良くない。
ゴジラが海中のどこからか現れれるのは許せるが、ムートーを追跡し、アメリカ海軍の軍艦に左右を守られて(?)アメリカ本土に向かうシーンでは呆れる。
ゴジラは人間の味方だったの?

 日本のゴジラは人間が作った建物や橋など、人類の文化をなんでもかんでも見境無く破壊するから、そこに私たちができない爽快さを感じるのだ。
それが、ある程度の節度をもって行動するのでは、これはもう日本の「ゴジラ」ではなく英語の「ゴジィッラ」でしかない。

 また、ゴジラの大きさがビンとこない映画だ。
現在のCGの技術があれば、もっと大きく、迫力のあるゴジラに出来たはず。
ムートーとの闘いと壊される街や建物が実にチャチイ。
これでは、60年前の特撮の方が上手に作られている。

 ほとんどのセリフを外人の助手に奪われている渡辺謙といい、日本人の私には、非常に物足りない映画でした。

  ジゴロ・イン・ニューヨーク   

あらすじ:ニューヨークのブルックリンで祖父の代から続いた本屋を経営していたマレー(ウディ・アレン)だったが、本が売れなくなってとうとう店を閉めることになった。しかし、まだ小さな子供もいて生活費は必要だった。そんな時、かよっている皮膚科の女医:パーカー(シャロン・ストーン)からどこかにジゴロ(男娼)がいないかと相談され、すぐにマレーは、美男子ではないが、女心をよく知っている友人のフィオラヴァンテ(ジョン・タトゥーロ)が適任と思いジゴロになるように説得した。最初は渋っていたフィオラヴァンテだったが、試しに使用(?)されたパーカーにも好かれ、マレーが持ってくる話も多くなり紹介人とジゴロとして二人はニューヨークでやっていくようになった。しかし、ユダヤ教の厳格なラビ(聖職者)の未亡人でまだ若いアヴィガル(ヴァネッサ・パラディ)がいつまでも喪に服しているのを見たマレーが軽い気分転換としてマッサージ師としてフィオラヴァンテを紹介してからジゴロの生活が変わる。フィオラヴァンテはアヴィガルに惚れてしまったのだ。その結果、ジゴロとしての役目を果たせなくなったフィオラヴァンテ。一方戒律に厳しいユダヤ教会では、マレーのジゴロ紹介が宗教裁判にかけられる。フィオラヴァンテとアヴィガルの愛の行方は。。。

特に観終わっても後に残るものは無いが、観られる映画だ!

 普通、ジゴロといえば、長身でいい体格をした、どこかに冷たさのある美男子と相場が決まっているが、この映画ではそんな当たり前のジゴロは登場せず、ジョン・タトゥーロという庶民的な男がジゴロ役だから、笑わせる。
 因みに、この映画「ジゴロ・イン・ニューヨーク」の脚本・監督もジョン・タトゥーロです。

 相変わらず理屈っぽい、口の達者なウディ・アレンがポン引き役にはぴったりはまる。
ウディ・アレンでない若い役者がポン引きとして女性のお客に声をかけても、女性は警戒するだろうが、ウディ・アレン程度に歳をとっていれば、その警戒心はないだろう。

 ジゴロとしては、当然に仕事(?)に耐えられる体も必要だけど、女性が求める気持ちに答えることも重要なポイントだということは、女性にもてたいと思っているいい男でない男子が特に見習う点でしょう。
優しさとユーモアのセンスを持ち、さらに生け花や料理もこなし、またマッサージまでできれば、もう美男子でないあなたも、立派なジゴロになれます。

 でも、ジゴロ業を続けていくなら、特定の女性を好きになってはだめです。
特に、未亡人に手を出すと、酷いことになりますよ。

 ジョン・タトゥーロがこの「「ジゴロ・イン・ニューヨーク」で描く程ではないにしても、現代でも戒律の厳しいユダヤ教の一派がいるらしいことは知っていたが、戒律を守ろうとして、彼らが真面目にやればやるほど、彼らの行動はその宗教に関係しない人から見ると本当に滑稽だ。
しかし、その宗教を信じている人にとっては、まさに生死にも関係する真剣な問題だから深刻でもある。

 この面倒な宗教の問題も、軽くジゴロと絡めて処理しているので笑いもあるし、「氷の微笑」で見せたシャロン・ストーンの足組もある。
背景に流れるニューヨークの街とジャズの曲のテイストもあっている。

 軽い時間つぶしには、お勧めです。

  渇き   

あらすじ: 妻の不倫相手を殴ったため警察を辞め、その妻とは離婚となり今は警備員として一人暮らしをしている藤島昭和(役所広司)の携帯電話に元の妻(黒沢あすか)から、娘の加奈子(小松菜奈)が家出をし高校にも行っていないとの連絡が入った。家庭をバラバラにしたことに強く責任を感じている藤島は自分で加奈子を探す決心をした。そこで、娘の同級生(橋本愛)や担任の先生(中谷美紀)に会って娘の素行を調べると、娘の実態は驚くものだった。表面では誰からも好かれ愛される優しい高校のマドンナのような存在の加奈子は、裏では、やくざと絡んで違法な薬の販売や売春斡旋もしていたのだ。父親として娘をまったく知らなかったことを深く反省した藤島は一人でやくざと対決し、娘を探そうとするが。。。

女:誰もここまで作品をひどくした監督の狂気を止められなかったってことね!

男:その完全に狂って、自分だけの世界に入ってしまった監督は、中島哲也で「告白」や「嫌われ松子の一生」というかなりまともな映画も監督しているんだけどね。
女:予告編を見ただけでは、ここまで、観客を置き去りにした酷い内容になっているとは思わなかったわ。
男:血と暴力的なシーンが満載の映画のままでは、普通の子供たちも見ている予告編は作れないからね。
女:ドラッグ、セックス、暴力とまったく汚らしいエロ・グロの世界をここまで見せられては、もううんざりね。
男:映画という虚構と強調が許される世界であっても、ここまで描いては、もう観客としてはついていけない。
女:血にまみれた半分死にかけのやくざの内臓を靴で踏み潰すまで映像化する必要がどこにあるの。
男:不良少女の耳たぶをカター・ナイフで切っていくシーンも同じように、気持ち悪さと、不愉快感だけが残る。
女:男親の娘に対する性欲のはけ口の無さがタバコの煙のようにモンモンとして流れるけど、それはもう人間として触れてはいけないことでしょう。
男:その倫理観も無くして男親を取り上げるとは、中島監督もドラッグを使って狂っているのかな。
女:正常な判断ができる人なら、ここまではやらないし、また映画を作っている周りの人たちも、この監督の酷さを止めるべきよね。
男:グロや血、それらを含めて、また、この映画では、登場人物が多すぎるのも作品の出来を悪くしている。
女:いつも子供のように飴玉をなめている刑事役の妻夫木聡もふざけた描きかただし、加奈子の同級生や取り巻きもこんなには不要ってことね。
男:途中で挿入される水の中のアニメもいらないね。
  映画の流れが、無意味なこのアニメで中断されている。
女:映画の手法としては、顔のアップの多用と早い場面転換で緊迫感を出したり、3年前の話と現在の捜索とのつなぎは上手くできているけど、この血を使いすぎの残虐さの表現は、それらをカバーできないほどひどいわ。
男:いなくなった娘を探すより、監督には自分の正常な感覚を探させた方がいいってことだ。
女:だいたい、家庭で娘や子供に対して普段からまともな躾をしていないから、訳のわからない娘ができるのよ。
男:確かに、うちでは、きみが子供たちに優れた躾をしてくれたから、みんな良い娘に育ったね。
  明るい日差しが窓から差し込み、レースのカーテンがそよ風に揺れる、まさしく、理想の家庭だよ。
女:それは、私に対する皮肉?
男:いいや、わたしは、本当に心から感謝している気持ちだよ。
女:どうして、そこで、声が小さくなるのっ!

中島哲也監督の; 「告白」 (2010年)、 「嫌われ松子の一生」 (2006年)
役所広司;「終の信託」 (2012年)






  万能鑑定士 Q ~モナ・リザの瞳~   

あらすじ: 沖縄の離島から東京へ出てきた凜田莉子(リンダ・リコ:綾瀬はるか)は、高校時代の学業の成績は最低だったが、バイト先で出会った店主から特殊な記憶術を教えられ、今ではその優れた記憶と推理を活かして、絵画や陶器などの骨董美術品だけでなく、生活用品の鑑定までを行う「万能鑑定士」として店を構え評判もよかった。そんな彼女のもとに、レストランを貸切にしたいといういかがわしい内容の鑑定が持ち込まれ、これはレストランの上の階の宝石店を狙った泥棒と見破った。その功績で、莉子はフランスのルーヴル美術館が日本で「モナ・リザ」を展示するに際しての臨時学芸員として、流泉寺美沙(リュウセンジ・ミサ:初音映莉子)と共に採用された。しかし、真贋を見極めるためにルーヴル側が用意した研修方法には、隠された秘密があり、莉子の鑑定能力が乱れてしまう。そして、40年振りに日本で公開された「モナ・リザ」が。。。

実に安易に作られた、ひどい映画を観てしまった!

 出演者としては、他にこの原作本を出している角川書店に勤める冴えない記者:小笠原悠斗として松坂桃季。監督は、佐藤信介。

 冒頭の料理をする時にでる音と宝石店を襲うための音を消しあうアイデアは面白くて、これは、案外観られるのではと期待したが、あとの展開がまったく練られていない。

 だいたい人物の設定から映画になっていない。
一流の鑑定士の眼は、実物を見ているから偽物が分かるわけだが、この真贋を見極めるのは、特別な記憶術で得られるものではない。
単に印刷された画集を見ただけで鑑定の能力は養われるものではないということだ。

 また、ルーヴル美術館のアジアでの代理人と莉子がかなり深刻な相談をしている席に、どうして、見知らぬ雑誌記者の小笠原が同席できるのか、ここらから、安易に作られた脚本だということが露呈していく。

 音の消しあいでは科学的な発想をしていて、これは、推理物として面白くなるかと思ったら、次はもともとは頭の悪い娘が何かの刺激を受けて脳が目覚め、一夜にして今まで接したことのないフランス語を本を読むだけでマスターして話せるまでになったでは、もう、完全に漫画の世界で、余りにも適当過ぎる話の持っていき方である。

 他にも真贋の訓練をするやりかたが、莉子の鑑定力を無くさせることになっているが、最初に本物がなければ、偽物がどれかは分からないのは当然だ。
直感でする鑑定なら、私にでもできる。
さらに「モナ・リザの瞳」に隠されていたという文字は、この展開では何の意味があったのか、不可思議な話で終わる。

 そして、最後で、最大の酷い不自然さが、「モナ・リザ」を燃やすシーンだ。
ここは、犯人の逃亡時間を稼ぐためだというけど、誰が絵を燃やすのに、額縁の下から薪まで用意して、時間をかけて燃やすだろうか。
絵そのものに火をつけるのが通常だけど、佐藤信介監督の幼稚な発想では、ここで時間をかければ観客がハラハラしてくれると思ったようだ。が、残念ながら観てる方では、全然じらされない。時間ばかりかけて下手な演出だと、退屈で飽きている。

 この映画では、映画を作るという企画の段階から始まり、製作サイドにおける脚本のチェックが充分になされていないことが良く分かる。
せっかく、フランスのルーヴル美術館での撮影ができたのに、この監督:佐藤信介では、フランスでロケをしてもひとつもまともな演出ができていなかった。

フランスのルーヴル美術館なら; 「駆け足で回ったヨーロッパ」 -フランス編- があります。
綾瀬はるか が出ている; 「あなたへ」 (2012年)、 「プリンセス・トヨトミ」 (2011年)



  シスター・アクト ~天使にラブ・ソングを~   ミュージカル (帝国劇場)

あらすじ: フィラデルフィアの場末のナイト・クラブで歌っている黒人のデロリス(瀬奈じゅん)は、暴力団のボス:カーティス(大澄賢也)が裏切り者を射殺する現場を目撃したために、カーティスから追われるはめになった。どうにか警察署に逃げ込み重要な証人となるが、裁判が開かれるまでには、まだ日にちがあった。そこで、デロリスは幼馴染の警官:エディ(石井一孝)の助けで、廃院になりそうな目立たない修道院に、シスターと偽って公判まで身を隠すことになる。だが、修道院内で派手な行動をするデロリスは戒律を重んじる院長(鳳蘭)とは馬が合わない。しかし、下手な聖歌隊の指導を任されたデロリスの自信に溢れた行動が他の修道尼たちにもいい影響を及ぼす。そして聖歌隊の歌唱力も上がり、ミサに来る教徒も増え修道院は廃院を免れたが、評判になった修道院の聖歌隊がデロリスと共に地元のテレビで紹介され、それを見た暴力団のカーティスたちが、デロリスを殺しに来る。デロリスの命が危ない。。。

もっと、ドタバタ感を強調しないと面白くない!

 あらすじと、サブ・タイトル「天使にラブ・ソングを」で、どこかでこのような話の映画があったと思う人も多いでしょう。

 そう、このミュージカルの元になっているのは、黒人のウーピー・ゴールドバーグが主役を演じて日本でもヒットした映画「天使にラブ・ソングを (原題:Sister Act)」を、そのウーピー・ゴールドバーグが共同製作者となり、ミュージカルとして、2009年にロンドンで舞台化したものです。
その後、ブロードウェイなど世界各地でも公演されたのが、今回日本で初演となったとのことです。

 舞台化でも時代の背景となっているのは、映画と同じように1980年代のディスコ全盛の頃で、そこで当時流行った映画「サタデー・ナイト・フィーバー」 で主人公を演じたジョン・トラボルタの白い上下のスーツを着て大きく右手を上げたシーンに憧れる警官や、デロリスのセリフの中でドナ・サマーなどのセクシーな歌手名が出てきます。
なお、舞台化では、映画で歌われていたリトル・ペギー・マーチの「I Will Follow Him」などは採用されずに、全部、アラン・メンケンが作曲して、日本版では、飯島早苗が翻訳・訳詞し、演出は山田和也です。

 主役のデロリス役には今夜観た瀬奈じゅんの他に、森公美子、また暴力団のボス役には、今夜観た大澄賢也の他に吉原光夫もダブル・キャストとして配されています。

 私は映画版の「天使にラブ・ソングを」を”パート2”まで観ているために、舞台版も同じような内容であるため、どうしても映画版で主役を務めた黒人のウーピー・ゴールドバーグと今回舞台で主役になった瀬奈じゅんとの比較になってしまう。

 そこでの感想は、”瀬奈じゅんでは上品すぎる”ということになる。
この「天使にラブ・ソングを (原題:シスター・アクト)」がコメディである1つのテーマは、教会にも顔を出さない”黒人のハスッパなゴスペル・シンガー”が、白人女性たちで構成される戒律を重んじる修道院に入り込むという設定にある。
そこで、基本的な対立構想として、黒人対白人、自由な発想をするシンガー対神を中心とした粗末な修道尼の生活。
そこから生まれる人種の違いによる笑い、生活の違いによる笑いがこの舞台化においてもあるはずだけど、残念ながら、この瀬奈じゅんでは、それらがまったく感じられない。

 日本語の訳のつたなさに寄るのかも知れないが、瀬奈じゅんのセリフがきれい過ぎて、これでは、教養のないハスッパな黒人女性になっていない。
どこかに、よくある宝塚歌劇にみるような、スマートなヒロインの雰囲気を残し過ぎだ。
ここは、もっと、もっと下品さを強調した芝居をしないと、修道尼たちとの差がでないために、笑いがとれない。

 演出の山田和也にも瀬奈じゅんを中心にした宝塚の観客だけを意識せずに、これは、コメディだという主張のもとに、一般の観客にも通用する確固たる演出が欲しい。

 また、ギャングのボスや汗っかきエディなどの男性陣も、笑いをとるためには、もっとオーバーに暴れていい。
女性が主役の舞台でも、しっかりした男性の脇役がないと全体のしまりがなくなっている。遠慮は不要だ。

 舞台装置では、教会をイメージしたステンド・グラスや粗末なベッドなども上手くできている。
各シーンとの切り替えもスムーズだ。
しかし、折角教会で2階部分がある装置を作ったのなら、シスターの聖歌隊は、この2階からもコーラスする演出もあったのではないか。

 音量がよくない。
ロックと言ったら、まさに耳をつんざくばかりの音量でやればいいと思っている演出では、まだまだ駆け出しの演出家だ。
現実に観客の鼓膜を破るのがロック音楽の表現ではない。雰囲気で充分にロックの感覚を出す、ヴォリュームに頼らない演出が欲しい。

 この「シスター・アクト」では、鳳蘭が修道院長役で出ているが、最初は目立たず、徐々に歌い振りでその存在感を出してくるのは、流石だ。
また、宮澤エマが、若い修道尼見習い役で出ていて、かなり重要なシーンでの歌いを任されているが、大役を果たしている。
宮澤エマはいい役を貰った。次のミュージカルにもチャレンジして欲しい。

 全体として、日本語としての訳の再考ともっとメリハリをつけた演出が望まれる舞台だった。

瀬名じゅんの舞台; 「エニシング・ゴーズ」  (2013年) 、 「ニューヨークに行きたい」 (2011年) 


  グランド・ブダペスト・ホテル  

あらすじ: 作家の私(ジュード・ロウ) は、若い頃、素材を求めてヨーロッパ・アルプスにある「グランド・ブダペスト・ホテル」に泊まったことがあった。さびれた感じのするホテルであったが、そのホテルのオーナーであるゼロ・ムスタファ氏と出会い彼から1930年代の話を聞いた。その頃の「グランド・ブダペスト・ホテル」では、グスタヴ・H(レイフ・ファインズ )が総支配人として采配をふるい、ヨーロッパの各地から多くの貴族たちが、彼の隅々まで気の行き届いたおもてなしをうけて長期に渡り滞在をし、ホテルは華やかに栄えていた。その名門ホテルにインドから逃れて来たゼロ・ムスタファ(トニー・レヴォロリ )が、ロビー・ボーイとして採用されたのがこのホテルのホーナーになるきっかけだったという。グスタヴ・H氏の優れた接客術とサービス精神は、高齢の貴族:マダムD(ティルダ・スウィントン)には特に気に入られ、彼女が残した遺言で、グスタヴには高価な絵が贈られることになる。しかし、マダムDの全ての財産を継ごうとする息子:ドミトリー(エイドリアン・ブロディ) は、グスタヴをマダムDの殺人者に仕立て上げ、グスタヴは牢獄に入れられる。ゼロとその恋人:アガサ(シアーシャ・ローナン)の協力で、脱獄に成功したグスタヴは、ホテル業界のネットワークを使い、真の殺人者に迫るが、時代は、第二次世界大戦に入ろうとしていた。。。

女:大きな笑いはないけれど、クスクスとした軽い笑いがあちらこちらに散りばめられていたわね!


男:監督は、インドで三兄弟が顔を会わせる「ダージリン急行」や、小さな島で恋に目覚めた少年と少女が逃げる「ムーンライズ・キングダム」のウェス・アンダーソンだ。
女:このウェス・アンダーソン監督が描く世界は、独特のものがあるわね。
男:今までのウェス・アンダーソン監督の作品は、笑いが退屈だったけど、今度の映画は予告編を観たときから、かなり漫画的な内容だとは思っていたけれど、悪ふざけにしていない出来だった。
女:出だしで、この映画は、架空のホテルでおきた適当な物語と言っているから、最初から気楽に観られるのよ。
男:まだ髭も生えないロビー・ボーイが、グスタヴに憧れて鼻の下に墨で一本の髭を書いていても、誰も気にしないのだからここから笑える。
女:ホテル全体がピンクの綺麗なミニチュア・セットで可愛くできているのと、話の中心になる小さなお菓子の存在も、この映画をなんとなく、ほんわかとさせてるわね。
男:誰がマダムDを殺したかの謎を解くということになっているけど、その展開は全然ミステリー仕立てではないから、肩が凝らない。
女:今度は、ウェス・アンダーソン監督の遊び心についていけたということね。
男:ソリで殺人者を追いかけたり、監獄からの脱出方法など、笑いの取り方がドタバタ喜劇調で、昔の笑いのパターンを踏んでいて古くさいけどここまでやられると、ついそれなりに笑ってしまう。
女:美女の頬に大きなあざを入れさせるとは、もう大胆すぎるわね。
男:でもウェス・アンダーソン監督は、案外残虐な映像も時々入れるのはどうかな。
女:弁護士の猫を窓から捨てたり、指が切り取られたりするシーンね。
男:このような残虐性のあるシーンを、次の笑いのネタにするのはまだまだ修正する必要がある。
女:違う手法で笑いをとって欲しいわね。
男:この映画では、自分の体験で得た人生で成功するスベを、まだ若い青年に教えることも入っているよ。
女:ホテルのロビー・ボーイから出発したグスタヴが、同じような境遇にあるゼロをいつも側においているのは、ホテルの仕事を教えるだけでなく人生教育もしているってことね。
男:他の人からみれば、のんびりとした生活を過ごしているように見えるけど、その人にはその人でしか分からない悩みや葛藤はあって、それなりの解決策を見つけている。
  その解決策を後に続く人に伝えていくのが老人の役目だからね。
女:でも伝えられても、全然役に立たない話もあるわよ。
男:えっ、それは、誰のことを指しているんだい!
女:特に、あなたのことを言っているんじゃないのよ。
  世間一般での話し。世間の。

男:そうかー、それなら、いいけど。
女:ふぅ、世話のやける人ね。

ウェス・アンダーソン監督の; 「ムーンライズ・キングダム」 (2013年)、 「ダージリン急行」 (2008年)

 本当のブダペストを知りたいなら; 「中欧の旅 -第5日目 -」 ハンガリーの首都:ブダペスト もあります。




  とらわれて夏  

あらすじ: アメリカは、刑務所に近いある町に住む13歳の少年:ヘンリー(ガトリン・グリフィス)は、度々の流産が原因で離婚した母:アデル(ケイト・ウィンスレット)に引き取られて、9月から始まる新学期を迎えようとしていた。母:アデルは、流産の影響で軽いうつ病になり、スーパー・マーケットへの買いだめも月1度程度だった。そんなスーパーへ母子で行ったところ運悪く脱獄囚のフランク(ジョシュ・ブローリン)に出会い、脅かされ自宅に彼を匿う羽目になった。フランクは妻を殺した罪で服役していたが、腸の手術を受けた際に病院から逃走したのだ。絶対に危害を加えないというフランクには暴力性が感じられず、アデルとヘンリーは、逃亡用の列車が走るまでという約束でフランクを匿うが、生憎、暦は「レイバー・デイ(勤労感謝の日)」と土日が重なっていて、当分列車は来なかった。次の列車が来るまでの間にフランクは、家や車の修理をし、美味いパイ料理も作り、いつの間にか、アデルとヘンリーは彼に心を許すまでになっていた。また、フランクもアデルが好きになり、短い出会いが、3人をカナダへの逃避行へと決心させるが、町には、脱獄囚を探す警官が。。。

母親が脱獄囚に惚れるまでは、安易な描き方だが、性に目覚める少年の感性の描き方は面白い!
 監督は、ジェイソン・ライトマン。彼の作品としては、思いがけず妊娠した女子高生を描いた「JUNO/ジュノ」や、解雇を言い渡す「マイレージ、マイライフ」がある。

 物語の展開法としては、13歳の男の子:ヘンリーのナレーションを通じて、母親との生活や、離婚の原因などが紹介され、また、脱獄囚:フランクがどうして、浮気な妻を殺したのかなどが、断片的に回想として挿入される。

 大体、殺人を犯したけれど気の優しい脱獄囚という設定は、かなり現実離れしていて、受け入れがたい。
また、その脱獄囚が、男手の足りない家庭で、家の修理や美味いパイを作ったり、少年にデートで車のタイヤがバンクした時に備えて、タイヤ交換のやり方までを教えるとは、もう、逃亡者としての緊迫感が無さ過ぎる絵空ごとである。

 それに輪をかけたのが、庭でのキャッチ・ボールをするシーンだ。
人里離れた郊外の一軒家でもなく、息子の面倒をみてくれと頼む強引なおばさんが近くに住んでいるようだし、それでなくても、こんな女所帯に急に男が表われれば、すぐに近所の人の目に留まり、不審者として警察に通報されるだろうと、突込みが入る。
確かに、監督としては、父親との触れ合いがなく育った男の子が、野球を通じて父親的な男に接する喜びを得ていることで、離婚した母親に家庭における男の存在の必要性を感じさせるために、このシーンを入れたかったとは分かるが、その方法が野球では、よくあるパターンである。

 また、脱獄囚と母親との関係は、チラシにあるような「心優しい脱獄犯との禁断の恋」なんてきれいなものではなく、最初から男に飢えていた離婚妻の肉欲とも取れる描き方が少しばかり残念だ。

 あらすじからは省いたが、この映画では、13歳の男の子が、転校生として引っ越してきたおませな女の子との淡い恋心も描いている。
今までの、よく知っている田舎じみた女の子と違い派手なメイキャップをした転校生が相手なら、普通の生活をしていた男の子の性も当然、立派に目覚めてくる。

 そして、この映画は離婚をして男性から遠ざかっていた母親も女だと分かる男の子の成長記録でもある。
小さい頃には母親は自分だけを愛してくれる母親の存在で、母親に女性を感じる事はないけけど、成長と共に、母親も女だと感じるようになる。
男女の交わりを直接出すこともなく、ナイーブな13歳の男の子の気持ちを代弁した描き方は、ジェイソン・ライトマン監督の上手さだ。

 でも最後にフランクが大人しく警察に捕まるシーンは、物足りない。
ここは、「ボニー・アンド・クライド(俺たちに明日はない)」での壮絶な銃撃戦による死が前振りとしてあるのなら、脱獄囚:フランクも警察に撃たれて、終わりにして欲しかった。

ジェイソン・ライトマン監督の; 「マイレージ、マイライフ」 (2010年)
ケイト・ウィンスレットの; 「愛を読む人」 (2009年)
息子:ヘンリーを演じたガトリン・グリフィスの; 「チェンジリング」 (2009年)

  WOOD JOB! 神去(かみさり)なあなあ日常  

あらすじ:都会に住み暢気に過ごしてきた18歳の平野勇気(染谷将太)だったが、大学受験に失敗し、恋人にも振られて、お先が真っ暗な状態だった。そこで自衛隊員募集などのパンフレットから適当に進路を決めようとしたら、かわいいモデルを使った1年間の林業研修のパンフレットを見つけ、とりあえず参加をする。チェーン・ソウを使った木の切り方や木登りのやり方などを山育ちの飯田ヨキ(伊藤英明)らから厳しく教えられる。1ヶ月の基礎研修期間中に逃げ出す研修生もいたが、勇気はパンフレットのモデルになった、石井直紀(長澤まさみ)が住んでいる携帯電話の電波も届かない山奥の村で残りの期間の実地研修にも参加を決めた。研修中には経験できなかったほど高い木の上での枝の伐採。雨や風の中での植樹。厳しい自然の中での林業は決して楽な仕事ではなかった。しかし、お尻をヒルに噛まれながらも、素朴な村人たちとの交流が生まれ、生きる方向を見つける勇気。よそ者が参加できないふんどし一丁の「祭り」に加わることができたが。。。

肩のこらない、林業紹介に終わった!
 監督が「ウォーターボーイズ」や「スウィングガールズ」また、「ハッピーフライト」や「ロボジー」と毎回ユニークな作品を撮っている矢口史靖(しのぶ)なので、林業という職業をどう扱っているかとかなり高い期待度を持って映画館に足を運ぶ。

 タイトルの「Wood Job!」は、いい仕事をしたときに使われる誉め言葉「Good Job!」からの駄洒落とはすぐに分かる。

 今回の矢口監督の映画には、三浦しをんの原作「神去なあなあ日常」があるとのことだ。
私は、読んでいないけど、原作は林業について細かく調べた内容のようだ。

 そこで、映画の出来だが、実に平凡な展開で面白くない。

 のんべんダラリと暢気に暮らしていた都会の若者が過酷ではあるが素朴な田舎の生活に触れて、男として、大人として成長して行くわけだが、この展開が過去の多くの映画と同じであり退屈だ。

 映画を多く観ている人なら、この展開は、特に人が少ない山奥でなくても、暑さだけがある南の島でサトウキビを刈る作業でも同じだし、未熟な若者に厳しく接する山男も海なら潜水方法を容赦なく叩き込む海の男の役どころで、どこかでよく描かれてきた、もう十分に見飽きた設定であった。

 田舎で生活をしているうちに、都会に住んでいる同世代の若者とは違った自分に目覚めたなんて、もうヘドがでそうになる、ベタ・ベタな取り上げ方であった。

 そして、子供が行方不明になるシーンでのファンタジー的な演出は、何を言いたいのかわからない。

 男性の水泳でのシンクロや女学生のジャズバンドなど、今までは、独自の目線で取り組んできた矢口監督にしては、今回の林業体験は不十分な咀嚼である。

 最後の男性をシンボルにした「神木」が女性に突っ込んでいくシーンにもっと焦点を絞ったら面白くなったか?

 矢口監督の前作; 「ロボジー」 (2012年) 、 「ハッピーフライト」 (2008年)
 伊藤英明のハチャメチャな; 「悪の経典」 (2012年)
 いつもはっきりしない長澤まさみの: 「岳」 (2011年)


  テルマエ・ロマエ Ⅱ  

あらすじ: 古代ローマ帝国の頃、時のバドリアヌス皇帝(市村正親)の贔屓を得て、ローマの各地に斬新な風呂場(テルマエ)を造って評判がいい浴場設計士のルシウス(阿部寛)だったが、彼の風呂場に関するアイディアは、窮地に陥ると日本の現代の風呂場にタイム・トリップする特技(?)で得た知識をローマに再現しているものだった。そのルシウスにコロッセオで厳しい死闘を行っているグラディエイターたちを癒す風呂場を造るように命令が下る。しかしいい案が浮かばず窮地に陥ったルシウスは、現代の日本の相撲取りが入っている風呂場にタイム・トリップして、ローマでも日本の相撲を真似た物を造ったり、子供が遊べる温水すべり台などを造るが、ルシウスの目標は日本の「湯トピア」のような巨大な温泉・娯楽施設の建設だった。しかし、肝心の温泉をなかなか掘り当てることができない。日本からルシウスを慕って古代ローマに紛れ込んだ日本の売れない温泉レポーターの山越真実(上戸彩)は魔女と間違われて火あぶりの刑を言い渡せられる。平和を推進する皇帝と武闘派の元老院の一部との対立も激しさを増す。果たして、お湯はでるのか。。。

女:まったく、前作よりも内容のない話になったわね!

男:2012年にヤマザキマリの漫画を元に映画化された「テルマエ・ロマエ」の続編だね。
女:前作と同じように、阿部寛や市村正親、北村一輝、宍戸開など日本でも評判の「顔の濃い人」たちがそのままローマ人として、現地人に交じって演技しているのね。
男:あまり期待しないで作った前作の興業収入が意外なことに60億円近くにもなったものだから、この映画の世界での常識として「柳の下の2匹目のどじょう」を狙った企画だ。
女:2年前には、あなたは、オーストリアなんかの「中央ヨーロッパの旅行」から帰ってきてこの「テルマエ・ロマエ」を観てたようだけど、今度も同じタイミングで「スリランカとインドの旅」から帰ってきて、「テルマエ・ロマエ Ⅱ」を観たのね。
男:そうだね。
  今は、その「スリランカとインドの旅」の旅行記の作成に追われて、映画を観る気持ちも薄れていたけど、たまたま、私が持っている宅地建物取引主任者の資格の5年ごとの講習会の申し込みに行く必要があり、そのついでに映画館に足を伸ばした程度の軽い気持ちで観たよ。
女:日本の体を洗うだけでなく癒しの効果もある風呂文化が優れているのは、認めるわね。
男:そう、海外旅行をして残念なのは、ホテルの浴室には、バス・タブがなくて、単にシャワーで体を洗うだけということだよ。
  時々、バス・タブがあってもそこにお湯が少ししか溜められないので、日本の湯船のように体の全身をお湯に浸すことができない。
  これでは、風呂場でお湯につかり、北島三郎ばりに「与作」の歌を気持ちよく歌う気分までにはならない。
女:全身がゆったりとお湯に包まれる開放感を外国人にもぜひ体験して欲しいものね。
男:それに日本の発明として海外に薦めたいのが、風呂文化のほかに、前作の「テルマエ・ロマエ」でも取り上げられた、シャワー・トイレの気持ち良さだ。
女:本当に、シャワー・トイレに慣れてしまうと、海外で用を足すときに、どうすればいいのか戸惑ってしまうわ。
男:でも、この「テルマエ・ロマエ Ⅱ」では、癒しの風呂と気持ちいいシャワー・トイレの話は、全部前作で描いたために、もうネタが切れてしまったからまったく面白くない。
女:そこで、日本独特の文化として相撲を取り上げたようだけど、相撲と風呂を結びつけるにはなんのひねりもない脚本よ。
男:「ローマの風呂」というタイトルなら、もっと風呂の題材を掘り下げて描くべきだ。
  そこらにある、指圧や針療法、それにラーメン屋を取り上げているのではまったく風呂文化には関係のない安っぽい出来の日本紹介映画に終わった。
女:脚本を作る段階で、風呂に関する新しい素材を見つけられないならもう映画化の企画を中止すべき内容よ。
  上映時間をかせぐためだけで無理やり皇帝と元老院との政治闘争まで入れる必要もないでしょう。

男:役の設定も酷い。
  北村一輝のケイオニウスが双子だったり、松島トモ子や白木みのるの出演も意味が不明だ。
女:そうね。
  映画全体で、笹野高史にしても老人たちが出すぎね。

男:だいたい、風呂場のシーンで、男女混浴もあるのに、どうして上戸彩ちゃんの入浴シーンが、首から上しかないのかという疑問があるね。
女:またまた、あなたの期待が大きく外れたのが、この映画の評価が悪い最大の原因だったの?
男:いや、そっ、そっ、それだけではないけど...
女:まったく、何を期待して、映画を観ているのっ!

今回同様に退屈だった、前作; 「テルマエ・ロマエ」 (2012年)
ローマに興味があれば;「駆け足で廻ったヨーロッパ旅行記」 -イタリア編- 
役ごとに体を鍛えている、阿部寛の前作; 「つやのよる」 (2013年)





  それでも夜は明ける  

あらすじ: 1840年代の奴隷制度があったアメリカ。しかし東部のニューヨーク州では、黒人でも白人と同じように自由で、黒人のソロモン・ノーサップ(キウェテル・イジョフォー)は、ヴァイオリン弾きとして妻子と共に普通に暮らしていた。だが、奴隷商人に騙されて拉致され、名前も、プラットと変えられて南部のニューオーリンズの大きな綿花農園に奴隷として売られる。最初の農園主のフォード(ベネディクト・カンバーバッチ)は優しかったが、フォードは借金がかさみ、次にソロモンを買ったエップス(マイケル・ファスベンダー)の農園での生活は地獄だった。エップスは黒人奴隷を人間と見ていなく、綿花の収穫が少ないと鞭打ちや暴力を振るうだけでなく、逃亡しようとすれば縛り首にして殺すこともよくあった。また、若い黒人女のバッツィー(ルピタ・ニョンゴ)に眼をつけ、性欲を満たしていた。苛酷な日々を送るソロモンを助けたのは。。。

女:観ている人でも、鞭に打たれる痛さを、体に感じる映画ね!

男:監督は、スティーヴ・マックィーンというので、あの「大脱走」などに出ていた俳優のスティーヴ・マックィーンがまだ生きていて、映画の監督をしたのかと思ったよ。
女:そんな訳は無いでしょう。
  このスティーヴ・マックィーン監督は、昔の俳優のスティーヴ・マックィーンとは同姓同名だけど、イギリス人でまだ新進の黒人監督で、前作には「SHAME -シェイム-」があると宣伝にあるわよ。

男:そうか、でも「SHAME -シェイム-」は観ていないから、これが、私にとってスティーヴ・マックィーン監督のデビュー作品だ。
女:そんな監督が、この「それでも夜は明ける」という映画で2014年のアカデミー・作品賞をとったというから観たということね。
男:タイトルの「それでも夜は明ける」とは、なんと叙情的なタイトルで分かったようで、実に分からないタイトルだ。
女:そうよね。
  地球が回っている限り、朝には日が昇り、夜が来て、その夜が明けて朝が又来るのは普遍的な当たり前の真実で別に面白くもないタイトルよ。

男:英語のタイトルは「12 Years a Slave」とあるから、「奴隷としての12年間」ということで、この方が、映画の内容を明確に表していると思うけどね。
女:アメリカでも北部なら自由な生活ができた黒人が奴隷商人に拉致されて、南部で過酷な奴隷として12年間自由を奪われて働かされたという自叙伝に基づいているということよ。
男:この「事実に基づく」映画化というクレジットは、他の映画でも言えるけど、どこまで信用できるかだ。
  確かに1840年代には、黒人奴隷には、「人」としての扱いがなかったようだけど、その黒人奴隷の生活の中から一部分を強調するのは、映画を作る監督の個人的な考えと裁量だから注意して観ないといけない。
女:この映画では黒人奴隷の悲惨な場面ばかりが出ているってことね。
男:黒人奴隷だけでなく、現代でも貧しい人が、裕福な人に使われるのは、現在の会社組織に見られるように同じことだし、女性が力を持った男性の性欲の対象となるのも、今でも変わっていない。
  この映画が昔の黒人奴隷に名を借りて、奴隷制度が廃止されて200年が過ぎても依然として支配する者と支配される者の状況は変わらないという問題を提起したいのなら、まだまだの出来だ。
女:そこまで考えて作られた映画じゃ無いようよ。
  それが証拠には、プラットのした大工仕事がどうして良くできていないと難癖を付けられるのとか、縛り首になったプラットがいつまでもつま先で縛られていたりなど、ここあたりは、もっとどうしてかの説明が必要なのに作りが雑で話の内容が分からないことが多かったでしょう。

男:奴隷として生活している割には、絶望感が出ていないんだね。
女:原作を読んだ監督の頭には、一度は奴隷となったけど、最後には自由に戻れたということが中心にあって、黒人奴隷が経験した死の淵までが描ききれなかったようね。
男:それでプラットよりも、殺してくれと頼む黒人女性の鞭打ちシーンの方が真実味があって印象に残ったわけだ。
女:でも、こんな程度の出来の映画がアカデミーの作品賞をとったり、他の映画評論家の評価も高いとは、意外ね。
男:アフリカを植民地にしていたヨーロッパの白人の映画評論家や未だに黒人差別が残っているアメリカにおいては、このような黒人を扱った映画を無視するとどこかに後ろめたさを感じて、正当な評価が出来ないようだ。
女:過去の白人社会が行ってきた黒人への懺悔で評価がなされているってわけね。
男:所詮、世間の評価は他人の評価として参考にしても、最終判断は、自分が責任をもってするという生き方が肝心だということだよ。
女:でも、それを押し通すと、生活が厳しくなるけど...
男:何か言った?
女:いや、何も。
  あなたは、死ぬまであなたよ。






  アナと雪の女王  -2D、日本語 吹替え版- 

あらすじ:アレンデール王国の王女:エルサ(声:松たか子)と妹のアナ(声:神田沙也加)は、エルサの手に触れたものを凍らせる魔法の力を使って仲良く雪そりや雪だるまで遊んでいたが、エルサが8歳の時に魔法が効きすぎてアナが大怪我をしてしまう。アナは、石の精の力でどうにか助かったが、姉の魔法についての記憶は消えてしまう。エルサの成長と共に強くなる凍らせる魔力を隠すために国王は、城の中でもエルサをできるだけ人目を避けるように生活させ、エルサとアナは怪我の後は会うことがなかった。しかし、両親が海で遭難して亡くなり、20歳になったエルサは、女王として即位することになった。戴冠式に招かれた他国の王子:ハンス(声:津田英佑)に一目ぼれをしたアナの浅はかな感情に怒ったエルサにより、夏だった国は一瞬にして冷たい冬に変わってしまった。自分の魔力を後悔したエルサは、山奥にこもるが、このままでは、アレンデール国には、冬の季節が続く。なんとか姉に城に戻ってもらおうとするアナは山男のクリストフ(声:原慎一郎)の助けで、姉が造った山頂の氷の宮殿へ向かうが、そこには。。。

ファンタジーな映像と音楽! まさしく映画館で観るアニメだ!

 だいたい、アニメなんてものは、本気では観ようとしないのですが、この「アナと雪の女王」は、予告編で女王が雪に覆われた山を歌いながら登って行く途中で、微かな雪を蹴散らかしたり、淡い氷の形を造っていく細やかなシーンの出来栄えの見事さに驚いて、つい、かなり力をいれて映画館に足を運ぶ。

 この気持ちは、春休み入ったお母さんや子供たちにも同様だったようで、平日にも拘わらず映画館は本当に信じ難いほどの超満員で、前方から2番目という巨大なスクリーンが目前に迫り、かなり首も疲れる席しか空いていなかった。

 通常なら楽に、観やすい映画館の中央の席でゆったりと観ているので、また、特に多忙でもない私なので、観るのは別の回や、別の日にしても良かったのですが、昔、昔(?)シネラマで観た「西部開拓史」や「アラビアのロレンス」も混んでいて、前方の席だったと思い出し、たまには、こんな混雑した映画館の雰囲気も懐かしいかなと思って入りました。

 席に座ってみると、想像以上にスクリーンが近い!画面全体を観るには、かなり首を動かさないといけない。
でも、それなりに成果がありました。

 それは、この映像がよくできていることが分かったからです。
アナの顔にある薄いソバカス、肩にあるしみ、可愛い小さな鼻が寒さで赤くなる変化。
それらが、顔の動きと共に微妙に動くこの自然さは、もう感嘆するだけです。

 また、エルサとアナの大きな瞳の虹彩の変化も、ここまで細かく表現されているとは、驚嘆のできばえでした。

 体の動きに従って纏っている衣装にできる影や立体感もよくできています。
まさにディズニーが今までアニメで培ってきた技術が最大限に活かされたファンタステックな仕上がりになっています。

 物語の出来としては、格好のいい王子が本当は王位を狙う悪い奴で、真実の愛は見せ掛けだけではないなど、今までのお子様向けのお伽噺とは少しばかり趣向を変えてはいますが、全体の展開としては、かなりゆるくなっているのは、まあ、ディズニー映画としては仕方のないことでしょう。

 それにしても、エルサ役の声を受け持った松たか子が歌う「Let It Go (ありのままで)」も映像に非常にマッチしていて、これもお勧めです。

 ミュージカル・アニメとして、充分に堪能できました。

 「アナと雪の女王」が上映される前にウオルト・ディズニーの今日を作ったミッキーを偲んで短編が上映されるが、駒落しの白黒だったアニメもカラーになり、動きもスムーズになり今日のように素晴らしい立体感も出すことができるまでに発展してきたのは、同じ時代を経験してきた私にとっては感慨深い。

松たか子の舞台; 「ラ・マンチャの男」 (2005年)


  アナと雪の女王  -3D,字幕版- 

 映像としての「アナと雪の女王」が余りにも、よくできていたので、これが、立体(3D)ならどうなっているのかと思い、3Dで観て来ました。

また、TOHOシネマズで3月に新しく東京の日本橋(室町)に映画館を開設し、そこのスクリーンが大型で、音質もいいとの宣伝があったので、最近の日本橋の街の状況もどうなっているのかと思い、日本橋まで出かけました。

 映画館は、三越本店がある道路を挟んで、コレド室町2という高層ビルの3階に入り口があります。
お目当ての、大型のスクリーンは、TCXと呼ばれ、横:16.0mx縦:6.7mで、音響設備は、ドルビーのアトモス(Dolby Atoms)です。
でも、そこで観るには、通常の観賞費 ¥1,800- にブラスした料金が掛かります。

 まず、3D映画としての、¥400-(これは、もう既に3D眼鏡をもっていれば、¥300-ですみます。) これは、仕方ないですね。
TCXの料金として、+¥100-。 Dolby Atomsの料金として、 これも +¥100- です。
もう既に、3D眼鏡を買っている私は、通常の料金にプラス ¥500- が掛かったということです。
なお、このスクリーン8には、ゆったりとしたプレミアム・ボックス・シートが、館内の中央にあり、この席は、¥2,500-(3D料金とは別途)だそうです。
だいたい、TOHOシネマズの席は階段状で、見やすいので今回は、プレミアム・ボックス・シートの1つ上部の席を確保しました。

 私の映画鑑賞において、同じ映画を続けて観るということ事態が、有り得ないことですが、この立体の画像も実にきれいにできていてそれなりに楽しめました。
当然、立体ですから、人物や建物の前後感などは充分に出ています。
気をつけて観たのが、女王が魔法で創り出す雪の作品です。

 これも素晴らしい出来栄えです。
画面の前方から後方に回転しながら創られていきます。
雪が舞うなど他の画面も丁寧に作られていて、確かに3Dとしての追加料金の価値はありました。

 では、別途料金を取られた音質ですが、これは、もともと映画館の音響設備がいいところで観ているせいか、オーディオに凝っている私でも、特にすごい成果は感じませんでした。

 そして、大型画面ですが、この程度では、他の映画館と大きな差はありません。
まだ、プロジェクターの性能が精密でないのか、2Dの前から2番目の席で観た、アナの顔のソバカスまでは映りこめていませんでした。

 さすがに日本橋の映画館で、観客には、お子様はまばらで、大人たちで一杯でした。

  ウルフ・オブ・ウォールストリート   

あらすじ:学歴はないが、ニューヨークはウォール街にある大手証券会社にブローカー見習いとして就職できたジョーダン・ベルフォート(レオナルド・ディカプリオ)は、話術が巧みな先輩たちの指導でどうにか、ブローカーとしての資格を得て、これから活躍できると思っていたら、ブラック・マンディと呼ばれる金融恐慌に会い証券会社は倒産した。その後職もなく、倉庫の番人でもしようかと思っていたが、妻:テレサ(クリスティン・ミリオティ)に励まされ、ガレージを改造して職場にしている小さな証券会社に勤めることになった。ジョーダンは、元の会社の先輩に教えられた巧みな話術で、その証券会社で扱っている未上場株など怪しげな金融商品を売りさばいて手数料を稼ぎ、同じアパートに住むドニー・アゾフ( ジョナ・ヒル)たちとともに、自分の投資会社:ストラットン・オークモント社を立ち上げた。ジョーダンの優れた経営手法と法すれすれの販売で、会社は、瞬く間に高収益をあげるようになり、規模を大きくしていった。そしてジョーダンやドニーの懐には巨額の札束が舞い込み、金に任せて、多くのストリッパーを呼ぶなど破天荒なパーティを何度も開き、またドラッグにも溺れ、さらに節度無く相手かまわず女性にも手を出し、ついにジョーダンは妻:テレサとは別れるはめになった。その後、モデルのナオミ( マーゴット・ロビー)と再婚し、豪邸に住み、クルーザーも購入し、相変わらず派手な行状で、ウォール街の狼(ウルフ)呼ばれるようになった。しかし、FBIの捜査官:トリック・デナム(カイル・チャンドラー)に目をつけられ、ついに証券取引法違反として逮捕される。他の仲間を売ることで、刑を軽くして貰うが、妻のナオミには離婚を言われる。しかし、ジョーダンは簡単には、落ちぶれない。。。

うるさい叫びと、無駄に長いだけの映画だ!

 監督は、マーティン・スコセッシで、レオナルド・ディカプリオとのコンビでの作品は、「ギャング・オブ・ニューヨーク」や「ディパーテッド」などこれで、5作目とのこと。

 今回ディカプリオが演じるウォール街の金融ブローカー役には、実在の人物がモデルとして存在する。
その人は、26歳で投資会社を創立し、年収約49億円の荒稼ぎをしたが、それから10年でこの映画のようにウォール街を追われたようだ。

 そのモデルになった人が本当に、巧みな話術と斬新な経営手腕で金儲けをしたのは現実だけど、ここまで、薬に溺れ、性に精を出し、法を犯していたかとなると、もうこれは映画という虚構の世界での出来事となる。

 男性が持っている体のエネルギーは一元から出ており、仕事に熱意を持って挑む人は、精力も逞しく、逆に、セックスに弱い男は、仕事もできないというのは、私の持論であるので、この仕事もするし、いつも女性が好きだという男たちの設定は大いに同調できる。

 しかし、その行動にクスリを絡めて、いつもハイ・テンションの気分で生活をしているのは、虚構の作り物としても常軌を外し過ぎた。
映画館でのスピーカー・システムの音響のせいでもあるが、ディカプリオのハイ・テンションのセリフが、耳に、鼓膜を破るほどの高音で響き、私の脳細胞をイライラさせる。
それは、単に音が高いだけでなく、のべつ幕無しに「ファxxx」など、汚い言葉が出てくるのも一因だが。
実際、耳に指を入れて、時々、暴音を防いでいた。

 金を儲けることは特に悪いことではない。勿論、正当な方法で、違法でないやり方である。
そして、企業として、多くの人を使い、さらに金儲けをすることは、この競争を基本とする資本主義社会においては、尊敬される描き方である。
社長として、部下を叱咤激励して働かせ、またその部下がいい成績を上げれば、褒章を与え、会社に忠誠心を持たせるのは、どこの企業でも採用している。

 確かに、若くて成り上った企業のトップは、部下の成果を称えるやり方として、この映画のように、盛大で、ストリッパーを呼んだりするランチキ・パーティを開く傾向はあるが、同じような図柄を、何度も見せられては飽きる。

 そう、話がくどくて、長い。
また、地中海でジョーダンのクルーザーが遭難しそうになる話や、スイスの銀行家の話などはカットしてもいい部分だ。

 観ていて楽しさがない出来だった。

マーティン・スコセッシ監督で、レオナルド・ディカプリオが出ている; 「ギャング・オブ・ニューヨーク」 (2002年)、 「ディパーテッド」 (2007年)
マーティン・スコセッシ監督のこれも長くて退屈だった; 「ヒューゴの不思議な発明」 (2012年)

 

  ネブラスカ   ふたつの心をつなぐ旅   -白黒映画-

あらすじ:アメリカはモンタナ州に住む高齢で最近は老人性のボケも始まっている大酒のみのウディ・グラント(ブルース・ダーン)の元に、100万ドルが当ったという手紙がきた。その手紙は、ネブラスカ州にある雑誌社が、雑誌を購入させるためのインチキなものだったが、当選を信じたウディは雑誌社のあるネブラスカまで一人で歩いても賞金を取りに行くと頑固に言い出し、仕方なく、次男のディビッド(ウィル・フォーテ)は無駄とは分かっていたが、会社を休み父親を車に乗せて、遠いネブラスカまで一緒に行くことにした。旅の途中にある田舎町ホーソーンは、ディビッドの両親の故郷で、ディビッドも15,6年ぐらい前に一度来たことがあった。まだ、親戚や顔馴染みの人も健在だったので、二人が立ち寄ると盛大に歓迎される。ディビッドの両親の若い頃を知っている人たちの両親の恋愛話などは、ディビッドにとって新鮮な話題であった。しかし、ウディに100万ドルが入ると分かると、昔、苦労していた時に世話をしたので、金をくれといいだす親戚とか、事業での損を負担したので、その金を返せとか言い出す元の同僚が出てくる。だが、100万ドルに当選したのは、ウディの勘違いだと分かると、町の人たちはウディを笑い者にした。ディビッドは、そんな父親を励まして。。。

ここまで、父親想いの息子なら、嬉しい!

 監督は、アレクサンダー・ペイン。
まず、ウディが住んでいるアメリカ中央部のモンタナ州とインチキな雑誌社があるネブラスカ州のリンカーン市までの距離が分かると、車でかかる時間なども分かりやすい。

 というわけで、下がその地図です。

 モンタナ州のビリングスから、ネブラスカ州のリンカーンまでの距離は、約1,500 kmだそうで、この距離は、日本でいえば、東京から鹿児島までいっても、まだ足りない距離なのだ。

 そこで、冒頭のボケたウディ老人が当選金を取りに歩いて行くという発想がもう笑えるのだ。

 すぐに目的地であるネブラスカには行かず、両親の故郷に寄って暫く過ごすことになったのも、週末で、雑誌社が営業していないためとか、無理のない設定が憎い。

 この町で息子のディビッドが知らなかった両親の青春時代に触れる訳だがこれが面白い。

 勝気な母親との恋の競争に負けた新聞社の女性。
男関係に奔放だった母。ウディが浮気をして離婚の危機があった話。

 また、親戚の男たちが集まっても、特に話題がなく、みんながぼんやりとテレビを見つめている場面は、大いに笑える。

 最後の息子が、無理をして、父親の夢を、そして父親の見栄を叶えるやり方は、心に浸みるいい終わり方だ。

 この2014年という時代に敢て、白黒の映画としたが、これは、田舎の感じや白髪の老人:ウディの表現が上手くでていた。
白黒映画は、たまたま昔の名作でオードリ・ヘプバーンが出ている「ローマの休日」や、ノルマンディ作戦を扱った「史上最大の作戦」も最近観ているので、特に違和感が無かったせいもあるようだ。

 今は、ボケの始まった父親であっても、急に老人になったわけではなく、昔には、当然青春時代があったわけで、それが笑いをじょうずに誘い、金が絡むと汚くなる人間関係もそのとおりで、面白い。

 エアー・コンプレッサーに拘るのは、分からなかったけど、無愛想に見える父親と息子の関係を丁寧に描いている。



  エヴァの告白   

あらすじ:1921年。戦乱のポーランドで両親を殺され、アメリカへ移民としてやって来たエヴァ・シブルスカ(マリオン・コティヤール)と妹のマグダ(アンジェラ・サラフィアン)だったが、入国審査所で妹は病気が分かり隔離病棟に入れられ、またエヴァは船内で不謹慎な行動をしたため強制送還となった。しかし、入国審査官に顔がきくブルーノ・ワイス( ホアキン・フェニックス)の眼にとまり、彼の裏金でどうにか、ニューヨークに上陸できた。だが、頼りにしてきた親戚からも見放され妹の治療費も必要となったエヴァが生き残れる唯一の道は、ブルーノが紹介してくれる売春だけであった。厳格なカトリック信者であるエヴァにとって売春の行為は大きな罪であたったが、彼女を好きになってくれるマジシャン:オーランド(ジェレミー・レナー)も現れる。が、エヴァを思うブルーノがオーランドを殺してしまう。妹思いのエヴァは、アメリカで生きていけるのか。。。

女:何かありそうだと思わせるけど、同じ話の繰り返しね!

男:監督は、ジェームス・グレイで、彼の祖母や移民して来た人たちから聞いた昔のアメリカへの入国審査の話に惹かれて脚本を書いたようだ。
  そこで、舞台は自由の女神像の近くにある、当時の移民局があったエリス島とニューヨークのスラム街が中心となっている。 
女:で、英語のタイトルは「The Immigrant (移民)」となっているのね。
  でも、日本語のタイトル「エヴァの告白」となると、これは、もう宗教上の懺悔を意味していない?

男:厳格なカトリック信者ということになっているエヴァが、売春をすることが懺悔の対象だけどこの描き方ではそんなに後悔しているようには見えないね。
女:売春や性行為を取り上げていながら、それらが明確に表現されていないのがこの映画を物足りなくてさせていて、不思議よ。
男:そうだね。
  最初のエヴァがアメリカに来る船の中で、男性に対して不適切な行為をしたという話のぼやけた訳し方から、具体的な行為の内容が掴めなかった。
女:船の中の他の人の誤解かもしれないけど、ここは、はっきりと売春に近い行為をしたと表現されないとエヴァのその後の精神的な苦労が分からないわね。
男:体を売ることに対して宗教的な罪の意識が大きくあるのなら、もっと、もっと、毎回行為のたびに、後悔の念が映像として現れていないと観ていて納得できない。
女:その大きな罪も牧師に告白し懺悔すればもうすべて許されるとは、キリスト教も適当な宗教ってことも言いたいのかしら。
男:日本語のタイトルが「エヴァの告白」となっているから、日本で観ている人にとっては、まずなんとなく宗教を感じてしまったけど、ここは、エヴァに対するブルーノのひた向きな愛情映画ととらえた方がいいのかな。
女:入国審査所で最初にエヴァを見たときからエヴァを好きになり、いろいろと彼女の面倒を見てくれるけど、その恋心は告げられない、うぶなブルーノってこと?
男:でも、そのエヴァが、世話になっていながら最初から最後までブルーノを好きでないという単純な設定も退屈だね。
女:あなたがいつも指摘するように、困っている移民を利用して、彼らからお金をかすめとっているブルーノという悪人が悪人に徹しきれない描き方がまた話をつまらなくさせているのよ。
  悪人なら中途半端な人助けなんて善人の行為をしないほうがいいのよ。

男:貧しさや病気なんて話の展開が暗いだけでなくて、スクリーン全体に明るさがないのも原因かな。
女:また、脚本のできも粗くて悪いのね。
  警官に追われて地下道に逃げても、ブルーノだけが殴られて、そばにいるエヴァは見つからないって話や、マジシャンのオーランドが殺されるくだりやその死体をゴミ捨て場に捨てるのは、これでは警察に捕まえてくれというばかりで、雑な作りだったわ。

男:でも、いくら貢いでも、報われない恋心とは実に辛い話だった。
女:そこにあなたは共感するのね。
  報われない恋で、今までいくら貢いだのか、聞きたいわねっ!

男:そっ、そんなことはないよっ!
  私は、だた一人の君だけを・・・
女:どうして、そんなに口ごもるの!

マリオン・コティヤールの; 「エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜」 (2007年)
ホアキン・フェニックスの; 「ザ・マスター」 (2013年)
ジェレミー・レナーの; 「ハート・ロッカー」 (2010年)







  アメリカン・ハッスル   

あらすじ:髪の毛が薄く鬘をし、腹も出ていて妻も子供もいる詐欺師のアーヴィング・ローゼンフェルド(クリスチャン・ベール)だったが、どこか憎めないところもあり、田舎から出てきたシドニー・プロッサー(エイミー・アダムス)は、彼の愛人になった。また、シドニーはセクシーさを活かすテクニックでアーヴィングの騙しに一役買い、二人は、偽の絵画を売ったり、架空の融資話でしっかり騙して儲けていた。しかし、FBI捜査官のリッチー・ディマーソ(ブラッドリー・クーパー )の囮捜査に引っかかり、二人は捕まる。だが、他の詐欺師を教えれば無罪放免になるというFBIの話に乗り、カジノ建設をネタに市長のカーマイン・ポリート(ジェレミー・レナー)に近づくと、話はドンドン大きくなり、大物の政治家だけでなく、マイアミでカジノをやっているマフィアのボス(ロバート・デ・ニーロ)まで絡んできた。FBIで出世を目論むリッチーは、婚約者がいたが、いつか、シドニーを好きになっていた。息子が大好きで、妻と別れることのできないアーヴィング。リッチーの思惑、そしてシドニーとの関係は。。。

うしろの半分は面白いが、まえの半分はかなり退屈!

 「ハッスル」とは、今は懐かしいディスコの曲かと思っていたら、詐欺の意味もあるようだ。 

 監督は、「ザ・ファイター」、「世界にひとつのプレイブック」のデビッド・O・ラッセルで、出演者も、それらの作品で出ていた、クリスチャン・ベール、エイミー・アダムス、そしてブラッドリー・クーパーとロバート・デ・ニーロ、デビッド・O・ラッセル監督好みの役者を揃えている。

 どう考えてもいい女には持てそうもない、禿げ頭とブヨブヨの出っ腹の男が実はスマートな詐欺師とは、よくも、まあこじつけた設定で、この男とエイミー・アダムスとが知り合って、二人で詐欺を働く前半の説明部分は、かなり笑いを意識して作ったようだが、適当に端折った描き方で、それでいて実にダラダラとした感じが強く観ていて退屈だ。
後半に続けるための布石としているが、まったくこれは活きていない。

 体型に色気がないエイミー・アダムスに色気を持たせているのが、単にノーブラで、半分オッパイが見えている服をいつも着せているだけでは、監督の狭い自分だけの趣味の粋を出ていない。
それにしても、アメリカ映画における製作で、誰が強制しているのか知らないが、メインの話に彩を添えようといつも無理に父子の関係や家族の絆を取り上げのも、この映画では無駄な挿入場面で、意味がない。
ここは、詐欺のテクニックにこだわった一本道で行くべきだった。

 しかし、この映画「アメリカン・ハッスル」がその面白さを発揮しだすのは、後半になってからだ。
嘘のカジノ開設の話に腹黒い政治家だけでなく、人を殺したこともあるマフィアのボス:ロバート・デ・ニーロものってきてからは、いつ嘘がばれるのか、それとも上手くいくのか、上手くいっても、マフィアはアーヴィングを生かせておくはずはない。

 この時間の限られた緊迫感の出し方が気持ちよく決まる。
 最後の偽の弁護士との面談もそれなりに練られたアイデアで面白い。
往年の騙しの名作映画「スティング」を思い出させるが、「アマリカン・ハッスル」創作として、それなりにいい出来だ。

 思い出すといえば、使われている曲の数がすごいのもいっておこう。
ディスコが全盛で、1970年代を懐かしくさせるドナ・サマーのセクシーな「I Feel Love」、ポ-ル・マッカトニーとウイングスが歌った007の主題歌「死ぬのは奴らだ」、アメリカがしみじみと歌う「名前の無い馬」、また圧倒的な歌唱力のトム・ジョーンズの「デライア」など、他にもお馴染みのポピュラーな曲が続々と出てくるのは、豪華な選曲だった。

 もっと欲を言えば、詐欺師が最後に善人であるというのは、残念な扱い。
愛を騙すことはできないなんて甘いこともこの際排除して、詐欺師は、死ぬまで詐欺師であるべき。
ここは、葉巻でも咥えて、高笑いしながら終えて欲しいところだった。

デビッド・O・ラッセル監督の ; 「世界にひとつのプレイブック」 (2013年) 、 「ザ・ファイター」 (2011年)
クリスチャン・ベールが出ている; 「パブリック・エネミーズ」 (2009年)
エイミー・アダムスが出ている; 「マスター」 (2013年)




  永遠の0   

あらすじ:祖母の葬儀の席で、大泣きをする祖父:賢一郎(夏八木勲)から、本当の祖父は別にいることを聞かされた弁護士を目指している佐伯健太郎(三浦春馬)は姉でフリー・ライターをしている慶子(吹石一恵)の誘いに乗って、本当の祖父:宮部久蔵(岡田准一)の身元を調査することになった。宮部久蔵は、海軍でも優秀なパイロットで、メカにも強く、終戦間際に特攻隊に志願し、零戦に乗って南の海に散ったことはすぐに分った。元特攻隊で生き残っている長谷川(平幹二朗)や、井崎(橋爪功)の話では、宮部久蔵は海軍一の臆病な人間という評価であった。しかし、同じ特攻隊員で今は、ヤクザの親分になっている景浦(田中泯)に、臆病者だったのではとの話をすると、すごい剣幕で追い返された。また、武田(山本學)の話では、臆病者ではなく、優しい部下思いの人だったという。不可思議な印象を残す宮部久蔵という人物をさらに追求していくと、彼の妻:松乃(井上真央)と生まれたばかりの子供の存在が大きく浮かび上がってきた。宮部久蔵はこの二人の為にきっと生きて帰ると約束をしていたのだ。しかし、彼は志願をしなければ、死を免れられたかもしれないのに、なぜ志願をして、海に散ったのか。敗戦が濃くなった海軍で何があったのか。。。

女:実に丁寧に、時間をかけて作られた映画ね!

男:原作は、百田尚樹で、監督は、「ALWAYS 三丁目の夕日」などの山崎貴で、彼が、特撮(VFX)も担当し、脚本も林民夫と共同で書いている。
女:最初に見た予告編と、出ている俳優が岡田准一と井上真央では、これは退屈な恋愛物語かと思っていたでしょう。
男:そうなんだ。
  でも、この映画の公開が去年の12月21日だけど、まだ、観客動員数が落ちていないので、それなりに、訳があるのではと思い直して観に行った。
女:そしたら、全然、甘ったるい、できの悪い恋物語とは違った内容だったってことね。
男:戦闘機の零戦の実物感を始めとして、ハワイの真珠湾攻撃のシーン、再現されている日本の空母:赤城、そして、特攻で突っ込む緊迫感など、いたるところでのVFXの出来がもう素晴らしいね。
女:高い空や海にしても、かなり実写を取り込んでいるようで、本当に飛行機に乗っている感じがでるし、海に落ちる零戦の波しぶきもまったく違和感のない丁寧な仕上げよ。
  ここまで、CGが古い日本や空中戦を再現できるとは、すごいことね。

男:話の展開としては、宮部久蔵を調べる過程で、現在に生き残っている特攻隊員の回顧談によって、第二次世界大戦を生きた軍人:宮部久蔵の生活が描かれるということだ。
女:この、現在と過去とが行ったり来たりする手法は、よく使われるのね。
  1月号で取り上げた山田洋次監督の「小さいおうち」もこのやりかたでしょう。

男:そうだよ。まったく、この「永遠の0」と「小さいおうち」は、同じように戦争をテーマにしていることと、橋爪功が両方に出ているので、2つの映画を続けて観た人は、後で整理が必要になるね。
女:でも、「永遠の0」の方が、「小さいおうち」よりも、数段に感動的だったわ。
男:誰だって本音では「死」よりも「生きる」ことを望んでいてもそれを口に出したり、行動にすることができなかった時代を再び日本に呼び戻してはいけないという主張が明らかだ。
女:特攻隊員のように、愛国心や宗教上から「自爆」を選んでしまった人たちを、現在では、一般市民にも被害を与える人として、簡単に「テロリスト」と片付けるのは、教育やマスコミのせいよね。
 なぜ、自分の命をかけてまで 「自爆」をするのか、そこまで追い込まれた背景も追及する必要があるのに、分かったような言葉で終わりにしてはいけないということね。

男:演技としては、濱田岳や新井浩文など若手も頑張っているが、ここはもう、景浦役の田中泯に尽きるね。
女:本当に、この田中泯さんが出ているだけで、画面に不思議な緊迫感が醸しだされるからすごいわ。
  私としては、岡田准一君も凛々しくてよかったけど、貴方には、井上真央ちゃんの出番が少なかったのが物足りなかったかと思ったけど。

男:いや、この映画では、岡田准一や井上真央の場面が少しだったから、いい映画になったんだ。
女:あら、いつも若手の女優中心に観ている貴方にしては、珍しい発言ね。
  そこまで言うとは、貴方も歳をとったのね。

男:いや、それは、井上真央ちゃんに色気がないのが ...
女:なにか、いった?
男:いいえ、何も...

山崎貴監督の: 「Always 三丁目の夕日」 (2006年)
井上真央の: 「謝罪の王様」 (2013年)








  小さいおうち   

あらすじ:高齢だが一人暮らしをしていたタキ(倍賞千恵子)が亡くなり、親戚たちで遺品を整理していると、学生の健史(妻夫木聡)宛の箱が出てきた。その箱の中には、健史が生前タキに書くことを勧めていた、タキの自叙を綴ったノートが入っていた。その自叙伝は、東北の田舎からまだ若いタキ(黒木華)が、東京のお屋敷に女中奉公にきた昭和11年から始まっていた。女中として働いていた赤い屋根の家は、近所でも評判の目立つ家で、オモチャを作っている会社の重役のご主人様:雅樹(片岡孝太郎)と美しい奥様:時子(松たか子)、そして子供の頃小児麻痺を患ったがタキの懸命な介護で回復した息子が住んでいた。その頃から、日本と中国との戦争も始まり、一方アメリカとの関係も悪化していたが、屋敷内は何事もなく穏やかに過ぎて行く日々であった。しかし、ご主人様の会社で新しくデザインを担当する板倉(吉岡秀隆)を雇ってから奥様が大きく変わりだした。近くに住む板倉が、食事や会社の仕事関係で度々屋敷を訪れるようになり、いつしか、時子と板倉は、道ならぬ恋に落ちてしまったのだ。二人の行動は、回りも知られるようになるが、もう時子の気持ちは止められなかった。日米の戦局はますます悪くなり、ついに病弱の板倉にも招集令状がきた。最後の逢瀬の手紙をタキに託した時子だったが。。。

山田監督にしては、主張が弱すぎる!

 原作は、中島京子のがあるらしいが、山田洋次が平松恵美子と共同で脚本を書き、監督をしている。

 主演は、上のあらすじで挙げた、倍賞千恵子、妻夫木聡、松たか子、黒木華、吉岡秀隆等の他には、山田監督の前作「東京家族」でも出ていた、橋爪功、吉行和子、中嶋朋子なども脇を固めている。

 世間では、いわゆる「山田組」とも言われる仲間たちが多く出ているので、これでは、特に目だった展開は期待できないが、山田監督が松たか子をどう扱うかがポイントだった。

 うーん、まず、感想の第1弾としては、作品の出来の前に、倍賞千恵子や吉岡秀隆にしても、「歳をとったなぁ」である。
と言うのは、今、丁度テレビで渥美清が出ている「男はつらいよ フーテンの寅」シリーズの第1作からの放映があり、「フーテン」好きの私は、第10作ぐらいまでを観ていて、さくら役の倍賞千恵子がピチピチしていてミニ・スカートをはいているからだ。
 その「男はつらいよ」の第1作が公開されたのが、1969年(昭和44年)だから、あの倍賞が、この「小さなおうち」では、おばあさんの役をしても歳相応で不自然ではないし、満男を演じていた子役の吉岡秀隆がいい青年になっているという、時は過ぎていくものと、現実では分っていても、感慨深い気持ちが溢れる。

 さて、話を「小さいおうち」に戻そう。
話の展開は、タキが自叙伝ノートに綴った、女中として働いていた昭和の中頃から敗戦までと、老齢となったタキと健史とのやりとりが映像として交差し、また、タキの死亡後、終戦間際の米軍の大空襲で行方不明となったお屋敷の息子を健史らが探す場面で構成される。

 戦前の家や庭の作り方、家具のセット、手紙に着ける糊、また着物の洗い張りでの細かさ、さらに家庭内でのご主人と奥様の立場の表現など、いつものように山田監督は手を抜いていないので、私の記憶の中の懐かしい、本当に懐かしい「昔」が蘇る。

 しかし、扱った主題が、この程度の人妻の不倫では、かなり不満のある出来栄えだ。
これでは、戦前の封建的な時代における、許されぬ仲での切なさ、恋に狂う人妻が見えてこない。
いくら、人妻が若い男を好きになってはいけないという時代であっても、そんな規範を超えた「恋慕の情」は押さえられない。

 二人の逢引が、松たか子の和服から除く僅かな足首だけでは、物足りない描き方だ。
いくら周りのセットを細やかに用意しても、感情が伴わない。
女中役の黒木華は、正に女中さんという役にさせたが、松たか子は、山田監督でも使い切れなかったのか。

 そして、山田監督としては、人妻の許されぬ恋心の他に、会社重役の片岡孝太郎のセリフを通じて語らせている戦争批判にもウエイトを置きたかったと思えるが、これも充分に伝わらない。

 山田監督ならば、もう、映画会社や興行成績を気にしないで、遠慮のない、自己主張の強い出来が欲しいと強く感じた作品でした。

山田監督の: 「東京家族」 (2013年)

松たか子なら; 退屈だった 「夢売るふたり」 (2012年) 、良かった 「告白」 (2010年) 



  危険な関係   

あらすじ:日本やヨーロッパの列強が入り組んでいた1931年の中国は上海。金持ちで女関係もだらしないシエ・イーファン(チャン・ドンゴン)は、銀行の重役だった夫を亡くして、今は女性実業家として活躍している初恋の相手:モー・ジュ(セシリア・チャン)と邪悪な賭けをしていた。それは、教師だった夫の遺志を次いで北の避難民を支援している貞淑なドウ・フェンユー(チャン・ツィイー)をイーファンが落とせば、ジュがイーファンのものになり、失敗すれば、イーファンの港の土地がジュのものになるという偽りの恋のゲームだった。フェンユーが身を寄せているイーファンの祖母(リサ・ルー)の田舎の屋敷を利用して巧みにフェンユーを誘惑するイーファン。遊び人のイーファンによる数々のテクニックを使われては、何も知らないフェンユーは、罠に落ちて行く。しかし、恋をゲームとして楽しんできたイーファンの心の中には、いつか。。。

恋をゲームとしか考えないプレイ・ボーイには、当然の結末だ!

 監督は、韓国のホ・ジノ。原作は、フランスの作家:コデルロス・ド・ラクロが1782年に発表した本がある。
俳優は、プレイ・ボーイ役に、韓国のチャン・ドンゴン、貞淑な未亡人には、中国のチャン・ツィイー、そして、女性実業家には、香港のセシリア・チャンとこれまた豪華。
なお、時々片言の英語も混じるが、台詞は、基本的には中国語です。

 原作が、1782年とあり、今度の映画化でも、舞台設定が、1931年の上海とあれば、当然描かれる恋愛関係にしても、古いタイプの恋愛ゲームであることは、予想される。

 しかし、その古典的な筋が、チャン・ツィイーを有名にした「初恋の来た道」の時と変わらずに、いまだに、画面でクローズ・アップされても当時の可憐さを残しているチャン・ツィイーの表情によって素直に溶け込んでくる。

 男性から親切に扱われ、思いやりに溢れた優しい言葉をかけられ続ければ、どんな貞淑な未亡人でも、頑な抵抗はできなくなる。
監督:ホ・ジノの手腕と脚本の出来の良さが、第三者から見れば、嫌味で気障なプレイ・ボーイのセリフと態度だけど、女心を見事にくすぐり、男の術中に入っていく過程を描く。

 最初は遊びのつもりで始めた恋愛ゲームがいつか本気に変わるプレイ・ポーイの心情にしても、よく描かれるパターンだが、随所に本気を示すことによって現実味がある。
男は、遊びと口先ではいっても、その特定の女性と接している時には、100%真面目な気持ちで対応する動物だからだ。

 上流社会を演出する豪華な邸宅のセットやプールなども、手を抜かずに用意されているのも、気持ちいい。
撮影面では、顔のクローズ・アップがこれでは近づき過ぎと思われる場面が多いのは残念だった。

 チャン・ツィイーが演じるフェンユーが、イーファンのために「餃子」をもって行くのは、ホ・ジノ監督の「初恋の来た道」で出てきた「餃子」に対する尊敬と感じられるが、これも活きている。

 偽りの恋を演じたプレイ・ボーイが最後には殺されるが、この筋の展開では、生きていると、イーファンとジュとの関係も面倒さが予想されるので、この結末でいい。

 安心して観られる映画だった。

 それにしても、ひげをはやしたチャン・ドンゴンは、若いころの藤竜也を思い出させ、妖艶なセシリア・チャンは、杉本彩を彷彿とさせて、観ていても中国映画でなく、日本製のようでした。



  鑑定士と顔のない依頼人   

あらすじ:古美術品に関して真贋を見分けることで著名な鑑定人としてまたオークションの司会者としても名を成し富もあるヴァージル・オールドマン(ジェフリー・ラッシュ)だったが、実物の女性より、秘密の部屋に集めた多くの肖像画に描かれた女性たちに囲まれている時間が彼の至福の時であった。そんな彼のもとに古い屋敷に住むクレア(シルヴィア・ホークス)と名乗る女性から電話がかかり、屋敷内の美術品を処分したいので鑑定をして欲しいと依頼をされる。早速、クレアの屋敷を訪れるが、依頼人のクレアは、人前にでると発作が起きる「広場恐怖症」の患者で、ヴァージルとの交渉は、電話や開かずの部屋ごしに進められた。しかし、クレアに興味を抱いたヴァージルは、一度屋敷から帰ったと思わせて、部屋に留まり、クレアの素顔を隠れ見て、長い人生で初めて生きている女性に恋する。そこで、古い時計の修理などをしていて女性にもてる若いロバート(ジム・スタージェス)のアドバイスを受けながら、クレアと親密になるヴァージルであったが、そこには。。。

女:面白い話だけど、高齢の男性にとっては、つらい結末ね!

男:監督と脚本は、イタリアのジュゼペ・トルナトーレだね。
  音楽は、これも監督とは仲がいいらしい、イタリアのエンリオ・モリコーネだ。
女:あなたは、いつも12月、1月と、別のサイトの 「目指せ! マンション管理士・管理業務主任者」 の試験問題の解説で忙しいのに、よく映画を観たわね。
男:多忙は、多忙だけど、マンション管理士・管理業務主任者の試験問題の解説は、無料のサービスだから、本当に観たい映画があれば、それなりに時間を作って映画を観るけど、12月に公開された映画は、チラシや予告編を観ても、映画館まで足を運ばせる内容ではなかったのも映画を観なかった一因だね。
女:そんな中で観たこの「鑑定士と顔のない依頼人」は、かなりの注目作品だったってことね。
男:予告編を観た時には、鑑定士が犯罪に巻き込まれるのかと思っていたけど、まったくこの結末は予想ができなかった。
女:最終的には、ミステリー映画の範疇にはいる筋書きだけど、面白いわね。
男:対比される男女の導入が巧みだね。
  男の方は有名だからその行動は世間の眼に晒されるが、実際は孤独が好き。女性の方は、外が怖くて、その素顔も秘密とは、どうしても、興味をそそられる。
女:この高齢の男性をだますには、やっぱり「色仕掛け」なのね。
男:絵画や骨董品に関しては、偽物と本物を見分けるすごい鑑定眼をもっていても、生身の人間、特に女性が最初から色気で接してくれば、男としては、もう盲目になるということだ。
女:このようなミステリー仕立てとなると、かなり会話で誤魔かして、面倒な部分は、映像から省くけど、この映画では、画面での説明がきちんとできているのよ。
男:依頼人に関する情報が限定されていて、観客がモット、モット教えてくれと持っていくやり方が憎いね。
女:観客が主人公の鑑定士と同じ状況にあって、彼とシンクロナイズされているから素直に観ていられるのね。
男:昔のからくり人形を直す青年や屋敷の向かいにあるカフェの数字に強い身障者にしても、布石が活きている。
女:最初は、この身障者が、もしかしたら依頼人かと思わせるのよね。
男:監督のジュゼペ・トルナトーレが長い時間をかけて脚本を書き上げた成果がうまく出ている。
女:男は騙されたと分かっていても、居なくなった女性を求めてプラハに行くのね。
男:もしかしたら、本当は自分を愛してくれていたんではないかという、かすかな、かすかな期待は、捨てられないんだよ。
女:まったく、往生際が悪い老人ね。
  女は、もうとっくに、若い男とラスベガスにでも行って、遊び回っているわよ。

男:そうか。
  この映画を教訓にして、これからは、若い女性が近づいてきたら充分に気をつけるよ。
女:お金もなくて、ただの年寄りには、誰も近づかないわよ。
男:何かいった?
女:いいえ、何も言ってないわよ。

ジェフリー・ラッシュの良かった: 「英国王のスピーチ」 (2011年)
プラハのからくり時計をもっと知りたいなら; 「中欧の旅」 チェコ や プラハ もあります。でもプラハの 「Night & Day」 まではいっていません。




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