2012年の映画・演劇 評論

     レ・ミゼラブル   

あらすじ: 19世紀のフランス。1片のパンを盗んだ罪で19年間も牢獄に繋がれていたジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)もやっと仮釈放となったが、前科者に対する世間の風は冷たく、親切にしてくれた教会でも銀の食器を盗んでまた警察に捕まる。しかし、牧師が彼を庇ってくれ、監獄送りを逃れることができた。牧師の優しさで目覚めたジャンは、別の人物として必死に働き大きな工場を経営するまでになり、また思いやりのある市長ともなった。そんな市の警察に、逃亡したジャン・バルジャンを執拗に追跡しているジャベール(ラッセル・クロウ)警部が赴任してきた。ジャベールは今の市長が、どこか以前のジャンに似ていると思っていたが、別の町でジャン・バルジャンと名乗る男が捕まったため、疑ったことを市長に詫びる。他人が自分の罪を被ることに自責の念に駆られたジャンは、法廷に名乗り出るが、ジャンの工場で働いていたファンテーヌ(アン・ハサウェイ)が、田舎に残してきた娘のコゼット(アマンダ・セイフライド)の養育をジャンに頼んで死んだため、再び、コゼットと共にパリで逃亡生活に入った。それから、数年後、美しい娘に育ったコゼットは、革命をしようとしている学生マリウス(エディ・レッドメイン)と恋に落ちるが、革命は潰され、怪我をしたマリウスを救ったのはジャンだった。ジャンに対するジャベールの追跡は、まだまだ続くが。。。

映画化でのリアルさとクローズ・アップの多用が、少しばかり舞台より感動を薄くした!

 もともとの原作は、フランスの作家:ヴィクトル・ユゴーの日本語のタイトル「ああ、無情」があるが、これを、アラン・ブーブリンとクロード=ミッシェル・シェーンベルクがミュージカル仕立ての「レ・ミゼラブル」として作り上げ、ロンドンから始まり世界各地の舞台で上演されている作品だ。
ミュージカル「レ・ミゼラブル」は日本での上演も数回あり、私も度々観ている良くできた感動の舞台だ。

 その舞台版に沿って、「英国王のスピーチ」の監督:トム・フーバーが映画化したのが、今回の「レ・ミゼラブル」だ。
通常の映画なら、映像を先に撮り、音声は編集して後から入れるのが普通だが、この映画化にあたっては、映像と歌を同時に撮ったので苦労したのが特徴だと予告編では宣伝している。
現場で努力した結果の録音と映像がどこまで映画の出来に上手く影響したかどうかは、疑問だけど。

 言うまでもなく、舞台と映画の大きな違いは、セットの再現力にかけているお金の差と、また、人物の表現方法で、舞台だと、いくら頑張っても、観客と舞台上には一定の距離があるが、映画では、カメラが好きなだけ俳優に近づき、顔の皺まで見れるとという技術の違いもある。

 その映画での特徴を活かし、冒頭の造船所で船を引っ張る囚人たちが浴びる海水のシーンは、流石に映画だと思わせてくれる。
物語の展開も舞台の構成と同じように展開し、「レ・ミゼラブル」の中の曲としては有名な「夢やぶれて - I Dreamed a Dream 」は、アン・ハサウェイが熱唱し、「民衆の歌 - Do You Hear the People Sing?」もちゃんと出てくる。

 しかし、画面を熱心に観ていると、なぜか疲れる。
その原因は、カメラが、右に左にと、また後ろに回り込むなど、常に細かく動きすぎているせいだ。
戦場やアクション映画のような緊迫感を出すテクニックは必要のない物語なのだから、ここは落ち着いたカメラ・ワークで対処してくれないと、画面に入り込めない。

 また、映画の持っているリアルさが、返って逆効果になったのが、ジャン・バルジャンが大怪我をしたマリウスを担いで地下の下水道を逃げるシーンだ。
舞台では、汚物は当然流れずにされる演技が、映画では、汚い感じを出したため、連想として臭いも付いてくる。
確かに、ここは、最後を控えて重要なシークエンスだけど、ここらは、余り舞台にとらわれずに、映画化しても良かった。

 そして、舞台では感じなかったのだけど、このような映画になると、舞台では省略されていた、時の流れや、逃亡中のお金の出所、どこに隠れて住んでいられたのかなど、明らかでない部分が、かなり不自然になってくる。

 不自然と言えば、ヒュー・ジャックマンとラッセル・クロウが歌うのかよッってところもある。
彼らの過去の経歴では、確かにミュージカルとの接点はあったようだけど、ここは、映画俳優でなく舞台の人たちを抜擢しても良かったのではと思う。
特に、執拗にジャン・バルジャンを追うジャベールのイメージは、ラッセル・クロウのやや太った体型ではなく、もっと痩せた狼の感じが欲しい。

 舞台を先に、何度も観ているためにどうしても、舞台との比較になり、舞台ほどの感動が伝わってこなかった。

舞台版;「レ・ミゼラブル」 (2011年版)
トム・フーバー監督の;「英国王のスピーチ」 (2010年)
ヒュー・ジャックマンの;「リアル・スティール」 (2011年)
ラッセル・クロウの;「アメリカン・ギャングスター」 (2008年)



     恋のロンドン狂騒曲   

あらすじ: 今は成功して財産もある初老の夫婦のアルフィー(アンソニー・ホプキンス)とヘレナ(ジェマ・ジョーンズ)には、結婚している一人娘のサリー(ナオミ・ワッツ)がいるが、男の子を欲しがっていたアルフィーが急に若返りに目覚め、結婚40年目を迎えて離婚する。夫を信頼していたヘレナは、精神が不安定になり自殺を試みるが未遂に終わり、それ以来アルコールとおかしな占い師の予言を信じるようになる。一方、娘:サリーは売れない作家業を続けている夫:ロイ(ジョシュ・ブローリン)との生活を支えるために、ギャラリーに勤めるが、そこのオーナー:グレッグ(アントニオ・バンデラス)の魅力に惹かれている。また、ロイは、向かいのアパートに住んでいる結婚まじかのインド美人(フリーダ・ピント)が気になっていた。若いコールガール(ルーシー・パンチ)をお金でなびかせて電撃的に結婚をしたアルフィーは、彼女に子供ができたと聞かされるが、本当に自分の子供なのか。彼らの離婚そして再婚はうまくいくのか。。。

観終わっても、ほのぼのとした余韻が残る!

 監督と脚本は、ウディ・アレンだ。日本での公開は、2012年の12月になったが、製作は、2010年とのことだ。
英語のタイトルは、「You Will  Meet A Tall Dark Stranger」 で、この言葉は占い師が良く使う「これから、あたたは、背が高くて、かっこいい神秘的な男性に出会うでしょう」というところか。本当は、そんな夢のような世界はないのだけど。

 一筋縄では終わらないよく練られた話の展開には、さすが、ウディ・アレン。無駄に歳はとっていない。

 もう若くはない故に、まだ人生のどこかに自分の痕跡を残したいと思っているアルフィーと若さの体だけのコールガールとの結び付きや、長年夫だけに依存してきた妻が夫と離婚してから、輪廻の世界に入ってしまう生き方など、本人達にとっては、残された限りある時間をどう過ごすか、真面目で真剣な話ではあるが、それらも外の他人から見ると、真剣であればあるほど、笑いを誘う描き方がうまい。

 40年間も連れ添っても、本心が分からず別れる老夫婦。そして、まだ若い娘夫婦であっても、現状には満足できず、隣の芝生が青く見えて、今の生活が疎ましくなる。
1ヶ所に落着けないのは、オスの性であり、強い権力を持っているオスに惹かれるのは、メスの本能だから、仕方ないのだ。

 だからといって、それを行動に移しても、ただ相手が変わったというだけで、もう一度、以前と同じことの繰り返しとなる。
そう、仏教でいえば、一度死んでも時代を超えて生まれ変わる「輪廻」の世界に入り、ウディ・アレンも長い人生経験で見てきた、新しいことに挑戦しても、結局繰り返しの面白さをテーマにしたのはいい。

 また、人生は、不幸かと思えば、次には幸せが来るし、でも、その幸せも長続きしないことも、まさに「禍福は糾える縄の如し」で、ここは、サリーの夫:ロイが友人の作品を盗む例を持ってきていて、面白い。
だけど、その転がり込んだ幸運も死んだと思っていた友人が実は生きていて、これから、またこの件は一騒動あると思わせて、観客にクスクス笑いをもたらすのも憎い出来だ。

 ロイといえば、よくできた美人の妻であっても、毎日見慣れていれば、飽きがきて、向かいのアパートのインド美女の下着姿に惚れるのだけど、逆にインド美女の部屋から妻の下着姿を見れば、また、ドキッとなるシーンは、男の本質を突いていて、大いに笑わされる。

 本来なら、アンソニー・ホプキンスの役は、ウディ・アレン自身がヒョウヒョウとしたイメージで演じたかっただろうが、ここは、アンソニー・ホプキンスの真面目な演じ方でも笑いはとれる。

 出会って、恋して、結婚して、別れて、また恋をする。
あちらこちらに散りばめられたウェットが、大人たちをまた元気にさせる映画だった。

ウディ・アレンの;「タロットカード殺人事件」(2006年)
ナオミ・ワッツの;「J・エドガー」(2011年)

     007 スカイフォール   

あらすじ: NATOのスパイ達を記録したハード・ディスクが何者かに盗まれ、今は時代遅れと言われている007:ジェームス・ボンド(ダニエル・クレイグ)だったがトルコのイスタンブールに飛び犯人を追跡しあと1つのところまで追い詰めたが、仲間:イヴ(ナオミ・ハリス)の誤射で列車の屋根から川に落ち、ボンドは死んだと思われていた。その後、ロンドンにあるイギリスの諜報組織:MI-6の本部では情報網が外部からサイバー攻撃を受け、情報漏れからNATOのスパイが殺されるだけでなく、ついに建物内に仕掛けられた爆弾で、犠牲者も出す事態に陥っていた。MIー6の責任者:M(ジュディ・デンチ)の指導者としてしての地位も追及される。そんな時、死んだと思われていたボンドが、ロンドンに戻り、イスタンブールの情報を元に、犯人を追跡すると、以前MI-6でアジア地区を担当していたシルヴァ(ハビエル・バルデム)が、Mへの復讐心で起こした事件だと分かる。意識的にボンドにつかまり、Mとの距離を詰めるシルヴァの作戦が、Mとボンドの身に迫る。。。

女:筋の粗さはあるけど、気晴らしにはなる映画ね!

男:007シリーズは、最初の「007/ドクター・ノウ」の製作から、50周年となる記念作品で、シリーズでは、23本目ということだね。
女:第1作目の「007/ドクター・ノウ」は、1962年にショーン・コネリーが007を演じたのね。
男:その「007/ドクター・ノウ」は、私が観た時には、「007は殺しの番号」のタイトルだったのが後で、変えられたことも思い出したよ。
  かっこよく拳銃を構えているショーン・コネリーだった。
女:そして、お色気たっぶりの、ボンド・ガールたちも、一緒に思い出したんじゃないの。
男:過去の作品は、一応原作者のイアン・フレミングのアイデアがかなり入っていたけど、今度の「スカイフォール」は、オリジナル脚本で、それをサム・メンデスが監督したってことだ。
女:タイトルのスカイフォールって空が落ちてくるって意味でしょう。
  観るまでは、人工衛星での闘いかと思ったわよ

男:ところが、スカイフォールは、スコットランドの地名で、ジェームス・ボンドが生まれ育った場所だったとはね。
  意外なタイトルだった。
女:話の展開は、007よりもMが中心となっているけど、そのMが死んでも、最期には、また、MI-6のトップの頭文字は、マロリーで”M”だし、その秘書の名も、原作にある当初のマネ・ペニィと原点に戻って、次の作品に繋いでいくようね。
男:その頭文字の「M」が、この作品では重要な意味があるんだね。
女:Mは、母親を意味する”Mother”だったってことね。
男:007を始めとして、MI-6にいる男のスパイ達は、子供の頃から両親を亡くし、Mの下で特殊訓練を受けてきて、Mは母親的な存在だった。
  だから、Mから簡単に見捨てられたシルヴァは、今まで抱いていた愛情と忠誠心が異常な憎しみへと変わり、復讐劇となったってことだ。
女:メインの流れは、そうだけど、映画としての出来は、話が飛び飛びで、強引に最後の屋敷のぶっ飛ばしに持っていくだけよ。
男:冒頭のイスタンブールのバザールの屋根をバイクで走ったり、列車の屋上での殴り合いなどのアクション・シーンは、ちょっとばかり長く感じる。
女:狭い屋根の上をバイクが猛スピードで飛ばすのは、迫力があったけど、バイク・チェイスだけでなく、カー・チェイスにしても、また世界の有名な土地・土地でロケをして、変化をもたせるやり方は、ミッション・インポッシブルなんか他の映画でも取り入れているから、もう見飽きた感覚になるのよね。
男:映画を作る際に世界各地でロケをするのが、前提となっているから、どうして、イスタンブールから上海やマカオへ行くのか、また、ロンドンからスコットランドへ行くのか、この理由付けの弱さが物足りなさの一因だ。
女:映像で良かったのは、マカオの海上に浮かび上がるカジノよ。
男:ここは、実にきれいに撮れたね。
  でも、そのマカオの格闘シーンは、残酷さだけが残るつまらない出来だった。
女:ダニエル・クレイグの裸のシーンと、やたら走り回っているイメージも目に付くわね
男:一部の特殊な映画評論家には、これが受けているようだね。
女:でも私は、裸だけでは映画の出来を評価しなけど。
  そうだ、、シルヴァのアジトは、長崎にある軍艦島の廃墟のイメージからできたのよ。
男:確かに不気味なアジト感はあるけど、シルヴァの多くの部下や、世界を脅かす最新の巨大なコンピューター・システムもあるという設定からは、この描き方では違和感を抱くね。
女:そこなのよ。
  シルヴァがものすごい財産を手に入れて、部下もたくさんいるようだけど、すぐに攻撃しないで夜までまっているなんてところが、かなり甘い脚本で、特に最後の屋敷での戦闘が間延びしていたわ。

男:折角悪役として、ハビエル・バルデムほどの名優を持ってきていながら、攻撃がダラダラし過ぎだ。
女:シルヴァの体が悪いのを、入れ歯に組み込まれた装置でかろうじて維持しているなんて、面倒で分かり難いのも良くないのよ。
男:東西の冷戦が終わった今、スパイ・アクション映画はもう時代遅れとなったけど、次にきたのが、「母親物」で、お涙頂戴では、かなり残念だね。
女:あなたが残念と思うのは、まだ他に理由があるんじゃないの?
男:エッ、もう他にはないけど...
女:ほうらね、図星でしょう!
  ピチピチのボンド・ガールのお色気作戦が足りなくて、それが、最大の不満なのよねッ!

男:そっ、そんなことは、ない、い...よ

ダニエル・クレイグが出ている;「007 慰めの報酬」 (2009年)、「ドラゴン・タトゥーの女」 (2012年)、「カウボーイ&エイリアン」 (2011年)
ハビエル・バルデムは;「食べて、祈って、恋をして」 (2010年)、「ノーカントリー」 (2008年)、 「空を飛ぶ夢」 (2004年)

     人生の特等席  

あらすじ: アメリカのメジャー・リーグのスカウトマンとして、今まで有望な野球選手を多く発掘してきたガス・ロベル(クリント・イーストウッド)も高齢となり球団との契約も、残り3ヶ月となっていた。年齢から眼にも障害が出てきていたが、今年のドラフト会議で指名する有望な高校生を追って、今日も田舎の球場から球場へと旅を続けていた。ガスは妻に先立たれ、一人娘のミッキー(エイミー・アダムス)がいたが、男手一つでは子供を育てられないので、ミッキーが6歳の時に親戚に預けた。ミッキーは、その後、寄宿舎生活をおくり苦労をしながら勉強し、弁護士となり、30歳を過ぎた今は高名な弁護士事務所でパートナーになれるほどになっていたが、頑固でぶっきらぼうな父親と過ごした幼い頃の生活はしっかりと覚えていた。眼が悪くなって心配だという父親の友人の話でミッキーは、田舎の球場にいるガスのもとを訪れるが、ガスと共に自動車事故に会う。幸い怪我は軽傷だったが、心配になったミッキーは、当分父親に付き添う。有望な高校生達のスカウト合戦が熾烈になる。。。

映画の王道をゆく話だが、役者:クリント・エーストウッドで観させる!

最近は、監督としての方が忙しいクリント・イーストウッドだけど、この映画では、俳優として演じている。

 日本語のタイトルは「人生の特等席」となっていて、これは、野球場の安い席でも、父親と一緒にいられるならそれはもう「特等席」ということでつけたようだ。
英語の原題は「Trouble With The Curve」で、ガスが自動車事故を起こした「道の曲り角」のカーブと、映画の最後にみせる野球選手の投球での「カーブ」をかけている。また、広く捉えると、人生での「曲り角」で出会う出来事ということにも繋げているようだ。 


 話の展開としては、コンピューターも使わない時代遅れで、頑固で障害を持つ歳をとった伝説のスカウトマンだけど、いまだに、スカウトマンとしての才能は衰えていない。
また、幼くして母親を亡くし、頼りにしていた父親からは、訳も分からず捨てられたと感じながら、なんとか父親に認められたいと思い、必死に勉強し、成功をまじかにした一人娘。
今まで真剣に話したことの無かった父親と娘の二人が、スカウトに出かけた球場やバーなどで共に生活をしていくうちに、すれ違っていた互いの気持ちを知ってわだかまりが解け、仲良く新しい人生を始めましたということです。

 その父親と娘の二人を取り巻く人々の描き方ももう、古典的で今まで他の映画であった話ばかり。
自信満々で自惚れて鼻高々の高校球児に対する最後のしっぺ返し。
現場に行かないで、コンピューターのデータでスカウトし、出世だけを狙っている新しいタイプのスカウトマンの失敗。

 当然、野球ばかりでは、話が退屈になるので、彩りとして添えられる娘の弁護士事務所でのライバルや男世界の弁護士事務所の対応。
そして、娘の新しい恋人は、肩の故障で挫折した元メジャー・リーガーとは、映画をあまり見ていない人でも、こんなベタベタな話では、飽きる?

 ところが、これが球場にいたピーナッツ売りの青年や、娘を親戚に預ける原因となった馬の話など丁寧な布石と、82歳というクリント・イーストウッドの演技で、まあ、こんなベタな話の展開でも、観終わると満足した気持ちになるからたいしたものだ。

 クリント・イーストウッドのしゃがれた声で、亡くなった妻に捧げる「You Are My Sunshine」は、胸にジンとこさせるからすごい。

 度々出てくる「野球クイズ」やバーでの俳優の評価も、それなりに、古き良き時代の映画と重なり、特に野球に詳しくなくても楽しめるようになっている。

 ここまで、丁寧に作られていると、充分な満足感が得られた。

クリント・イーストウッドが監督した;「J・エドガー」(2011年) 、 「ヒアアフター」(2011年)。 出演したのは;「グラン・トリノ」(2009年)
エイミー・アダムスが可愛い;「ジュリー&ジュリア」(2009年)、「サンシャイン・クリーニング」(2008年)

     のぼうの城  

あらすじ: 時は戦国時代も終わり頃。織田信長のあとを受けた豊臣秀吉(市村正親)は、日本統一を目指し関東にのぼり、各地で北条軍と戦っていた。武州(今の埼玉県・行田市あたり)の川に囲まれた平野にある小さな忍城(おしじょう)の城主:成田氏長(西村雅彦)は、表向きは、北条軍として、小田原へ行くが、もしも、忍城が豊臣軍の攻撃を受けたなら、戦わずに開城するように、城代の成田泰季(やすすえ)(平泉成)に命じていた。しかし、成田泰季は病気で倒れ、泰季の息子の長親(ながちか)(野村萬斎)が新しく城代となる。長親は、特に武術や戦略には優れていなかったが、その性格から妙に農民達から慕われており、のぼう様(でくの坊)と呼ばれていた。そして、秀吉の命を受けた石田三成(上地雄輔)が、二万の兵と共に攻めてきた。長親は、城主の命に従って、城を明け渡す積もりであったが、余りにも理不尽な豊臣方の条件に対して、「戦います!」と言ってしまい、ついに、500人の兵と2000人の農民が、忍城に立てこもり、二万の豊臣軍との開戦となった。数を誇る三成は、一気に攻撃をかけてくるが、忍城には、正木丹波守利英(佐藤浩市)や柴崎和泉守(山口智充)などの豪傑侍がいて、苦戦となる。持久戦を選んだ三成は、忍城の周りを堰で囲み、水攻めにするが、忍城勢の士気は衰えない。そして、豊臣軍が取った作戦は。。。

肩の凝らない漫画の実写化程度の出来だ!

 監督は、不思議なことに犬童一心と樋口真嗣の二人となっている。脚本は、史実に基づき和田竜のオリジナルとのことだ。
二人で1つの映画を監督するくらいなら、二人がもっと脚本に絡んだ方が、いい内容になるかと思うけど、その方法は取らなかったようだ。

 佐藤浩市や山口智充、そして成宮寛貴が、忍城側の侍で、二万の三成軍と戦うのだが、この戦(いくさ)の場が、本当に飽きれるほど現実を超えた凄い話になっている。

 佐藤浩市が槍で敵将の首を切飛ばすのは、まあまあ許せるとしても、山口智充がまるで「ポパイ」のような怪力で群がる敵をなぎ倒すのは、漫画そのままの手法で、これが真実に基づいている話かよって飽きれる。
 また、三成軍をやっつけるのに石油が出てくるが、この日本の埼玉県のどこで採掘できたのかな?

 それにしても、お姫様を演じている榮倉奈々の着物が似合わず、歩き方のぎこちない姿は、もう映画の中でも浮いた存在で言いようがない。
そこで(?)、榮倉に時々男装をさせているが、これも、お遊びとしても全然活きていない。
また、榮倉だけでなく、全体のセリフが、時代劇なのか、現代劇なのか統一されていないのも、大いに問題だ。

 野村萬斎がどうして、ここまで農民達から慕われたのかも、麦踏みを手伝ったり犯された人妻の仇を討った程度の話だけでは、作り話で終わっている。
だけど、野村萬斎の船での「田踊り」や、「間」の取り方は、流石に上手い!

 最後の姫を、秀吉の愛妾に出すのは、確かに史実に基づいているだろうけど、それは、余りにもあっけない結末だった。

 TBSの開局60周年の作品として、金をかけて、かなりロケや戦のシーンでのCGや大勢のエキストラも使っているが、平野にある城の全体像が不明確なのも、物足りなさを感じさせる点だった。

犬童一心監督の;「ゼロの焦点」(2009年)、「眉山」(2007年)
樋口真嗣監督の;「隠し砦の三悪人」(2008年)

     悪の教典  

あらすじ: 東京郊外のある高校の英語教師:蓮実聖司(伊藤英明)は生徒達からも、「ハスミン」の愛称で呼ばれる程の人気者で、また携帯電話を使ったカンニングへの対応や学内のいじめへの対応も適切で、教師間でも評判が良かった。しかし、蓮実が小さい頃に起きた彼の両親の殺人事件が未解決であったり、彼が大学を出てアメリカに留学していた頃の状況が明確でないなど、蓮実にはどこか謎が多かった。同僚の科学担任教師:釣井正信(吹越満)は、蓮実の前任の高校で、生徒が連続して自殺していることを知り蓮実の過去を調べるが、蓮実に自殺を装って殺される。また、学校にクレームを付けていた生徒の保護者の家に不審な火災が起きその保護者が焼死する。なんと、明るく振舞う蓮実の裏の顔は、自分の思い通りにならない人や倫理に反することをしている人を次々と殺していく殺人鬼だったのだ。そんな蓮実の行動に2年4組の生徒の数人が疑問を持ち出した。そこで、蓮実が考えたのは、2年4組のクラス全員の殺人だった。文化祭の準備で放課後も残った4組の生徒達に、蓮実の散弾銃が次々と当る。。。

狂人の大量・無差別の殺人を神の啓示で終わらすとは、脳がない!

 監督は、三池崇史で、彼が原作:貴志祐介の本を脚本もしている。
チラシによると、映画「海猿シリーズ」の海上保安官の役で、正義の味方を演じている伊藤英明が、今までの彼の演技とは異なった悪人を演じているから、ぜひ観てやってくださいとのことだった。

 予告編では、散弾銃でバン・バンと生徒たちを殺し、画面いっぱいに血潮が飛び散るので、これは、余り気持ちのいい映画ではないと思っていたが、伊藤英明がどんな悪人を演じるのかと期待して、劇場に足を運ぶ。

 でだしの携帯電話によるカンニングの防止対策や、女生徒の万引きに乗じて、セックスを迫る悪徳教師の描き方は、ミステリーの趣もあってこれは、面白いかと期待出来た。
 また、もう人が住めないと思うほどの廃屋に住んでいたり、不気味なカラスを出したりで、これからどうなるかと、かなりのワクワク感で導入部から引っ張っていたが、どっこい、結局、散弾銃乱射だけに中心が移り、多くの布石が終わりまで意味不明な部分となり、無駄な画面となってしまった。

 主題歌として古いドイツ映画の「三文オペラ」の中で歌われる「モリタート」が度々使われ、この「モリタート」の日本語訳も字幕ででてくる。
さらに、「モリタート」の英語版「マック・ザ・ナイフ」の説明もあるほど、「三文オペラ」の筋をなぞった展開らしいが、これがピンとこないし、サメが噛んだとかいう、こんな面倒な歌詞では、興味も持てない。

 もっとも、蓮実の過去に疑問を持った同僚の教師を、電車の中で殴り殺しているのに、これを単純に首つり自殺として扱う雑さや、子供時代に両親を殺した最初の事件から、急に次の殺人が、アメリカに留学していた時代のゲイ仲間の焼き殺しとなり、このアメリカの部分が一体何をやっているのか分からず、ミステリーとしては筋の繋ぎ方が、強引なのはすぐに分かる。

 三池崇史監督としては、当初は、ミステリーの方にも関心があったが、脚本を書いているうちに、最終的には、バンバンと血潮を飛ばす「殺し」だけが楽しくなったようだ。
しかし、アーチェリーで正しく一矢で対抗する場面を除いて、ほとんど無防備・無抵抗な生徒たちを、血まみれにして、次々と殺す手法では、もうこの監督の異常性を感じ、観ていても吐き気をもよおし、他の人に勧めることのできない映画となった。

 また、三池崇史監督の個人のゲイ趣味的な傾向で伊藤英明の裸のシーンが度々でてくるが、これもおおきく映画の評価を下げる。

 詰まるところ、ここまで、大量殺人を犯す動機として、性格異常者が神の啓示に従ったでは、後からのこじつけの弁明でしかない。
人殺しが好きな監督の意向だけが印象に残る。

 前半の避難訓練での袋の使い方や、その中に替え玉を入れたり、またAEDに録音機能が付いているなどミステリーとしてよく出来た部分もあるだけに、これなら、完全犯罪にしたら良かった。

*続編がある?
 最後に、 「To Be Continued (続く)」と出る。
確かに、屋上から突き落とされた女生徒を含め3人は生き残るが、これで、続編を作られてももう観ないゼー。

殺すことが好きな、三池崇史監督の;「十三人の刺客」
伊藤英明の;「Brave Hearts 海猿」

     北のカナリアたち  

あらすじ: 小学校の教師:川島はる(吉永小百合)は、脳に障害を持ち余命が長くない夫:行雄(柴田恭平)と共に、生まれ故郷の北海道の離島の分校に赴任してきた。はるが受け持った4,5、6年生合同の教室の計6名の生徒は歌がうまくて、合唱コンクールを目指せる程だったが、生徒の一人が海で溺れそうになった事件で行雄が亡くなり、はると地元の警官:阿部(仲村トオル)の仲も評判になり、ついにはるは、生徒のことを気にしながらも分校を追われ、東京の図書館に勤めていた。島を離れて20年が過ぎた、はるの元に突然警官が訪れ、かって島で教えていた生徒の一人:鈴木信人(森山未來)が殺人を犯し、はるの住所が書かれたメモを残し逃亡中であることを伝える。あの、優しい信人がどうして人を殺したのか、また、この20年間、音信不通であった信人が、どうしてはるの住所を知っていたのか。20年前に生徒たちに伝えることの出来なかった「想い」を抱いて、再び島に戻ったはるに対して、生徒たちからの「想い」も、次々と明らかになる。20年前に起きた事件の裏側に陽が当る。。。

女:風景は綺麗に撮れているけど、不自然さが目に付く出来ね!

男:東映が創立60周年を記念して、吉永小百合を主演にし、監督は、阪本順治で、原作は、「告白」の作家:湊かなえの「往復書簡」があり、それを、那須真知子が脚本し、綺麗な映像は、木村大作が撮っている。
女:北海道の礼文や利尻で長い期間のロケをしているのは、黄色く咲いている花から始まり、冬の吹雪、綺麗な夕陽と穏やかな海。また、荒れる海なんかで、充分に分かるわね。
男:景色の撮影だけでなく、出演者も厳しい寒さのなかでの長い時間のセリフもあるので、寒くて大変だったようだ。
女:でも、綺麗な映像の方に力を入れ過ぎたようね。
男:どこらが、そう思わせるの。
女:はるが、昔の教え子とあって、20年前の出来事を話すシーンがたびたび出てくるけど、これらが、話が深刻な割には、野鳥の観測場所であったり、他の乗客もいる動いている路面電車の中だったりするのは、おかしな設定よね。
  こんな重要な話をする時は、普通は寒さに凍える屋外で、しかも歩きながらは話さないわよ。屋内が選ばれるわ。

男:そうだね。
  かなり込み入った内容を、歩きながらとか、港で話すのは、バックの風景を画面に取り入れるためだけで、実感を薄くしたか。
女:物語の中で必然性がある背景をもってくるなら、納得できるけど、まず景色が先にあって、そこに、会話を乗せるのでは、おかしい映画よ。
男:それなら、人間を描く映画ではなく、「礼文・利尻の四季」という、主人公は景色にした観光映画にしたらいいってことだね。
女:それに、吉永小百合ファンの貴方にとってはキツイ言い方かも知れないけど、吉永小百合って、本当に表情での表現が乏しいのよ。
男:いやぁ、私も、特に吉永小百合が上手い女優とは思っていないけど、この映画のように、20年前と現在が交錯する設定では、この演技では、どちらの時代かが分からない状況になっている。
女:映画の冒頭の吹雪のシーンから、持っているバッグに重さが感じられないし、生徒から石をぶつけられても、この表情では、石に当った痛さがまったく分からない演技よ。
男:原作が湊かなえってことで、かなり社会に対する問題提起があるのかと思って期待して観たが、ストーリーもどこか、強引な展開だよね。
  鈴木信人が吃音者であったことが殺人の1つの原因であったとも受け取れるような節もあるけど、それほど重要には描かれていない。
女:映画のチラシをよく見ると、湊かなえの「往復書簡」は”原案”となっているわよ。
男:そうか。
  どの部分までが、「往復書簡」にあるのか分からないけど、生徒たちの20年前の「想い」の方は、うまいミステリーの仕立てになって繋がっている。
 だけど、はると地元の警官との不倫関係や、夫の家庭での描き方はすっきりしていない。ここらが、原作をかなり変えた部分になるのかな。
女:そうよね。
  この程度の死にたがっている警官の描き方では、はるが今の夫を捨ててまで彼を好きになる動機付けが不足しているわ

男:この映画では、満島ひかりが飛び抜けて、いい感じの演技をしている。
女:彼女はさりげく登場するけど、いつも記憶に残るから、不思議ね。
男:殺人を犯したのも、止むに止まれぬ事情があり、追跡している刑事も物分りのいいおやじさんで、結局、多くの物足りない映画のように”みんな善い人たちでした。めでたし、めでたし”って話にしてしまった脚本では、湊かなえも残念な「想い」を残す出来となったか。
女:映画から引用すると「歌を忘れたカナリア」のように「悪を描き切れない映画人は、裏の山に捨てましょか」ってことになるの?
男:うまいね!
  でも、本当の私にも、「悪」は無いけどね。
女:そこが、貴方を面白く無くさせているのに気づかないのよね。
男:何か言った?
女:いゃ、何も。
  貴方は、死ぬまで、変わらないのよ。

湊かなえの作品を見事に映像化した、中島哲也監督の;「告白」
吉永小百合と山田洋次監督の;「おとうと」
満島ひかりが活躍している;「悪人」


撮影の木村大作が監督した;「剱岳 点の記」

     終(つい)の信託  

あらすじ: 大きな病院で呼吸器内科を担当する医師:折井綾乃(草刈民代)は、同僚の高井(浅野忠信)との恋愛が破局し、病院内で自殺を試みるが、未遂に終わった。そんな寂しい彼女の心を優しく癒してくれたのは、長年喘息を患い、入退院を繰り返している江木秦三(役所広司)との結びつきだった。しかし、江木の病状は重くて、回復の見込みがなく、喘息の苦しさを知っていた江木は、意識が無くなるような状態になったら、チューブで生きながらえるようなことはせずに、殺してくれるように綾乃に懇願していた。そして、意識がなく病院に運ばれてきた江木に対して綾乃は延命策を取らずに最期の処置をした。それから3年後、病院内の人事上の紛争から、綾乃のとった処置が、殺人罪として告発され、綾乃は検事:塚原(大沢たかお)から呼び出される。塚原の厳しい追及が綾乃に及ぶ。。。

法律では片付かない倫理論を長々とやられても困る!

監督は、周防正行で、出演が草刈民代と役所広司のコンビとなると、すぐに評判が良かった1996年製作の「Shall We ダンス?」を思い出すが、取り上げた話としては同じ周防監督が2007年に作った「それでもボクはやっていない」の痴漢での法廷がらみの流れにある作品だ。
 原作としては、朔 立木(さく たつき)の本があるようだ。

 16年前の「Shall We ダンス?」でバレリーナ:草刈民代を映画に出させた周防監督がその後、草刈を自分の奥さんにして、今はバレエ界から女優業に転身した草刈を何とか活かそうとして、彼女の胸までスクリーンに露出させたがこの演出は成功していない。

 チラシでは医者:草刈と患者:役所のラブ・ストーリーとうたっているが、上映時間144分の内、最後には綾乃が検事から殺人事件として取り調べを受ける場面が、延々と45分も続き、これが、同じセリフの繰り返しもありで、検察官が自分の作ったシナリオにそって、何とか被疑者を犯罪者に仕立て上げることは充分に分かるが、ここが退屈だ。

 この映画では、セリフの繰り返しは、満州での妹の死など多くみられ、ここまで繰り返さなくても、観客は分かるのに、これが上映時間を無駄に長くしていて、飽きさせる部分でもある。

 映画全体として選んだ場面が、お金をかけていないというか、雰囲気にあっていない。
例えば、同僚の医師と綾乃とのセックスの場所が、病院の汚い物置とか、死んだ妹が、家の床下に埋葬される場面などだ。
また、満州の記憶に流れて行く川のほとりでの撮影も、バックが工場群では、なんとも冴えない場所だ。

 不治の病に冒された患者が自分の家族よりも、医者によりそうのは当然だけど、医者が、意味も分からないイタリア語のオペラのCDで、失恋が癒されるとは、展開が荒すぎないか。

 折角、病院で使用される各種の薬や医療機器、また検事の取調べのやり方、調書作成などの現場をよく調べているのに、重要なデートのシーンについても、もっと、場所の設定やロケーションをしっかりして欲しい。

 そして、金がかかっていないのは、画質の解像度が低いことでもわかる。
最近は、テレビでも、髪の毛1本までも分かる画面を見慣れているので、ベタッとした感じのこの画面では気分がすっきりしない。

 結局、話がラブ・ストーリーになれなかったのは、草刈と役所の演技がまずいということになる。
特に役所のこの程度の咳では、死に至るまでの喘息の苦しさが観客に伝わってこない。

 植物人間など治らない病人に対して、家族や医者は、どう対処すべきか。
費用がかかっても、生きてもらうか。それとも、どこかで決断するか。
それは、単に裁判所が判断すべき問題ではないだけに、この映画で長々と議論されても、問題提起にも、解決にもならない。

 殺人の議論は除いて、患者と医者との終わりのある恋物語に絞れば良かった。

周防正行監督の;「それでもボクはやっていない」(2007年)
役所広司の;「最後の忠臣蔵」(2011年)

 

     推理作家ポー 最後の5日間  

あらすじ: 1849年のアメリカは、ボルティモア。酒好きのエドガー・アラン・ポー(ジョン・キューザック)は、現実に起きた猟奇的な犯罪などをもとにした推理小説を書いているが、余り売れていなかった。ポーには、地元の上流階級の娘:エミリー(アリス・イヴ)という恋人がいるが、彼女の父親は、ポーとの結婚には猛反対していたので、次にエミリーの家で開かれる仮面舞踊会で、ポーが正式に求婚をし、父親の許しをもらう計画を練っていた。そんな時、母親と幼い娘が惨殺されるという事件が起き、エメット・フィールズ刑事(ルーク・エヴァンス)が現場に急行すると、殺人があった部屋は、内側から鍵がかけられ窓は釘で打ち付けられた「密室」であった。しかし、詳細に調べると、窓枠には巧妙なバネの仕掛けがあり、この方法は、ポーが書いた「モルグ街の殺人」の手口に似ていた。そこで、ポーが容疑者として取り調べを受けるが、続いて腹から真二つに切断された死体が発見され、そこに残された紙片には、仮面舞踏会で死が訪れると予告があり、ポーの作品を真似た模倣犯の存在が明らかになり、ポーも警察の捜査に協力するが、仮面舞踏会の席から、エミリーが誘拐される。それからも次々と起こる殺人事件は、犯人へたどり着くヒントを残していたがこのままではエミリーが生き埋めになる。ポーが書き続ける作品がついに。。。

推理もストーリーもない、辻褄のあわない無駄な展開には、ボーッとなるだけだ!

 最近の映画としては、騒々しく踊ってばかりいて中身が相変わらず無い「捜査線」や、バイクと車の追いかけっこだけが印象に残る、元のボーンとは無関係なのに「ボーン」をタイトルにしたものや、もう完全に死んだ美女と思っていたら、どっこい、死んでも死んでも生き返る「バイオ」などを観ていますが、このホーム・ページに載せるまでもないので、暫く、中断していたら、「体調でも悪いのですか」というメールがあり、観た映画の内容には関わらず、評論をします。

 今回の映画は、もう言うまでもない推理作家としては、超有名なエドガー・アラン・ポーの多くの作品を真似た殺人鬼と、ポーが死に際に残した「レイノルズ」という謎の言葉もヒントに、ジェームズ・マクティーグが監督した。

 映画の中では、ポーの作品である「モルグ街の殺人」や「落とし穴と振子」、「マリー・ロジェの謎」、「アモンティリャードの酒樽」などが使用されているとのことだけど、これらが全体の話の展開として結びついていない。

 最初の密室殺人でのバネの謎の解け方は分かっても、駆け付けた多くの警官の目の前で鍵がかけられた僅かな時間で、どうして殺人者が、窓から逃亡できたのかは説明できていない。
 仮面舞踏会では、エミリーがさらわれたことになっているが、大の大人の娘がこんなに易々と1人の男に、大胆にさらわれるとは、まったく妙で不自然な話だ。
また、劇場でのシーンでは、ピストルが落ちたり、犯人かと思ったら、子供だったとは、全然面白くない「おち」だ。

 他にも教会からの逃げ方も、適当なできで、これでは、何のためにこの話があるのか、繋がり方がおかしく、観客にとって無駄で退屈な時間だった。

 さらに、地下水路での捜索の話も纏まりがなく、意味もないし、死体から出てきた時計が方位を示していても、こんなに簡単に謎が解けては、観ていても映画の中に入っていけない。

 最終的に、大詰めがひどい設定だった。
大勢の人が働いている新聞社の地下にポーの部屋と同じような犯人の隠し部屋がいつの間にかつくられ、ここに、エミリーも埋められているとは、いくら時代が1800年代でも、新聞社なら、時間に関係なく人の出入りもあるだろうし、出入り口が床板を剥がさなければならない程の強固な造りでは、どうやって誰にも気づかれずにエミリーを連れてきて、閉じ込めたのかと、余りにも不自然な設定であるし、毒で弱った体のポーがよくここまで板を剥がせるものだと、これでは、映画の出来の悪さの方に推理が必要だ。

 各々の挿話が独立した事件の扱い方で、これでは、テレビで5、6話の連続した「ポーのシリーズ物」を観ているだけで、繋がっていない。脚本の段階で、ポーの作品と全体の流れを結び合わせる綿密さが必要だ。
稚拙な思考回路で映画化されたのでは、タイトルにされた「ポー」が、地下で嘆いているゼー。

     ソハの地下水道  ―ポーランド映画―

あらすじ: 第2次世界大戦下の1943年。ナチス・ドイツ軍に占領されたポーランドでは、多くのユダヤ人が迫害を受けて、罪も無く殺されたり、収容所に入れられていた。そんな時、ポーランド人で、町の地下に張り巡らされた下水道の修理人のソハ(ロベルト・ヴィェンツキェヴィチ)は、かたわらで、空き巣も働き、妻子を養っていた。ある日、いつものように、ソハと同僚の二人が下水道内を検査していると、収容所行きを逃れるために、下水道に穴を掘っているユダヤ人のグループを見つけた。彼らをドイツ軍に引き渡せば、報奨金をもらえるが、ユダヤ人たちが差し出す金を受け取り、彼らを迷路のような下水道に匿い、水や飲み物を届ける。しかし、ドイツ軍のユダヤ人狩りは執拗で、同僚も身の危険を感じ手を引き、ソハもついに、子供たちもいるユダヤ人を見捨てようとしたが、高価な宝石を貰い、また、食料などを届ける。地上でのドイツ軍のユダヤ人迫害を見る度に、ソハの気持ちが金儲けから変わってきた。ソハの中の「人間」が目覚めるが。。。

女:暗闇に閉じ込められた下水道での、さらに暗く、重苦しい内容の映画ね!

男:日本で、上映されるのが珍しいポーランドの女性監督:アグニェシュカ・ホランドの作品だ。
  ポーランドでの原題や本でも、「下水道」が使われているようだけど、英語でのタイトルは「IN DARKNESS=暗闇の中で」とある。
女:日本でのタイトルでの「地下水道」となると、イメージとしては、少しばかり汚さや、臭いが薄くなるけど、ここは「下水道」そのものだったわね。
男:ヨーロッパの下水道は、日本の下水道のように、単に「管」ではなくて、人が立って歩けるほどの大きさだけど、そこには、汚物が流れ、ネズミがうろちょろし、時には、死体も流れ、悪臭が漂うという状況を知らないと、どうして、下水道に人が隠れていられるのかが分からない。
女:ナチス・ドイツ軍のユダヤ人迫害と彼らの救済は、今までも、よく映画化されたけど、このような、下水道に匿ってユダヤ人を助けた人もいたとは、本当に感動物ね。
男:助けられて生き延びることのできたユダヤ人の女の子が、本にしたから、この事実が世間に知られたようだ。
  助けた下水道の修理工にしてみれば、最初は金儲けが目的だったので、自分からは世間には言いだし難い話ではある。
女:罪もなくて、ただユダヤ人であるというだけで、殺されていく人たちにとって、ソハの存在が最後の光だったのね。
  まったく未来に対して生き残れる希望のないユダヤの人たちの絶望感が、この暗闇の中で、どんどん強まっていく演出は、見事ね。

男:そうだね。
  長期間に渡る地下生活での仲間割れや、疲労感また捜索を受ける緊迫感もよく出ている。
女:そんな悲惨な状況のもとで生まれた「赤ん坊」の話は、ソハの奥さんが養うということで、少しは、明るさがさして、ほっとした途端に、窒息死させられていて、また暗闇に戻されるとは、強烈な仕打ちよ。
男:ここは、本当に胸に迫るね。
  泣き声のうるさい赤ん坊をどう始末するのか。
  絵空事の映画なら、「生かす」方法もあっただろうが、現実では、やむを得ない選択だった。
女:死を目前にすると、「性」で「生」を確かめたくなる彼らの心裡は、この映画では必要なシーンだと思うわ。
男:この地下という狭い空間では、他の仲間たちが側にいても、「生きていること」を確かめるのは、どうしてもこのような描き方しかないだろうね。
女:地下では、ユダヤ教を信じる人が、「主」の存在に疑問を持ちながら、明日も知れずに身を潜めているのに、真上の地上のキリスト教会では、のほほんと「「主」に身を任せ、ミサを唱えているシーンも皮肉よね。
男:しかも、キリストもユダヤ人ということで、本当に、宗教とは何かということだね。
  宗教だけでなく、人種の違いだけで、ここまで、理不尽に殺し合いをすることの虚しさがよく指摘されている。
女:大水の出来事や、迷子になる子供の話などは、少しばかり、作りが強く入っている気がするけど、145分という長い時間を飽きさせないで見せたわ。
男:第2次世界大戦だけでなく、人類が殺し合う戦争の虚しさ・愚かさは何度も、何度も指摘され、そのたびに人類は反省をし、もう戦争はしませんというけれど、最近の韓国や中国との領土問題をみると、また戦争の匂いがするよ。
女:本当ね。
  自分は戦場に行かない老政治家が、古い国家意識を持ち出して、善良な市民を煽動するのね。

男:多くの人間が、国境や人種差別のない地球観を早く持って欲しいね。
女:ジョン・レノンが歌った「イマジン」の世界ね。
  あなたも、たまには、いいことをいうのね。

男:俺は、いつも真面目だよ!

     鍵泥棒のメソッド  

あらすじ: 汚いアパートに住み、家賃も滞納している売れない貧乏役者の桜井武史(堺雅人)は部屋の整理もできない駄目な身寄りのない一人暮らしの男で、自殺にも失敗して近くの銭湯へ入りに行くと、そこで、殺人を犯したばかりで手が汚れたので入浴しにきた殺し屋:コンドウ(香川照之)と隣り合わせの脱衣箱になり、札束の詰まったコンドウの財布を見る。洗い場に入る際、コンドウが石鹸を踏んで転倒し、気を失い、コンドウの脱衣箱の鍵が桜井の足元に飛んでくる。金が欲しい桜井は出来心から、コンドウの脱衣箱の鍵と自分の脱衣箱の鍵を交換し、コンドウの財布や時計そして高級車の鍵も盗んだ桜井は滞納していた家賃などを払うが、気が咎めてコンドウを病院に見舞いに行くと、コンドウは元気ではあったが後頭部を強打したせいで、以前の記憶を失っており、病院に届けられた銭湯にあった桜井の持ち物から、今は桜井として扱われていた。それをいいことに、桜井は、コンドウに成りすまし、コンドウの豪華なマンションに住むと、暴力団の組長(荒川良々)から次の話を持ちかけられ、断れずに引き受けてしまう。一方、桜井として扱われるようになったコンドウは、必死に役者としての過去の記憶を取り戻そうとしていると、結婚願望が強い雑誌の編集長:水嶋香苗(広末涼子)に出会い、好感を持たれる。殺し屋と貧乏役者。お互いに今までとは違った人生を引き継ぐことになった二人に金と愛が絡む。。。

布石はしっかりと打っているが、心の底から笑える喜劇としては無理もある!

 今までの「あらすじ」文と比べて、今回かなり記述を詳細にしたのは、他人へのなり代わりという不自然な設定が、案外布石もあってこれなら受け入れられると感じたからです。

 監督と脚本は、内田けんじ。この監督の他の作品としては、「運命じゃない人」と「アフタースクール」というドンデン返しの2つがあるらしいが、私は観ていはいません。

 周りの人にばれずに、他人に成りすますことが、現実の世界で非常に難しいことは、この脚本でもしっかりと認識されていて、設定においても、セリフに頼らず場面として説明されていて、まあこれなら、あり得るかなと思える点は評価できる。
重要なポイントとなる筆跡の違いや別人になることもちゃんと説明されているし、最後の高価な骨董品の話も納得できる。

 互いに、他人の人生を歩んでいくことになる前半は、これからどうなるかと期待感があり、ワクワクさせるのだけど、暴力団と絡みあうあたりから、いくらなんでも、これでは、「伝説の殺し屋」というには、かなりルーズな設定となっていて、迫力と緊張感が薄れる。

 大体、善人のイメージが全面に出ている荒川良々を暴力団の組長にしたのは、意外性を狙っての起用だろうが、これでは、チンピラやくざの親分程度の出来で、威圧感も出ていなくて無理がある。

 桜井のアパートに入るといきなり塩をなめる布石は笑えるが、部下も多い雑誌の編集長を任されている程の女性が、いくら父親の死期が迫っているからといって、ここまで世間知らずの婚活に走るかという点では、笑いがとれない。

 タイトルとなっている「メソッド(方法論)」について言えば、ここでは、香川照之と堺雅人が、ピストルでじゃれ合いながら殺される場合の「役者論」を論じ合うシーンが、監督の言いたい「メソッド」のようだけど、これでは、演劇界の内輪話の域を出ていなくて、退屈だった。

 この監督:内田けんじが得意とするらしい、どんでん返しで、「伝説の殺し屋」が実は誰も殺していない「便利屋」だった点は、話を小さく纏めてしまい残念だ。ここは、究極の悪人に徹してもいい。

 でも最近の映画界でよくある、漫画を元にしたり、テレビ屋出身のサラリーマン監督のつまらない与えられた演出内容と異なり、独自の脚本でここまでもってきたことは、今後が大いに期待ができる監督だ。次回作では、さらに「胸がキューン」とする作品ができる予感がある。

 それにしても、香川照之の最近の映画の出演本数の多さには驚きだ。実にあちらこちらに顔を出している。出演シーンの多少はあるけど、歌舞伎界に戻る前に、無茶苦茶に映画にでていたものだ。

香川照之がちょっと出ていた;「夢売るふたり」「剱岳 点の記」
堺雅人の;「武士の家計簿」「ジェネラル・ルージュの凱旋」
広末涼子の;「ゼロの焦点」「おくりびと」

     夢売るふたり  

あらすじ: 小さいながら繁盛している飲屋を開いている市澤貫也(阿部サダヲ)と里子(松たか子)夫婦の夢は、早く借金を返してもっと大きな店を持つことだった。しかし、不注意からその店で火事を出してしまい、また二人は、他の店で働く事になる。ある夜、不倫関係にあった会社の上司を事故で亡くして落ち込んでいる、昔の店の馴染み客:睦島玲子(鈴木砂羽)と貫也は出会い、行きがかりから二人は関係ができ、玲子が上司との手切れ金としてもらった200万円を貫也は受け取る。この一夜の件が妻の里子にばれ、里子も怒るが、里子は、貫也の性格が女ごころに入って行きやすいのに気が付き、手早く金を稼ぐ手段として夫婦での「結婚詐欺」をするようになる。そして、結婚願望が強いOL:棚橋咲月(田中麗奈)、男達から敬遠されている重量挙げの選手:皆川ひとみ(江原由夏)、男運の悪い風俗嬢:太田紀代(安藤玉恵)などを次々と騙して、金を手に入れるものの、夫婦の間には、いつの間にかわだかまりが生じてきていた。そんな時、職安で働く子持ちの木下滝子(木村多江)に貫也が大きくのめり込む。また、詐欺に気が付いた棚橋咲月は探偵(笑福亭鶴瓶)を雇って夫婦を調べ、ついに、悲劇が。。。

喜劇にしたいのか、男女の愛憎劇にしたいのか、中途半端な出来だ!

 監督・原案・脚本は、西川美和。彼女の作品としては、「ゆれる」や「ディア・ドクター」があるそうだ。そこで、笑福亭鶴瓶が僻地での無免許の医者を演じた「ディア・ドクター」は、まあ、まあ面白かったのを少し思い出した。

 今回のテーマである結婚詐欺を阿部サダヲが出ているのなら、これは喜劇かと思って映画館に足を運ぶと、内容は喜劇ではなかった。
かと言って、夫婦の感情のすれ違いを厳しく描いているかというとそうでもないのだ。

 最終的には、この映画も他の締まらない映画のように真の悪人が存在していない味付けをしたために、明確な切れを欠いてしまった。

 結婚したいという女ごころを手玉にとられ、金を騙し取られても、まだ、憎めない男としている貫也の設定は男女の愛憎を描くにしては、ありふれていて弱すぎる。
詐欺で奪い取った金の借用書を大切にして、いつかは返済しようとする「善人」の気持ちを残しては、まだ、まだ「詐欺」という悪の世界に踏み切った人間の感情を最後まで描き切ることはできない。

 それにしても、火事から急に、貫也と里子が別の料亭で一緒に働いていて、良い鴨を簡単に見つけたり、里子のラーメン屋のバイトが他の職業といつまでも平行できているなど話の繋がりがおかしいのも問題だ。
時間の流れと、詐欺に持っていくテクニックにもっとしっくりとした編集が必要だ。

 また、注目される余分なシーンがある。
それは、里子のオナニーのシーンと生理パンツへ履き替えるシーンだ。
里子のオナニーのシーンは、貫也が結婚詐欺の相手にのめり込んで、妻としての欲望が満たされない表現かもしれないが、それなら、貫也に夫婦関係を迫って拒絶されるなどの方法もあるわけで、ここまで、直接的にこのシーンをもってくることは不要だ。
トイレから出て生理パンツへ履き替えるシーンに至っては、なぜここで、この場面を持ってきたのか、まったく理解に苦しむ挿入方法だ。

 評価できる点としては、男性に警戒されすぎる重量挙げの選手を持ってきたのは、いいアイディアだ。
しかし、最後の探偵を刺した罪を貫也がかぶるのは、いくらなんでも、咲月という目撃者もおり、探偵も子供に刺されたのは知っている以上、ここまでの設定をするなら、喜劇として脚本を作るべきだった。

 男女の愛なんて、いつかは変わることは、皆がわかっていることだから、金儲けの結婚詐欺を働いているうちに、夫婦の感情がどう変化していくのかは、観客にしてみれば、喜劇として描くことに徹底してくれた方が良かった。

 それにしても、2週続けて「最強のふたり」と「夢売るふたり」と、同じような「ふたり」のタイトルとは、配給会社もタイミングが悪い?

松たか子がすごかった;「告白」
喜劇に徹底できない阿部サダヲの良かった;「舞子はーーーん」

     最強のふたり -フランス映画- 

あらすじ: 自家用ジェット機まで持っている大富豪のフィリップ(フランソワ・クリュゼ)は、会話はできるが、事故で首から下が完全に麻痺し、今は豪邸で、車椅子に乗って介護を受ける状態であったが、我がままで、うるさいので、今まで来た多くの介護人も長続きせず辞めていったので、また介護人の新規募集をした。そこへ、黒人で貧しい家庭に育った青年ドリス(オマール・シー)も他の応募者と共に面接に来たが、ドリスは面接が始まると、すぐに「不採用のサインをくれ」と切り出した。不採用が3件になると、生活保護が受けられるので、最初から採用されることは考えずに応募したのだ。しかし、そこが、フィリップに気に入られて、ドリスは採用され、豪邸内に風呂場もついている個室も与えられた。ドリスはフィリップを大切にするが、身障者として特別の扱いをせず、フィリップを高価な乗用車の助手席に乗せて高速で飛ばしたり、当然、医者から禁止されているマリファナを吸わせたりする。インテリ教育を受けているフィリップはクラッシック音楽や絵画にも造詣が深く、彼の知識は、アース、ウインド&ファイヤーの歌が好きなドリスにも影響を与え、フィリップもドリスが持つ人懐っこい性格に接し、今まで、隠していた女性の文通友達やセックスなどもドリスに話すようになる。しかし、ドリスが抱える複雑な家庭環境が、フィリップの生活にも悪影響を与えるようになり、ついに、ドリスは、介護人を首になるが、後任の介護人では、気難しいフィリップの世話は出来なかった。。。

大富豪と貧民の認識差の設定は良くあるパターンだけど、ユーモアに富んでいて楽しめる!

 久しぶりのフランス映画だ。脚本・監督は、エリック・トレダノとオリヴェエ・ナカシュとある。

 よくある「実話に基づいている」とか宣伝ではうたっているので、いくらなんでもそこまでは、実話では無いだろうとかは、詮索しなくていいほど楽しい。

 パリで召使を大勢抱え、自家用ジェット機も持ち、誕生日には、小編成ながらクラッシック楽団を自宅に呼べるほどの大富豪。
一方、母親も兄弟の関係も分からないほど複雑で、アパートにある風呂場の水も、他の場所で使用していると出ないほどの貧しい部屋に住んでいる黒人の青年。

 好きな音楽の違い、知識の差。このあたりの設定は、分かりやすいほどの定番だけど、身障者にしてみれば、体は不自由であっても、頭と口先は普通人であるために、普通の人と同じように扱って欲しいし、また、昔の健常な人であった時の生活も懐かしい。

 しかし、周りの人たちは、彼を、まず身障者といういたわりという差別意識から扱い、また、その上に金持ちだという意識も捨てられないため、どうしても、彼を普通には扱えない。
そんな身障者への差別感や金持ちの美学など余分な事を全然考えない、思いやりだけがある黒人の青年と設定したのは成功だ。

 また、インテリと称する人たちや金持ちが持っている抽象的な絵画美への認識やオペラで出演者が着ている青い木の服装などに対する批判も、本当に納得できる。

 ドリスの家庭の複雑さは、この描き方では、ちょとばかり説明不足だけど、盗んだ高価な卵の装飾品の戻し方や、フィリップの娘に対するドリスの接し方も、筋が通っていて最後にはちゃんと解決されているし、フィリップの秘書がレスビアンで、それでドリスに関心がなかったとは、最後まで手を抜いていない脚本がいい。
また、身障者でも耳たぶで感じるという話は、画面を見ながら、つい私も耳たぶを触ってしまったほどの真実味と、映画との共感があった。

 身障者を主題にすると、すぐに、お涙頂戴にしか走れないどこかの国の映画と違い、身障者が伸ばしたひげで、ロシア風とかヒトラー風と遊ぶのも、大いに笑えた。

 そして、笑いの中に、金持ちであっても、人を好きになると、身障者であるハンデを引きづり、文通相手には正直には打ち明けられずに逃げ出した話を入れたのは秀逸だった。
この会わずにいた文通相手とどう会わせるか、これがきれいに決まり、ドラマを盛り立てた。 

 久しぶりに観た後で満足感が得られた映画だった。

 主役のフランソワ・クリュゼは、ちょっと見たらダスティン・ホフマンかと思った。

     あなたへ   

あらすじ: 富山の刑務所で、定年後も嘱託として受刑者たちに木工技術を教えている倉島英二(高倉健)は癌で亡くなった妻:洋子(田中裕子)が生前に残した2通の絵手紙を受け取る。1通は、洋子の生まれ故郷の長崎の平戸の海に散骨をして欲しいとあり、もう1通は、平戸の郵便局留めで、10日以内に平戸へ取りに行かなければならない物だった。妻の想いを果たすために、寝られるように改造した車に乗って、富山から飛騨の高山、京都、大阪、瀬戸内、下関、門司を通って、長崎の平戸の薄香漁港へ向かう。途中、知り合った元教師と名乗る杉野(ビートたけし)が実は車上荒らしだったので警察署へ寄ったり、イカメシの実演販売をしている田宮裕司(草なぎ剛)と南原慎一(佐藤浩市)の販売を助けたりする。どうにか、10日目に着いた薄香漁港では、運悪く台風にあうが、親切な食堂の濱崎多恵子(余貴美子)と娘:奈緒子(綾瀬はるか)に出会い、武骨な漁師(大滝秀治)を説得し無事に散骨も終えた。2通の絵手紙に託された過去を捨てて生きて欲しいという洋子の気持ちを理解した英二は、また新しく生きていく決意をする。。。

女:それが、どうしたのって感想ね!

男:監督は、降旗康男で、あの高倉健さんを主役にした映画だよ。
女:その高倉健さんが出ているので、周りの人たちが遠慮していて演技になっているのが、駄目ね。
男:本当に、草なぎ剛を始めとして、ビートたけしまで、どこかぎこちない。
女:そりゃ、共演者も高倉健さんの前では、普通人として固くなるのは分かるけど、映画では、相手が高倉健さんでも一人の役者として接しなければ、失礼よ。
男:それにしても、観終わって、あちらこちらの話に、納得できない点や疑問点があるのが全体の感動に結びつかないんだ。
女:そうね、海で行方不明はいいのだけど、戸籍や住民票がなくても、日本では、簡単に別人として生きていけることって、不思議よね。
男:佐藤浩市の設定だね。
  この設定は、もっと掘り下げないと、彼の筆跡を見た妻や、最後に娘の写真を託された事にまで持っていくのは、かなり無理がある。
女:まあ、映画としてなら、ビートたけしと偶然に何度も出会うこともあってもいいと思うけど、そのビートたけしに、旅と放浪の違いまで、お説教されては、うんざりよ。
男:宮沢賢治を出すのはいいとしても、山頭火まで出されると、もうマニアックな人が知識を見せびらかしているので、説明が必要となり、興味のない人には退屈さだけが残る。
  また、有名な俳優を使うと、どうしても、悪人の役のどこかに、「善人」を入れてしまい、その結果、悪人としての味付けが薄くなる、悪い例だね。
女:10日の間で、平戸まで行かなければならないのに、途中で、イカメシの販売までよく手伝うわよね。
男:ここは、筋の展開として、草なぎ剛の他に、佐藤浩市を何とか絡める必要があったんだけど、時間的な制約との流れを考えると、強引な割り込み方だ。
女:基本的に高倉健さんをこの役で使うことには、どこか、無理がない?
男:高倉健さんも81歳とか。
  刑務所での歩き方も年齢を感じる。
  その人が、富山から長崎まで、一人で自動車を運転し、しかも、窮屈な車内に寝泊まりするかとこの内容では、突っ込めるね。
女:妻になった洋子と倉島との出会いや、その後の熱愛度も淡々と描いたといえば聞こえが良いけど、この二人の関係では、物足りない愛情表現だけで、天空の城の幻想的な風景しか残らないわ。
男:ここは、映画とは関係なく、いい景色だね。
  こんな雲海に囲まれた城跡があったんだ。
  調べると、竹田城跡で、兵庫県は朝来市にあり、川からの霧が立ちこめて、映画のようなきれいな城跡が浮かび上がるようだ。
女:旅をする道々のあちらこちらで出会った人とのエピソードを紡いでいくなら、もっと主役を若くしなければ、未消化の部分が目立つってことになるのよね。
  そう、旅は若い内でないとできないのよっ。
  本物の天空の城があるペルーの「マチュピチュ」へ今のうちに行きましょう!

男:そう来たか。
  「天空の城」と出た時に、何か、不吉な予感がしたんだ。
  でも、ペルーは地球の裏側だし...
女:ゴチャ、ゴチャ言っても、何も解決しないのよ。
  行けるうちに行かないと、もう、人生の先が見えているんだから。

男:そのエネルギーがあれば、例え癌にかかっても、君は、生きるね。
女:何か言った!
男:いや、何も...

     ミス・サイゴン    - ミュージカル -(青山劇場)

あらすじ: アメリカが大きく介入していた南北ヴェトナム戦争も、北のヴェトコンが優位となり、南ヴェトナムの首都:サイゴン(現:ホーチミン市)も陥落寸前となっていた。そんなサイゴンでフランス系ヴェトナム人のエンジニア(市村正親)が経営する売春が目的のキャバレーは、刹那の愛を求める米軍兵で今日も混んでいた。そこへ、戦争で家族を失った17歳のキム(知念里奈)が働き口を求めてきて、初めての客として、米兵のクリス(山崎育三郎)と出会う。互いに惹かれあったキムとクリスは結婚式も挙げるが、アメリカ軍がサイゴンから撤退する日にキムと連絡が取れず、クリスは一人アメリカに帰った。ヴェトナムに残されたキムは、クリスの子供を産むが、ヴェトコンの幹部になった幼さな馴染みで許婚のトウイ(泉見洋平)から執拗な結婚を迫られ遂に、トウイを射殺する。そのためヴェトナムに居られなくなったキムは、エンジニアの助けで、息子と共にタイのバンコクへ逃げる。キムの行方を知らずにアメリカに帰ったクリスはエレン(木村花代)と結婚をするが、クリスの戦友:ジョン(岡幸二郎)から、キムが息子と共に生きていることを知らされ、バンコクに向かうが。。。

テンポよく流れるが、かなり演出がアメリカ的過ぎる!

 元は、アラン・ブーブリルとクロード=ミッシェル・シェーンベルクというミュージカル「レ・ミゼラブル」も作ったコンビが、ロンドン公演でヒットさせ、日本でも1992年に帝国劇場で初演され、その後も、2004年、2008年と再演されていて、私も、2004年の公演と2008年の公演は帝国劇場で観ている。

 今回の公演では、以前の公演での目玉だった、大きな実物大の脱出用ヘリコプターの使用を映像にし、また巨大なホー・チ・ミンの像が少しばかり小さくなり、その変更点で、大きな舞台装置が使える帝国劇場と福岡の博多座だけでしか公演ができなかったのを、地方の都市でも可能にしてあることだ。
また、変わったといえば、筋の展開で、詳細までは記憶が定かではないが、舞台廻し役のエンジニアの出番を控えさせ、母親:キムの出番をかなり中心にしている。それに、第1幕であった、サイゴンからのヘリでの脱出が、第2幕に移動していることかな?(ここは、前の演出をはっきり覚えていないけど。)

 というわけで、今回の公演は、初めて渋谷の青山劇場に足を運んで観た。この劇場は、観客席が階段状になっていて、大変観やすいが、音響としては、残響の処理が少し気になる。

 出演者としては、帝国劇場では、舞台廻しのエンジニアの役も一人でなく交互であったが、このシリーズでは、市村正親だけにやらせている。
市村の性格として、時々、おやじギャグ的なアドリブがあり、これが、私には受けていないけど、今回は、余分なシーンが無くなっている分だけいいが、役に慣れすぎて歌舞伎的な「見得」を切るのは、相変わらず残念な演技である。
この「ミス・サイゴン」では、どうしてもアメリカに行きたいと願う、卑屈な感じでなければフランス系ヴェトナム人にはなれない。

 キム役は、今回観た知念里奈の他には、笹本玲奈/新妻聖子も交互に出る。
知念の子供を思う母親としての情感は出ているが、17歳の田舎から出てきた処女の部分は、初心を忘れたようである。
初めて見る売春宿、初めての男への接し方など、役をこなしていくとどうしても「うぶさ」が無くなるので、ここらでもう一度、最初に演じた気持ちに戻って欲しい。
 そして、歌い方だけど、高い音を絶叫にしてはいけない。あくまでもコントロールした声で歌うことだ。

 クリスの役は、山崎育三郎の他に原田優一。クリスの戦友のジョンは、岡幸二郎の他に、上原理生が交互に出ている。
クリスのアメリカの妻:エレン役の木村花代は、いい歌い方だ。 

 ほとんど、キムを中心とした展開であるが、ホー・チ・ミンの像の前でのヴェトコン兵による、リボンを使った群舞は、実に纏まりがあって気持ちいい。
また、サイゴンからの脱出で、アメリカ大使館の門扉をめまぐるしく左右・前後に移動させて、館の内外に変化させる演出は、大変な物であるが見事に決まっていた。

 キムとクリスのキッスや抱擁のシーンが、かなり大胆で、またセリフに「神」を多用するなどアメリカ的なのは、アジア人の押さえた愛情表現や宗教感から離れているが、最後にキムがとったアジア的な選択は、観客を沸かせるのに十分な出来だった。

2004年の;「ミス・サイゴン」
2008年の;「ミス・サイゴン」

最近のサイゴン(ホーチミン市)の状況なら;「ヴェトナム・アンコールワットの旅」

     プロメテウス    - 3D・吹き替え版 -

あらすじ: 古代の遺跡を調べているエリザベス・ショウ(ノミオ・ラパス)は、多くの遺跡から巨人が点を示す同じような絵を発見した。その絵を宇宙人が住む星への招待状と解読したエリザベスは、巨大企業:ウェイランド社の莫大な資金援助を受けて造った宇宙船「プロメテウス号」で恋人のチャーリー(ローガン・マーシャル=グリーン)や他の科学者達、そして監督官のメレディス・ヴィッカーズ(シャーリーズ・セロン)らと共に、睡眠カプセルに入って地球を後にした。それから2年後、目的の星に到着し、性能のいいアンドロイド:デヴィッド(マイケル・ファスベンダー)によって起こされると、そこには、強大なドーム状の建造物があった。さっそく、調査に向かうとドーム内には、人工的な洞窟や、地球と同じ成分の空気発生装置もあった。しかし、扉に挟まれた巨人の死体や得体の知れない液体もあふれていて、そこには、何かがいるようで、同行した科学者が殺される。また、子供を産めない体であったショウだが恋人:チャーリーの子供を妊娠する。この洞窟には、理解できない物体が潜んでいるのか。アンドロイド:デヴィッドや監督官のメレディス・ヴィッカーズの行動も、調査にしてはおかしい。果たして宇宙人が地球人を招いた訳は。。。

ここまで、でたらめな作りとは、もう、驚愕を通り過ぎて、口があんぐりだ!

 監督は、リドリー・スコットで、彼の作品としては、「グラディエーター」もあるが、ここでは、あの1979年製作の「エイリアン」を作った監督と特筆した方が分かりやすい。

 今回は、通常の公開日:8月24日に先立った日に観たが、この日には、3Dと日本語の吹き替え版しかなくて、通常料金にプラス¥300-(私は3D眼鏡は持っていますから、¥400-ではありません。)を払った訳だが、この女主人公:エリザベス・ショウの吹き替えをしている女性(家に帰って調べると剛力彩芽と分かった)が、最初から、最後まで、まったく感情がなく、へたくそで、どんな場面でも棒読みなのに、どうして映画配給会社が、彼女を採用し、そのまま劇場で公開したのか、この無能さに、まず、驚く。

 そして、次の驚きはチラシでうたっている「人類の起源」や「謎」と映画の展開がまったく異なっているのに、唖然とすることになった。

 タイトルの「プロメテウス」とは、ギリシャ神話に出てくる神で、人類に「火」を与え為に、ゼウスから罰を受ける。また、人類を創造したとの話もある。

 予告編では、なんとなく宇宙に行くだけしか分からず、チラシの「人類の起源」や「謎」があるというので、観たが、結局最後には、これは、昔、リドリー・スコットがシガニー・ウィーバーで作った映画「エイリアン」の創世編だったのだと分かる。
そう、チラシで言っている「人類誕生の謎」なんかには、まったく関係がなく、どうして昔の映画で宇宙にいる変な人類の敵「エイリアン」が誕生したのかという、そこに繋がるだけの話を退屈な時間をかけて作った映画だったのだ。

 私が映画を観る態度としては、予告編とチラシを参考とし、他の関連情報は出来るだけ遮断しているので、まさかこの「プロメテウス」というタイトルが、「エイリアン 創世記」や「エイリアン エピソード0(ゼロ)」に置き換わる物とは全然想像もできずに観てしまったので最後に「エイリアン」が出てきたので、アングリとしたわけだ。

 ただ、「エイリアン パート1」に続くというなら、それでいいのだが、最初の「エイリアン」製作から30年以上もたっているのに、この話の構成は余りにも雑すぎるのが問題だ。
正しく、突っ込み所が満載の練られていない脚本の悪さの例だった。

 宇宙探検ができるほどの文明が進んだ設定でいながら、何がいるのか分からない洞窟内にたいした武器も持たずにどんどん侵入していったり、お決まりの主人公たちとは別行動をとる科学者では、もう「お馬鹿さん」としか言いようがなく、これはもう最初から殺されるための存在でしかないと、観ていても先が読める。

 歳とったウェイランド社の社長が、他の介護人たちともに「プロメテウス号」にこっそりと乗っていたとは、まったく酷い設定だった。
一体、「プロメテウス号」のどこに、これらの人々が、ショウ達にみつからないように隠れていられたのか。
また、社長も、洞窟内の扉の開け方から、宇宙人が作ったホロスコープの出し方まで何でも知っている優れたアンドロイドがいながら、簡単に巨人に殺されてしまうとは、勿体無い扱い方だ。

 アンドロイドが変な液体の正体を知りながら ショウの恋人のチャーリーに飲ませるのは、どうして?
いくら進んだ手術ができる医療カプセルがあるといっても、胎児を取り出したばかりの腹をフォチキスでとめただけで、もう元気に暴れ回れるのでは、いくらなんでも、それはないだろうと、あきれて、失笑する。 

 最後には、ショウと壊されたアンドロイドがどうにか、宇宙船を造って地球に帰ることになっているが、ここも、粉々になった宇宙船の残骸から、新しく高性能の帰還船を造れるとは、これではかなり端折りすぎだ。

 それにしても「エイリアン」の祖先は、ひょろ長い手先のようだったのが、人間の胎児となった段階から突然変異を起こして、シガニー・ウィーバーと闘った頭の長い形になったとは、これまた不思議。

 「想像を絶する」とチラシがいっているのは、単に製作者がその場、その場の思いつきで作ったので、全然前後の脈絡がなく、観てる人は、唐突な感じで面食らうでしょうが勘弁してくださいということだった。

 まったく、一体何を目的として作られたのか分からない映画であった。
DNAなどを出しているが、進化論に対抗するならもっと、筋を練ってほしい。
結局、続編を狙っているだけのようだ。

 また、女主人公を演じているノミオ・ラパスは、オリジナルの「ドラゴン・タトゥーの女」でも出ているが、この「プロメテウス」では、色っぽさもなく、よくない。

シャーリーズ・セローンの;「スノーホワイト」
リドリー・スコット監督の;「アメリカン・ギャングスター」 、「ブラック・ホーク・ダウン」

     トータル・リコール   

あらすじ: 大きな世界戦争があり、そのため地球は汚染され、人類はイギリスを中心とした富裕層が暮らすブリテン連邦地区と、裏側の労働者階級が住むコロニーと呼ばれるオーストラリア地区でしか生活ができなくなっていた。ブリテン連邦とコロニーは、地球の核を高速で通ることのできる「フォール」と呼ばれる巨大なエレベーターで結ばれ、「フォール」を利用してコロニーから毎朝多くの労働者が、ブリテン連邦で退屈な機械作業を強いられ、夕方には戻っていたが、増え続ける人口問題を解決するために、コロニーを「整理」する政策があった。そんなコロニーに住む労働者:ダグラス・クエイド(コリン・ファレル)には、最愛の妻:ローリー(ケイト・ベッキンセール)がいたが、懸命に働いても出世できない現状から逃れようとして、好きな記憶を売ってくれる「トータル・リコール社」を訪れ「スパイ」の記憶に書き換えてもらおうとする。その書き換え始まろうとするとき、突然、警察隊に襲われるが、思いがけない拳銃の操作能力や格闘力を発揮して難を逃れる。どうにか、家に戻ったダグラスだったが、襲われた話をローリーにすると今まで優しかった妻が豹変して、ダグラスを殺そうとしてきた。ローリーは、ダグラスの記憶が戻らないように監視するため政府から送られていた捜査官だったのだ。いつも夢に出てくるメリーナ(ジェシカ・ビール)の助けを得てどうにか、ローリーと警察の追跡を逃れたダグラスだったが、身の上に起こっているのは本物の記憶なのか。それとも、書き換えられた記憶なのか。分からないまま、ダグラスは、強大な争いに巻き込まれていく。。。

女:訳の分からない映画のあらすじを、よく纏めたわね!

男:近未来で、人間の記憶を書き換えるというのだけど、それがどこまで書き換えられたのか、二重、三重になっていて、また、本当に適当な話の展開で、観ていても、ただアクションのシーンや、空中を飛び回るカー・チェイスしか記憶に残らない。
女:そんな、訳も分からず流れるだけの映画を元にして、よくここまで、話を纏めたものね。
  それにしても、この映画も、最近の映画界でよくある「リメイク」ね。

男:そうだね。元の映画は、もう、かなり昔だけど、アーノルド・シュワルツェネッガーが、ダグラスを演じていて、私も観ているよ。
女:その原作では、前半は面白かったけど、後半の、どこか地球とは違った星に行ったあたりから退屈にならなかった?
男:確か、火星がコロニーだったようだけど、私もおぼろげにしか覚えていない程度の出来の作品だ。
女:それを、「ダイ・ハード 4.0」の監督:レン・ワイズマンで作り直したって訳ね。
男:地球の反対側にあるブリテン連邦とコロニーを超高速のエレベーターで結び、重力が反転する点は、ちょっとばかり買えるアイデアだけど、地球の真ん中にある高熱の層をどう処理したかが、曖昧だね。
女:コロニーの描き方は、凝っていて細かいのよね。
  どういうわけか、いつも雨が降っていて、ゴチャゴチャした汚さや猥雑感は、昔の台湾の屋台街や香港のイメージからとってきていたわよ。

男:その看板には、ロシヤ語も出ているけど、メインを占めているのは、中国語や韓国語そして、日本語で、傘をかぶっているのは、明らかに東洋人だから、これはある種のアジアに対する差別的な表現かな。
女:そこまで考える監督ではないでしょう。
  コロニーの設定は細かいけど、ダグラスが記憶を取り戻して行く過程の説明が粗いのね。

男:自分の記憶を思い出すのに繋がるピアノの鍵盤や、他人の顔になれる輪っかなどの小物の説明がないのが、分かり難い原因の1つだ。
女:監督が自慢したいのは、空中カーによる追跡のシーンのようよ。
男:ここは、CGでなく、実物の自動車を数台作って、カーブでの重力のかかり方まで追及したようだけど、暗い画面で、また高速なので、その意図があまり観客にアピールできていない。
女:もう1つの目玉のエレベーターを次々と乗り換える方はどう?
男:ゲームの「ルービック・キューブ」の発想だね。
  これは、今までの映画でよくある1つのエレベーターの上下関係だけでなく、他のエレベーターも使って横の移動や乗り換えまで入れたのは、評価できる。
女:機械を使うのは上手いけど、人間同士が争うシーンだと、間延びした感じになるのよ。
男:レジスタンスの隠れ家での闘争シーンでは、外気が毒性だというのに、部屋の中では爆発をさせているのも変だよね。
  これでは、みんな外の毒ガスを吸って生きられないよ。
女:最後のボスとの闘いは、結末が見え見えなのに無駄に長かったわ。
男:全体の感想としては、あまり筋に拘らないで、時間を潰す程度の出来だった。
女:でも、コロニーでの3つのオッパイを持った女性には、驚いたでしょう。
男:うん、どう進化すれば、オッパイが3つになるのかなぁ。
  私の手も3本に進化しないと、対応できないね。
女:そうゆう話になると、真剣さが増すのね!
  暇な時にゆっくり、考えていなさいっ!

     少年は残酷な弓を射る   

あらすじ: ひっそりと一人で小さな一軒家に住んでいるエヴァ(ティルダ・スウィントン)の玄関のドアやガラス窓には、誰かが投げつけた赤いペンキがあちらこちらに付いていた。しかしそのいたずらを警察に届けることもなく、黙々と赤いしみを落とすエヴァの手には、まるで血のような赤い色が付いていた。若い頃は、作家として活躍していたエヴァであったが、フランクリン(ジョン・C・ライリー)と結婚し、妊娠を機に主婦として家庭に入り、産まれてきた息子:ケヴィン(成長してからは、エズラ・ミラー)を育てることに専念した。ケヴィンは父親に対しては甘えるものの、寝る前にエヴァが読む「ロビン・フッド」の絵本を聞いている時以外は、いつも、エヴァに対しては、反抗的で、時には、その幼い目元に憎悪の眼差しさえ見せていた。やがて、弓がうまく健康的な少年として成長したケヴィンだったが、依然として、母親のエヴァに対しては、その愛情に答えることもなく反抗は続き、そして、ついに、ケヴィンが16歳を迎えた時、その気持ちが、高校の体育館で凶悪な惨劇を起こさせる。。。

明確に表現しない手法が、観客の気持ちを惹きつける!

 監督は、リム・ランジー。原作は、英国の女性作家:ライオネル・シュライバー。
日本でのタイトルは「少年は残酷な弓を射る」と随分と衝撃的で、また内容を捉えたものであるが、原題は「We Need To Talk About Kevin」で、「私たちは、ケヴィンのことをもっと、話し合う必要があるわね」となるが、映画を観終わると、この”We”の意味するものが、ある家庭内だけでの息子の問題を「両親としての夫婦間」だけで話し合う意味合いから、ケヴィンが犯したのと同じような犯罪が、日本では秋葉原の歩行者天国での事件や、アメリカでは若者の銃の乱射事件などに見られるように、特に強い怨恨の動機もなくおこる無差別・大量の殺人事件が起きている現実から、ケヴィンを1つの例として、意味もなく凶悪な犯罪をする少年が育ってしまう、現代社会での育児教育の問題として「多くの私たち」も話し合う必要があるとまでに広げている。

 映画の展開としては、訳の分からない、冒頭のトマト投げ祭りでの全身「赤い色」に染まるエヴァから始まり、また、どうして、家に赤いペンキが投げつけられ、それを黙って落とすのか、これまた、意味が分からず、過去の話に入るという、現在のエヴァの生活とこれまでの息子:ケヴィンとの関係を、時を交錯させて進むので、途中までは、何があったのか、かなり分かりにくくて退屈。

 しかし、いつの間にか妹の左眼には眼帯が張られているが、どうして妹の傷ができたのか。
エヴァが道を歩いていると、急に女性に殴られるが、それにも抵抗しない。どうしてか。
新しい職場での同僚たちの冷たい扱いは何故。
今は、一人で暮らしているが、確か、夫も娘もいたのに、彼らはどうしたのか。
など、観ている者を、映画の先を知りたがる方向に持っていくが、監督は焦らず、徐々に観客にヒントを与え、最後に衝撃の大事件があったのだともっていき、冒頭の「赤」は、大量の「血」を意味しているなど、今までの疑問を全部つなぎあわせて解決する。
この、その場、その場では明らかでない描き方で観客に次の渇望を抱かせる演出が実に上手い。

 確かに、幼児がここまで、母親に対してまるで「悪魔の子」のような、反抗心と憎悪の態度をとるかという誇張の部分はあるが、幼児の憎しみの眼差しと、成長してのエズラ・ミラーの母親を見る怖い眼差しは、ホラー映画的でもあり、印象に残る。

 何がケヴィンをここまでにさせたのか。
母親の愛情が足りなかったせいか。
父親の普通な家庭への関心か。
でも、それなら、両親として、どこまで子供の面倒がみられるのか。
子供の犯行が、家庭内で収まらない場合には、社会は、どう対応するのか。

 観終わってからの、話が尽きない映画だった。

     BRAVE HEARTS  海猿   

あらすじ: 全国に点在する海上保安庁の海難救助隊の中でも、特に選ばれた技能優秀者たちだけで組織する「特殊救難隊」に入った仙崎大輔(伊藤英明)は昔から仲間を組んでいる後輩の吉岡哲也(佐藤隆太)らと共に、嶋一彦副隊長(伊原剛志)の厳しい指揮の下で日々救助活動に従事していた。しかし、大輔の妻:環菜(加藤あい)は2番目の子供を身ごもっていたが、現在の日本の状況下での出産に不安を感じていた。また、吉岡には、キャビン・アテンダントの恋人:矢部美香(仲里依紗)がいたが、美香は、なぜか吉岡との結婚までは望んでいなかった。そんなある日、美香が乗っている羽田空港へ向かっていたジャンボ・ジェット機がエンジン・トラブルを起こし、緊急事態となるが車輪も壊れていて、羽田空港への胴体着陸もできない。残された救助案としては、東京湾への着水だった。もしも、着水が上手くいっても、ジャンボ機の巨体は20分で東京湾に沈む。夕闇が迫るなか、乗員・乗客合計346名の命はどうなるのか。。。

相変わらずの間延びした緊迫感にまた、また無駄に付き合ってしまった!

 なんだかんだと言いながら、海と潜水が好きなもんで、何か新しいものがあるのではとの期待で毎回、この映画「海猿」を観ていて裏切られている自分が悔しい。

 2004年の「海猿(ウミザル)」から始まり、2005年の「海猿 EVOLUTION」、2006年の「LIMIT OF LOVE 海猿」、そして、これがもう当然に「Last」とあるからシリーズでの最後だと思っていた2010年の「THE LAST MESSAGE 海猿」。
でも、今回、またもやの続編の「Brave Hearts」を作るとは、ハリウッドだけでなく、日本の映画界もまったく新しい企画がなくて、続編で、とりあえずなんとか観客を動員するという安易な魂胆がみえみえだけど、他に上映されている、この映画よりもっとつまらない映画よりは、いいいかと思い暇に任せて、観てしまった!

 あらすじを読んでいただければ分かるように、本当になんの捻りもない、多くの退屈な映画や本でよくある定型的な危機感のオンパレードです。
前振りとしては、同じ隊で反発する隊員の意識。
事故が起きたらあたふたする上層部。そして、20分という根拠が薄い限られた時間内での救出。機長をうまく救助できたと思うと、他の人がまた困難な状況に陥る。
そして、水深60mという海中に取り残されて殉死したと思っていたら、どっこい、そんな悲しい映画にはさせません。
乗客も救助隊員も誰も犠牲にならず、また恋人との仲も前以上に良くなり、反目していた救助隊員たちも、勇気ある行動を共にして、またまた団結心を硬くしましたとさ。

 本当に、めでたし、めでたし って訳はないよね。

 いくら前振りで緊迫感をつくる努力をしても、それは問題なく解決されると先が読めている安易な展開と、この映画では、多くの納得できないシーンがあるから残念ながら不評となる。
例えば、東京湾にジャンボ機が着水する際に、邪魔な民間の漁船を多数排除するが、この演出では僅かな人員と限られた時間で素早く、航路から移動させたり、多くのブイを規則正しく並べているが、これだけのブイはどこに保管していたのかと思わせ、漁船の排除も、ブイの設置もいくらなんでもこの時間内では出来ないだろうと感じさせる。
また、夕闇が迫っていると危機感を煽る割には、画面は明るいし、水深60mに沈没した真っ暗闇の機内で、よくも、まあ、あの「くだ」が都合よく吉岡の傍にあり、探せたものと、善意にあふれる観客ならこれこそ超奇跡が起きたと感激し涙を流すのだろうが、私には余りにも不自然な話にしかうつらない。
犠牲者を絶対出さないという前提なら、奇跡で片づけない映像が必要だ。

 それにしても、伊藤英明と佐藤隆太が裸体をみせるシャワーを浴びているシーンの無意味さといい、矢部美香の離婚歴が再婚に対してはそれほど重大とは思えないなど、愛も勇気も薄っぺらだ。これで、金を取るとは!

 いつまでも、こんな映画を作っていると、今のTVを多くの人が見なくなったように、映画も暇つぶしだけでは、観客は入らなくなるぞ。
なんとかして、映画界!

前作;「THE LAST MESSAGE 海猿」 、「海猿(ウミザル)」

     ヘルタースケルター    

あらすじ: 田舎から東京へ出てきた「りりこ(沢尻エリカ)」は、その美貌とスタイルで、瞬く間にトップ・モデルとなり、多くの芸能誌や雑誌の表紙を飾っていた。しかし、りりこの体は、目ん玉と爪と耳とアソコを除いて全部が整形美容で作られたものであった。そして、りりこがその体を維持するためには、所属する事務所の女社長(桃井かおり)と共に、ひっそりと臓器売買の疑いがある怪しげな美容クリニックに定期的に通う必要があり、副作用のある注射も打たなければならなかった。それでも、映画プロデューサーに身を任せたり、献身的なマネージャー:羽田(寺島しのぶ)の働きで何とか芸能界のトップを維持してきたが、若いライバル(水原希子)の登場と、整形美容の弊害が、りりこの精神と体を蝕んでいく。美容クリニックに絡む自殺を追及する検事(大森南朋)も動き出して。。。

エリカ様の面目躍如だけど、もっと絞り込める!

 原作は、岡崎京子の同名の漫画があるようだ。監督は、「さくらん」も手掛けた蜷川実花。
タイトルの「ヘルター・スケルター」は、映画での解釈によると「しっちゃか、めっちゃか」の意味らしい。

 でも、私にとっての「ヘルター・スケルター=Helter Skelter」となると、若い頃に聞いたビートルズが歌った曲名として記憶にある。
このビートルズの歌で呼びかける、「Helter Skelter」の意味は辞書にも出ていなくて、どこかの遊園地の「ジェット・コースター」のような乗り物かと理解したのを思い出した。

 映画の内容に触れる前に、これは沢尻エリカ個人として、2005年の映画「バッチギ」で評判を得て、その後のテレビでの「1リットルの涙」や、歌手としての成功。しかし、映画「クローズド・ノート」の舞台挨拶での傲慢さを報じられた「別に」発言や、またその後の涙の謝罪のウソ。結婚・離婚騒動、スペインでの事務所設立など、まさに芸能界での女優:沢尻エリカの現実も背景として、押さえている必要がある。 

 モデルに代表される”若さと美”は、いつも流れて行く「虚構の世界」であり、話題を作り、その世界にいつまでもしがみつこうとする”りりこ”と、私が知っている限りではあるが沢尻エリカの噂との共通点があるから、この「ヘルタースケルター」に足を運んだ。

 映画としては、いつまでも美しくありたい。いつまでも若くありたいと願望している多くの女性のシンボルとして”りりこ”を登場させ、それに、一部臓器問題を絡めて社会性も取り入れようとしているが、全体の出来としては、ここまで、上映時間を長くする必要性がない映画だ。

 所詮、人間は歳をとるものであり、それに伴い肌も衰えるものであり、若さだけが”美しい”と思っているのは、この映画で登場するおバカな女子高生だけで、特に”検事”に指摘されるものではない。

 監督:蜷川実花の感性である”赤い色”と”鏡”での映像は、「さくらん」で見せたように鮮烈で、この映画でも活かされている。
沢尻エリカもバストを露出し、セックス演技も、不安定な精神状態も、まさに体当たりでやっているが、「しっちゃか、めっちゃか」が同じ室内での繰り返しの印象が強く、それから先のものが残らない。
 ここらは、少しカットしてよかった部分だ。
そうだ、まったく不要なのは、”りりこ”が右眼を刺しても、いつの間にか中国にいる最後のシーンだ。
この部分は、なんのために入れているのか? 検事を登場させている以上、犯罪者”りりこ”が無事にいるのは、おかしい。
世間から見れば尋常でない芸能界に対比させて、息抜きとしてまともな検事を登場させているが、犯罪追及が不十分な扱いで終わっているのでここも一捻り欲しかった。

 残念なのは、音楽の使い方もだ。
ベートーヴェンの「歓喜」や、ヨハン・シュトラウス2世の「美しく青きドナウ」のこの唐突な使用方法では、びっくりするばかりだ。
場面の流れが中断する曲の選択はいただけない。

 でも、この映画を見せているのは、マネージャー役の寺島しのぶと事務所の社長役の桃井かおりのいい演技だ。
自分の恋人を”りりこ”に寝取られてもまだ尽くすマネージャーなんてすごい役をここまで表現できるのは寺島しのぶ以外にいないと断言できる。
また、灰汁の強い人生を生きる桃井かおりも適役。

 中途半端な検事の出番を省き、「しっちゃか、めっちゃか」には、犯罪もありの反社会性で生きる芸能界としてだけ映像化すれば、もっと面白かった。

     アメイジング スパイダーマン   2D版 

あらすじ:科学を専攻する高校生で、あまりパットしないが正義感の強さだけは持っているピ-ター・パーカー(アンドリュー・ガーフィールド)は、幼い頃に異種間の遺伝子を研究していた父親と母親が事件に巻き込まれて行方不明となり、それからは、優しい伯父夫婦(マーティン・シーン、サリー・フィールド)に育てられてきた。ピーターは、同じ弁論部にいるグウェン・ステイシー(エマ・ストーン)が好きだったが、まだ告白はできなかった。ひょんなことから伯父さんの家の物置を探していると、父親が残した古びたカバンが出てきた。そのカバンの中には、父親が以前オズコープ社で研究していた秘密のファイルが隠されていたので、当時の父親と共同研究をしていたコナーズ博士(リース・イーヴァンズ)をオズコープ社に訪ねると、コナーズ博士はトカゲのしっぽの再生組織を研究し、人間に適用できるかを考えていたがまだ完成できずにいた。またその研究所では、「くも」の遺伝子も研究中で、閉じ込めていた実験中のクモが操作ミスで外に出て、ピーターを噛んだ。その翌日から、ピーターの体に異変が起き、ビルの壁を簡単によじ登れたり、手からクモの糸を自在に出せるようになる。クモのような超能力を得たピーターであったが、伯父さんが、強盗事件の巻き添えで殺されたのをきっかけに、ニューヨークの悪事を片づけることに目覚めいつしかピーターは「スパイダーマン」呼ばれるようになった。しかし、スパイダーマンの前に謎の怪物「リザード」が出現する。スパイダーマンを悪人として捕まえようとするニューヨーク市警察には、グウェンの父親もいる。どうなるピーター。。。

女:相変わらずの、アメリカの子供向けの粗いつくりのアクション映画ね!

男:これまでも、たびたび映画化されてきた「スパイダーマン」がまた、また、他の映画のタイトルでは観客を呼べないので、映画化されたということだね。
女:チラシによると、今まで作ってきた「スパイダーマン」から、ストーリーもキャストも変えて、また、この新シリーズで、続編を作っていく積りのようね。
男:しかし、もとの原作は、その作りが適当で有名なアメリカの漫画だからね。
  だいたいアメリカ漫画の特徴は、ズワーーン、バカーーンとかアクションばかりが強調されていて、情感を出したり、ストーリー展開での細かさはあまり描かれていないからなぁ。
女:しかも、そのオリジナル漫画は、もう昔、昔に連載された漫画でしょう。
  そんな時代のアイデアに頼るとは、本当に、ハリウッド映画の脚本のオリジナリティも枯渇しているのね。

男:チラシではストーリーを新しくしたっていうけど、蜘蛛男に変身して、高いビルの壁を登ったり、蜘蛛の糸でビュンビュン飛び跳ねるのは別に目新しくなっていないけどね。
女:最初に「スパイダーマン」が映画化された時に、スパイダーマンの恋人が余り可愛くなくて、貴方は凄く不満だったけど、今度はどうなの。
男:恋人だけでなく、設定が高校生なのに、スパイダーマンを演じるアンドリュー・ガーフィールドもそれはないだろうと高齢を感じる。
  まあ、エマ・ストーンのロング・ブーツのスタイルは、一応これでもいいかなってぐらいの感想だ。
女:いつでも、若い娘に対する評価は甘いのね。
男:それにしても、こんなに、古い映画や、評判になった映画のリメイクや続編ばかりしか作れない映画界の今後が心配だね。
女:続編だけでは観客を呼べないとなると、「猿の惑星」のように、元の映画の創生部分まで作りだすのは、本当にアイデアが無くなってきているのね。
  評判が良いから、続編を作るのではなくて、最初から続編を作るのを考えているなら、もう有料の映画館で観なくて、無料のテレビでいいって発想よ。
男:また、共同研究者のトカゲへの変身や、恋人の父親が警官など、話の展開や内容も乏しいね。
  そして、このスパイダーマンは2D版で観たけど、3D版もある。
  でも、この程度の子供向けの内容なら、特に立体感が必要とされていない。
女:そうよね。「アバター」以来注目された3Dだけど、特別に高い料金を払ってまで観るまでの映画は今まで無かったもんね。
男:正義の味方のヒーローが目立ち、観客にそのヒーローに対する共感を覚えさせるには、悪人サイドの設定も際立っていないといけない。
  この「スパイダーマン」では、ヒーローの正義感に迷いがある中途半端な出来で、また悪人の立場も一度は破壊活動をするけど、結局、最後は良い奴となっているのが、退屈さの原因だ。
女:そういうメリハリがしっかり把握できていないところに脚本の未熟さを感じるのよ。
男:映画製作において、お子様から経験豊富な高齢者までを対象にした作りでは、子供にとっても、大人にとっても、物足りなさだけが残るからね。
  最初の企画の段階で、対象を明確にして取り組んで欲しい。
女:その点、貴方の人生は迷いが無くて明確ね!
男:いやーっ、そんなに褒められる照れるなー。
女:皮肉なんだけど。
男:声が小さくて聞こえないんだけど?
女:いいのよ、いいの。

アンドリュー・ガーフィールドが注目の;「ソーシャル・ネットワーク」
昔(2002年)の;「スパイダーマン」

     幸せへのキセキ    

あらすじ: 最愛の妻を亡くしたベンジャミン・ミー(マット・デイモン)には、14歳の息子:ディラン(コリン・フォード)と7歳の娘:ロージー(マギー・エリザベス・ジョーンズ)が残された。亡き妻と出会ったレストランなど強い想い出が残っている町に住んでいては、仕事もうまくいかず、また息子も、盗みをしたり気持ちの悪い絵を書いていて退校処分になったのを機に、ベンジャミンは会社を辞めて、ロージーが気に入った郊外の家を買い、引っ越すが、その家には、元の家主の遺言で、荒れて閉鎖中の動物園もついていた。新しく動物園のオーナーとなったベンジャミンは、飼育係のケリー(スカーレット・ヨハンセン)などの助けを得て、動物園の再開を目指すが、死期の近づいたトラの処分や巨大な熊やライオンなどの飼育費、檻の改造などで資金が足りなくなる。ベンジャミンからどんどん離れていく息子との関係も深刻だが。。。

ひねりのない、よくある話の連続では、先が読めて、感動できない!

 原作は、これまた、よくあるお涙頂戴の(?)の実話があるらしく、英語でのタイトルは「We Bought a Zoo」で、日本語にするなら、「(思いつきで)動物園を買っちゃいました」ってところか。

 最愛の妻に先だたれて、立ち直れない気弱な男。幼い娘は可愛い盛りだが、年ごろの息子は、父親に反抗し家庭は崩壊寸前。
しかし、そんなことはものともせず、みんな克服して、動物園も無事再開できました。家族の結束も深まり、めでたし、めでたし! では、下の「スノーホワイト」と同じ程度のお伽噺の域をでない出来だ。

 真実にしては、その盛り上げ方が常套過ぎる。
例えば、蛇の箱は開けないでと振っておいて、息子が開けてしまい、ひと騒動があるが、それは、もう、定番でお約束のとおりだ。
巨大なグリズリー(熊)が動物園を脱走して、町中でうろちょろしていても、町の人にはばれずにいたなんて、観客を馬鹿にしていませんか。
息子と恋人が、屋根に上がって、星を見るなんて、昔あったテレビのまねだし、動物園の開園を検査する検査官が来たときに、ライオンのいる扉の鍵が壊れて、検査官にばれないぎりぎりで直すなんてシーンも、なんとか間に合うんだなとわかり全然ハラハラもしない。

 基本的に、通常の家でなく、動物園を買うぐらいの生活と財政に余裕がある大人ならば、もっと思慮深いと思われるが、すぐに、財政難に陥るとは、見ていても、もう「おばかさん」といいたくなる。

 そして、その資金不足が、タイミングよく発見した亡くなった妻のへそくりで助かるとは、もう、事実を、小手先だけで劇的に持って行こうとするこれまた、平凡な脚本家の、平凡な発想と分かる。

 最後の開園日のお客が嵐で倒れた木に阻まれてこられないのは、もう無茶なシーンだ。門のそばまで来ていて、黙っているような優しいお客さんがどこにいるのか?

 話を盛り上げるために使われる父と息子の確執があっても、お互いが本音を言えば、すぐに、また簡単に解決できるのも、現実は、もっと複雑であるからおかしいし、あれだけ、妻を愛していた夫が、すぐに飼育員との愛情が芽生えるっていうのも、アメリカでは、こんなに浅い関係が、家族愛で、男女の愛かと、実に薄っぺらくて嘆かわしい扱いだ。

 結局、何の苦労もない、思いつきで動物園を買ったら、そこそこ上手くいってますって映画だった。

 追記:息子の恋人役で、「スーパーエイト」に出ていたエル・ファニングがまたまた、注目できるほど成長してます。

マット・デイモンの;「インビクタス/負けざる者たち」「アジャストメント」「ヒア アフター」
近頃活躍していない、スカーレット・ヨハンセンの;「そんな彼なら捨てちゃえば?」 

     スノーホワイト    

あらすじ: むかし、昔。ヨーロッパのある国で、民衆から慕われている気高い王様がおられました。その王様には優しいお妃様と雪のように白い肌を持っているので「スノーホワイト」と呼ばれる幼い王女様もおられましたが、お妃様が亡くなり、次にお妃として迎えたラヴェンナ(シャーリーズ・セロン)様は、実は魔女で、王様を殺して王座を奪うと、スノーホワイト(クリステン・スチャート)様を城に閉じ込めて、近くにある国々も恐ろしい魔法を使って支配していましたとさ。ラヴェンナ女王様がその魔法とその若さを保つために、スノーホワイト様の心臓が必要となった時に、スノーホワイト様は城を抜け出し、迷いこんだ黒い森で助けてくれた猟師のエリック(クリス・ヘムズワース)様や亡くなった王様を慕っていた8人の小人を仲間にしてラヴェンナ様の追手から必死に逃げていましたが、とうとう、スノーホワイト様もラヴェンナ様の魔法にかけられ「毒のリンゴ」を食べてお亡くなりになりましたとさ。でも、エリック様の熱い口づけで魔法が解け、生き返ることができたスノーホワイト様は、抵抗軍を指揮してラヴェンナ様の城を攻撃し、ついにラヴェンナ様をやっつけましたとさ。めでたし、めでたし。。。

やっぱり、おとぎ話は、おとぎ話だった!

 原作は、グリム童話の「白雪姫」であることは、もう言うまでもない。
でも、私が知っている話と何かが違う!
 そう、白雪姫を生き返らせたのは、確か王子のキッスだったと思ったが、この映画では、猟師のキッスだ。
そこで、この映画の英語のタイトルを見ると「SNOW WHITE AND THE HUNTSMAN」とある。
この映画では、昔、ディズニー映画で見た、王子様より、猟師=THE HUNTSMAN の方が主役だったのです。
これで、王子様より猟師の方が活躍するのが納得できました。

 「白雪姫」が子供を対象としたおとぎ話とは知っていましたが、予告編で、予言をする「鏡」や、切られると黒いカラスに変身して飛んでいくシーンが興味をそそり、また、チラシでの「おとぎ話は終わった。今、新しい「白雪姫」伝説がはじまる!」なんて文言につられて、それなら、大人の鑑賞に耐えられるかとの思いで、つい、つい映画館に足を運んでしまった訳です。

 でも、映画の展開は、魔女の存在といい、黒い森での怪獣との闘いで、どうして「にらめっこ」だけで勝てるのか?
女性だけの村での戦闘では、こんな暗闇のなかで、どうして敵味方の区別がついたのか?
8人の小人(7人ではありません)との出会いや、どことなく間の抜けた感じしかない癒しの森での妖精の存在など、途中でこれでは、疑問符の解決を問題としていない、あくまでもお子様向けの「おとぎ話」であって、大人向きに作られた映画ではないと分かるのですが、もうその時には、あくびが出ても、成り行きで最後まで観る他はないのです。

 最後となる城での戦い方での小人たちの城門の上げ方にしても、緊迫感がなく、またどこかであった話で、それにしても、戦闘シーンでは、手持ちカメラの移動が激し過ぎて、誰がだれと闘っているのか、敵味方がはっきりわからず、ここらも一工夫が欲しい構成でした。

 印象に残るのは、シャーリーズ・セロンの美しさとよくできた老女顔への変化ですが、上品で、おとなしいという先入観のある「お姫様」に「スカート」でなく「ズボン」を穿かせて戦の先頭に立たせるという発想は、ディズニーの時代には、あり得なかったと、時の流れも感じました。 

     飛び加藤    シアター クリエ

あらすじ: 時は、江戸時代。手妻師(藤山新太郎)が持っている、なんでも叶えるという「つづら」が、インチキであるということで、奉行(俵木藤汰)の詮議を受けるが、その「つづら」には、不思議な過去が秘められていた。遡れば、動乱の戦国時代。ところは、京都。街角で、手妻(手品)を見せて、僅かな銭を稼いでいる男:加藤(筧(かけい)利夫)がいた。また、旅芸人の一人:楓(佐津川愛美)は、負傷し眼が見えなくなった武士:河田長親(細田よしひこ)を助けることと引き換えに、幻術使いの老婆(涼風真世)に、好きな人の前では、汚い言葉しか話せなくなるようにさせられる。河田長親に一目ぼれした楓は、手妻を使う加藤の力を借りて、どこかの大名に仕官していると思われる河田を探すが、加藤の素顔は、闘いを嫌った抜け忍者で、追手(三上市朗)が命を狙っていた。また、幻術使いの老婆も加藤に恨みを抱いていた。どうにか、河田と会うことができ、喜ぶ楓であったが、河田は、楓が命の恩人とは分からなかった。みんながいる城が、敵方に包囲され、ついに。。。

手を抜かない演出と邦楽がうまく舞台を盛り上がらせる!

 抜け忍と手妻(手品)と、それに、愛する人には心にない汚い言葉を話すようにさせられた女芸人を絡めるとは、まったく斬新な脚本で恐れ入った。
それを書いたのは、蒔田光治で、演出は河原雅彦。

 元は凄腕の忍者が、頭(かしら)の命に背き、忍法と似たところのある手妻師と偽って逃亡者の生活を送り、彼を追跡してくる幼馴染の忍者と非情に闘うのは、まあよくある設定であるが、これにプラスした”いろどり”として、美しい言葉を盗られた旅芸人や幻術使いまで広げているが、これらがうまく纏まっている。

 筧(かけい)利夫が抜け忍を演じるのでは、これではコメディになるかと危惧したが、そんな心配は無用で、ちゃんとした”時代劇”になっている。

 ”時代”を現すセリフ回しにしても特に問題はないし、音楽が琴と三味線を中心にし、また和太鼓などを使用していて、この時代感を醸し出す効果として十分に利用されている。

 また、加藤に裏切られ、妖怪な老女と若い娘という怨念を持つ二役を演じる涼風真世の演技と、役によって使い分けられる老女と若い娘の発声は、見事に舞台を引き締める。

 忍者同士の闘いの場や城での戦いなど、つい演技や舞台装置も面倒で手を抜きたくなる場を、シアター クリエの中2階の空間まで広げて見せたのは、いい演出だ。
かなり材質を軽くしたとは思えるが、「つづら」を背負っての筧の殺陣の熱演は、特に拍手ものだった。

 話の展開も、ところどころに、首がとれたり、瓜を実らせたりと本当の手妻をやらせているが、これが息抜きとして活きている。

 加藤と楓の恋が実り、ハッピー・エンドで、しゃんしゃんと終わるかと思っていたら、これが、悲しき結末を迎えるのも、忍者の定めと納得できる。

 本物の手妻師の藤山新太郎を舞台回しに持ってくるとは、これも意外とうまく収まっていた。

 この「飛び加藤」は、舞台初日の6月10日に観たが、初日の出来としては、舞台移転の段取りもスムーズであったが、ただ、楓を演じる佐津川愛美の元気いっぱいというよりは、かん高い声が気になった。

 なお、この舞台を観るなら、客席の前方も、度々使用されますので、後ろの席がいいかも。

前回のシアター クリエは;「GOLD ~カミーユとロダン~」

     テルマエ・ロマエ    

あらすじ: 今から、約2000年前の古代ローマ。浴場の設計技師:ルシウス(阿部寛)は、新しいアイディアがなくて職を失いかけていたが、ひょんなことからローマの大衆浴場から日本の現代の銭湯にタイム・スリップし、日本銭湯の文化である、大きな富士山の絵や宣伝の入った風呂桶、また風呂上りに飲む牛乳などのアイディアを得てまた古代ローマに戻り、どうにか設計技師としてやっていけるようになる。その後も、ルシウスは、アイディアに悩むと、日本の風呂場や露天風呂にタイム・スリップできる体質となり、シャワー・トイレやジェット・バブルのアイディアを持ち帰り、時の皇帝:ハドリアヌス(市村正親)にも気に入られる。一方、現代の日本で売れない漫画家:山越真実(上戸彩)は、風呂に絡んで、度々タイム・スリップしてくるルシウスに恋をし、ついに、彼女もルシウスと共に古代ローマにやってくるが、そこでは、ローマ帝国が窮地に陥っていた。ローマ帝国の歴史が変わるのか。。。

女:顔の濃い男優を集めても、内容が乏しいわね!

男:監督は、フジ・テレビ出身の竹内英樹で、原作は、イタリアにも住んでいたことのある、ヤマザキ・マリの同名の漫画があるようだ。
  「テルマエ・ロマエ」とは、ラテン語で「ローマの風呂」の意味だとか。
女:日本での濃い顔男優として、阿部寛や市村正親の他に、北村一輝や宍戸開も出ているわね。
  現地イタリアでロケをし、イタリアのシーンでは、現地の人に混じって、日本の男優が、イタリア人として演技をするのは、それほど違和感がなくて面白いアイディアだったわ。

男:今までのフジ・テレビの企画が絡んだ映画から、出来は期待できないと分かっていながら、つい、公開が4月28日と1月以上前だけど、未だに上映されているので、それなりの面白さがあるのかと思い、また他に観るのがないので観たが、やっぱり、退屈な出来だった。
女:5月に、オーストリアやチェコに行ってきた貴方は、その旅行記をネットに載せる準備に追われて暇がない中をわざわざ映画館まで足を運んだというのにね。
男:本当だよ。でも、私が忙しいのは、私の勝手だけどね。
女:じゃあ、話を映画に戻しましょうか。
  確かに、日本男優がイタリア人を演じ、また風呂関係限定で古代のローマ風呂と現代の日本の風呂場を行き来できるという設定は、すごく面白けど、このつくりでは、日本の銭湯文化や風呂場文化を、ただ古代ローマに移しましたで終わってしまったのね。

男:そうだね。
  日本の銭湯の桶に宣伝が入った理由や、シャワー・トイレが完成するまでの苦労を原作者や脚本家が充分に理解していないから、日本での成功の結果を単に古代ローマに持って行き、古代には存在しない技術で作る行程が省略されているので、どうしても多くの挿話が中途半端で、また断片な感じを受けてしまう。
女:断片といえば、ルシウスが奥さんに逃げられる話や、子宝の話もそうかという扱いね。
男:北村一輝の女好きも、この程度の描き方では、皇帝になれない話ではない。
女:終わり近くで、笹野高史や竹内力などの高齢者も古代ローマにタイム・スリップして、力仕事が必要なオンドル小屋を簡単に建てるのは、観ていてもすごく無理がある設定ね。
男:このあたりが、フジ・テレビ企画で、サラリーマン監督の世間を知らない演出と指摘される部分だけど、それでも良しとする、上司にも、映画製作の熱意が欠けているからだ。
女:結局、タイム・スリップで笑わすのも中途半端で、男女の恋愛も充分に描くことのできなかった脚本が未熟ってことよ。
男:そうだよ。
  この映画では、女性として成長した上戸彩ちゃんの風呂場でのもっと胸や肌を露出したシーンが脚本の段階で入っていないといけないね!
女:それは、あなたの余りにも、個人的な好みだけだと思えるわよ!
男:そうかな? 多くの男性が、それを期待していて、裏切られたけど...

阿部寛の前作;「麒麟の翼」
ローマをもっと知りたいなら;「駆け足で回ったヨーロッパ -イタリア編-」

     ダーク・シャドウ    

あらすじ: 時は、1750年頃のアメリカ。イギリスのリバプールから新天地を求めて移住してきたコリンズ夫妻は、水産業で儲け、町を見渡せる丘の上に豪華な邸宅をかまえ町の名もコリンズポートとするほどの実力者になったが、跡継ぎのバーナバス(ジョニー・デップ)はプレイポーイで、召使のアンジェリーク(エヴァ・グリーン)と関係を持ちながら、ジョゼット・デュプレ(ベラ・ヒースコート)を恋してしまい、魔女であったアンジェり-クの怒りをかいヴァンパイアに変えられて、生きたまま棺とともに埋められてしまった。それから200年後の1972年、土地の開発で棺が開けられ、蘇ったバーナバスが見たのは、荒れ果てた屋敷と、女家長のエリザベス(ミシェル・ファイファー)が、必死に2人の子供を養っている落ちぶれたコリンズ家であった。家族思いのバーナバスは、エリザベスにヴァンパイアの身分を明かし、屋敷の隠し部屋に隠しておいた財宝と得意の催眠術を使って、元のような繁栄を取り戻そうとするが、魔女のアンジェり-クが依然として生きており、邪魔をする。200年前にバーナバスが恋したジョゼットに生き写しのヴィクトリア・ウィンターズ(ベラ・ヒースコートの二役)との恋は成就するのか。。。

監督だけが、楽しんでいて、観客はあくびがでる!

 監督は、最近ジョニー・デップとよく組んで、ファンタジーと言えば聞こえがいいが、内容の薄い、単純に子供向けの映画を作って、自分だけ悦にいっているティム・バートンだ。
他の出演者では、これまた、ティム・バートンの映画にはジョニー・デップと並んで欠かせない存在のヘレナ・ボナム=カーターが精神科医として出ている。

 映画の元になったのは、1960年中頃から放映されたテレビのシリーズがあるらしい。

 ヴァンパイアといえば、お決まりとして、人間の首筋に噛みつき、その生き血を吸って永遠に生きるという本筋は活かしているが、他の弱点である、太陽光に弱い、十字架に弱いことに対しては、このバーナバスは特に陽の光に弱くもなく、サングラスをかけて昼も仕事に励むし、十字架は出てこないことで、かなり、定説を逸脱している。

 元々のテレビ・シリーズでの重要な”笑い”は、200年と言う時の流れを知らずに蘇ったヴァンパイヤが現代文化の進歩に中々追いつけないことにあったようだ。
例えば、昔に愛用した馬車は、今は自動車になり、アリス・クーパーなんて女性の名前の男性ミュージシャンがいること。
テレビ受像機の中で、カーペンターズが歌を歌っていると、テレビの箱の裏側を探すなどだ。

 でも、この程度の描き方では、現代人にとっては、もう見飽きた設定で腹の底から笑える程のことでもなく、また、英語の素養もないと笑えない。
元のテレビ・シリーズでは、かなり長い期間放映されたようで、脇役の家族達もそれなりに位置づけがされたのかも知れないが、この映画では、家庭教師の役や、狼娘に変えられるおませな娘や、これまた可哀想な息子などが充分に描かれていないため話が続かない。
特に、家を追い出させられるオジサンの存在などは、まったく、意味も分からないうちに終わっている。

 監督:ティム・バートンが部屋を回転させてまで、力を込めて撮ったと思われる、大げさ過ぎる魔女のアンジェり-クとバーナバスのセックス・シーンは、もう、監督のその場の思い付きでの発想で自分勝手に盛り上がっただけで、出来上がって見ると、これも無駄なシーンだった。

 無駄といえば、音楽も突然にパーシー・フェイスでお馴染みの「避暑地の出来事」で使われた「夏の日の恋」や、グロテスクでしかない本物?のアリス・クーパーが歌う場面も、もうだらだらと続けられて完全に飽きる。(私は、カーペンターズは知っていますが、アリス・クーパーには、興味がありませんので、本人がどうか、知りません。)

 女性の愛を裏切ると、なん百年にもわたってひどい仕打ちを受けることは分かるが、時代のずれを題材にした”笑い”がとれず、それに子孫を思う気持ちもみんな取りとめのない描き方となった。

ジョニー・デップの;「ツーリスト」「パイレーツ・オブ・カリビアン -生命の泉-」 
どこか、印象に残る、ヘレナ・ボナム=カーターの;「英国王のスピーチ」

     裏切りのサーカス    

あらすじ: 時は、ソビエト連邦を頂点にした共産圏と厳しく対立していた資本主義社会側でまだイギリスの諜報部が活躍できる力を持っていた東西冷戦時代といわれる1970年代も終わりの頃。イギリスの諜報部のトップ組織「サーカス」にソ連側の二重スパイ「モグラ」が潜んでいるとの情報が入り、諜報部のリーダー:コントルール(ジョン・ハート)は、内密に調査をしていたが、ハンガリー軍の将軍を亡命させる計画で大きな失敗を冒し、右腕のスマイリー(ゲイリー・オールドマン)と共に引退をした。しかし、イギリス政府のトップも二重スパイの存在には決着をつける必要があり、引退したスマイリーに本格的に捜査を依頼する。すると、そこには、スマイリーの仇敵:ソ連のKBGのリーダー:カーラの存在が浮かぶ。カーラは巧妙な作戦で、サーカスの中枢に多くのモグラを潜ませていたのだ。スマイリーは、モグラを摘発出来るのか。。。

女:年取った、暗い老人たちの地味なスパイ映画ね!

男:原作は、私も読んだことのある「寒い国から帰ってきたスパイ」などで、40年前ほどには、超有名だった元イギリスの諜報機関MI6にもいたというジョン・ル・カレルだ。
  彼が、1974年にイギリスで発表した「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」の本がある。
女:それを、トーマス・アルフレッドソンが映画にしたと言うわけね。
男:この映画でも取り上げている、東西冷戦時代を描いたスパイ物といえば、ジェームス・ボンドが出てくる「007」シリーズが、まず筆頭に浮かぶが、この映画は、そんな、格好のいい若者や色気のあるボンド・ガールを期待すると大いにがっかりするね。
女:がっかりするのは、老人たちばかりが、表にでてるせいだけではないでしょう!
  登場人物の描き方に整理がされていなさすぎるのよ。

男:確かに、諜報機関に潜む二重スパイを暴くとなれば、人物の相関関係や裏の状況にしても推理は必要だけど、この描き方では分かり難い。
  また、地理的な関係も、日本人にしてみると、彼らが、イギリスにいるのか、ハンガリーにいるのか、はたまたパリにいるのか、風景だけでは、すぐに分からない。
女:ロンドンやパリに実際に行ったことのある、あなたでもわからないのということは、他の人はなおさら、ピンとこないとおもうわ。
  それに、現在から過去の話に突然戻るこの下手な、回想シーンとの繋がりも、多くの部分で意味不明になっているのよ。

男:特にイギリス諜報部でのパーティでありながら、ソ連の国家を歌ったり、また、フランス語のラ・メールを歌っているシーンだね。
女:イギリス人でいながら、ソ連のスパイに走る動機や、スマイリーが妻に浮気されたり、ハンガリーで失敗したイギリスのスパイが、無事にイギリスに戻っていたりするのは、後から分かるのだけど、これらの回想シーンが実に重要だったのだけど、そこの扱い方が軽いのよね。
男:また、いじめられている男の子に力を貸す先生や、スマイリーが眼鏡の度を治すシーンなど、何か意味があるのかと気を使って、疲れる。
女:多くの推理小説が映画化で失敗する、肝心のところを映像化しないで、セリフで片づけるのも、監督として失敗よ。
男:ソ連側の女性スパイのちょっとだけ色っぽいシーンだけでは、観客は誤魔かされないってことだね。
女:イギリスでの「モグラ」探しと同時に、ソ連の大物スパイ:カーラとの駆け引きも、もっとハラハラさせてくれないと駄目よね。
男:実のところ、カーラとスマイリーとの関係は、ライターの件が示すように好敵手だったようだから、この部分にも日を当てたほうが良かったかな。
女:それにしても、この東西冷戦映画の舞台となった、ハンガリーやチョコは、一度、実際に観てきた方が、話が進みやすいでしょう!
  ねっ、今度は、中央ヨーロッパの旅行をしましょうよ!

男:映画の舞台となった場所を、その度に訪れていたら、大変だよ。
女:もう、残り少ない人生なんだから、できる内に、やるのよ!
男:じゃ、そうしようか。

 というわけで、5月12日から、10日間で、オーストリア、スロバキア、ハンガリー、チェコへ行くことになりました。 
  
モグラの一人のコリン・ファースが熱演の;「英国王のスピーチ」



この映画は、5月4日に日比谷のシャンテまで足を運んで観ました。
毎年ながら、連休中は、近所の映画館は、お子様向けばかりが上映されていて、観るものが無いからです。
同じ思いは、他の大人たちにも共通のようで、1時半頃、日比谷に着いて、3時からの開演で充分時間があると思っていたら、
何と、3時の回は、売り切れで、仕方なしに、5時40分の回で観ました。

でも、観た多くの観客は、がっがりしてましたけど。

     バトルシップ    

あらすじ: アメリカ航空宇宙局(NASA)は、宇宙で地球に似た惑星を発見し、ハワイにある電波発射塔から、強力な電波をその星に向かって発信した。その頃、同じハワイ沖の海上では、アメリカを始めとし、日本、韓国などの海軍が集まり、航空母艦や駆逐艦を加えて大規模な洋上軍事演習をしていた。その演習の最中、突然、宇宙から巨大な物体が数個飛来し、演習をしている海中に落ちた。その謎の物体は近辺に巨大なバリアを張り、あたりを通信不能にして、ハワイの街を襲う。宇宙から来たエイリアンの目的は何か? バリア内に取り残されたアメリカ海軍の新人将校:アレックス・ホッパー(テイラー・キッチュ)は日本の海上自衛隊指揮官:ナガタ(浅野忠信)と共に、謎に満ちたエイリアン達と戦うが。。。

ここまで、粗い作りの映画とは、どうしようもない!

 チラシでは、ユニバーサル映画 100周年記念作品とあるので、ハリウッドの一翼を担うユニバーサル映画が絡むなら、これは、かなり内容の濃い、しっかりした出来かと期待して観たが、なんだ、これは?って映画でした。

 ストーリーの展開が、まったく「あらすじ」ならぬ「あらいすじ」で、ナガタを例にだすと、エイリアンの攻撃を受けて自分の駆逐艦が沈没しても、いつの間にか別の艦に無傷で乗っていたり、他にも、エイリアンを攻撃するのに、レーダーが使えないため、浮いている多くのブイからの電波でやっつけるが、これって、特定の電波なら問題なく使えるってことで、エイリアンが全電波を遮断したという当初の設定と矛盾していて、おかしいでしょう?

 また、1匹(?)のエイリアンがいつの間にか、(本当に、唐突に)捕獲されて船内に運ばれていて、このエイリアンから彼等の弱点が昼間は視力が弱いことが分かるとは、余りにも無謀な、ひどい筋の運びです。

 それに、見境なく人間を殺しているエイリアンが、電波塔にいた研究員のように、時々、攻撃しないというのも、武器の有無で判断したようだけど、エイリアンにとって武器って何だ? どうして、初めて訪れた地球で武器が認識できるのか? 

 さらに、真珠湾に展示されている戦艦「ミズーリ」を急遽戦闘可能状態にして、エイリアンと対戦させることになっているが退役した軍人たちの確保や武器の調達など、ここには、かなりの時間を必要とすると、普通の観客は思うが、映画の製作の方たちは、そんな常識を無視して、ただちに戦闘に参加させる。

 そして、制作した会社が、「トランスフォーマー」を作ったハスブロですから、飛行物体は簡単に、疑問もなく、強引に別の形に変化するのです。

 いやはや、VFXだけに頼った、すじのない作品だった。
でも、最後までタイトルを観ていると、まだエイリアンが出てくる続編を考えているらしい映像がでるのには、もう付き合いきれない。

 筋がないのを好きなら;「トランスフォーマー」 

     アーティスト    

あらすじ: 時は1927年。ところはアメリカは映画の都:ハリウッド。無声映画の大スター、ジョージ・ヴァレンティン(ジャン・デュジャルダン)は、今日封切られた新作でも主人公役をつとめ、舞台挨拶でも共演した愛犬:アギーと共に喝采を浴びていた。そんな彼がとりこになったのは、次の作品で踊り子として応募してきた愛らしい笑顔のペピー・ミラー(ベレニス・ベジョ)だった。ジョージの熱烈なファンでもあったペピーは、ジョージの提案で、顔を印象付けるためにホクロを口元に描き人気が出てきた。そして、無声映画に代わって登場したトーキー映画。しかし、ジョージは無声映画こそ芸術で自分も芸術家(アーティスト)だと信じ、所属していた映画会社を離れて自分の資金で監督・主演の映画を作るが、もう時代はトーキー映画に移っており、不入りとなった映画で彼は破産し、妻からも追い出されて酒に浸る日々を送る。一方、ペピーは、トーキー映画の花形女優としてめきめきとスターの階段を駆け上っていたが、いつも陰からジョージを見守っていた。しかし、経済的にも追い詰められたジョージは、ついに安アパートで最後まで手放さなかった栄光の日々の面影を残す数々のフイルムに火を放ち自殺をはかるが、愛犬:アギーの活躍で一命を取りとめ、ペピーの家で治療生活をする。何とかジョージの映画界への復帰を願うペピーの望みは叶うのか。。。

やっぱり、中弛みがして退屈だった!

 映画ファンなら、このフランス製の白黒・無声映画「アーティスト」が今年(2012年)のアカデミー作品賞・監督賞・主演男優賞・衣装デザイン賞・作曲賞をとり、ついでに出ている犬も賞をとったことはご存じでしょう。

 しかし、アカデミー賞の発表がある前での予告編とチラシを見た段階の私の中では、今の時代に白黒・サイレント(無声)映画は無いだろうという思いが強くあり、アカデミー賞受賞の知らせがなければ、そんなに観たいとは思わなかった映画です。

 で、観た感想ですが、やはり観る前に感じたように、感動に至らない、退屈な仕上がりの映画でした。

 確かに無声映画ですから、俳優が、身振り手振りで大げさな演技をするのは分かりますが、無声映画ならあのチャップリンの時代から始まり、そして現代の3D映画まで、数多くの映画を観てきた私には、この平凡な展開のシナリオでは、作品賞は与えません。

 カラーで撮影したものを、あえて白黒にし、この現代でサイレント・ムービーにしたというのは、監督:ミシェル・アザナヴィシウスの映画に対する強い思い入れと宣伝効果を狙っただけのものです。
そう、ジョージの口ひげは、「風と共に去りぬ」のクラーク・ゲーブルであり、ペピーの口元のつけボクロは、マリリン・モンローに対するオマージュです。
このあたりが、単純な脳細胞をしたアメリカのアカデミー賞の選考委員たちに受けたようですが、私にはただ、そうだ、そんな映画俳優がいたなぁという程度の感傷で終わります。

 時代に遅れてしまう人と、時代に乗れて活躍できる人。
そんなのいつの世でも当たり前のことで、いつまでも過去の人々がのさばっていたら、政治や経済は停滞してしまう。
(今の日本のことで、プロ野球もこの分野に入っています。)

 そんな当然な成り行きを今更、白黒映画でみせられても、全然心に響いてこない。
また、無声映画では音楽の存在が非常に重要で、悲しい場面・嬉しい場面と印象に残るメロディーが必要ですが、この音楽でも、観終わってもなんだか、騒々しかっただけでした。

 最後のタップ・ダンスに至っては、これでは、本当に映画界に復帰ができるとは思えません。

 唯一、演技をしていて褒められるのが、犬のアギーとは、本当に残念な映画でした。
映画が始まってすぐに寝ている人がいますが、そんな内容の映画です。

映画に対するオマージュで同じように失敗した、マーティン・スコセッシ監督の;「ヒューゴの不思議な発明」
あえて白黒映画にした;「バーバー」もあります。

     ドライヴ    

あらすじ: アメリカはロスアンジェルスに住む、車の運転技術と修理が上手いドライバー(ライアン・コズリング)は、時々ハリウッド映画のスタントマンもやっていたが、裏の世界では、強盗の逃亡を請け負う運転手でもあった。家族もない孤独な彼の生活を変えたのは、同じアパートに住む人妻:アイリーン(キャリー・マリガン)とその幼い息子との出会いだった。アイリーンには服役中の夫:スタンダード(オスカー・アイザック)がいたが、ドライバーとアイリーンは互いに惹かれあっていた。スタンダードは刑を終えて刑務所から出て来、更生をしようとしたが、刑務所時代の暴力団に脅かされて質屋を襲う。しかし質屋の店主に撃たれてスタンダードは殺される。その計画で逃亡を請け負っていたドライバーは奪った金とともに何とか現場から逃れたが、この質屋襲撃事件には、地元の暴力団と巨大なマフィア組織の対立も絡んでいた。ドライバーだけでなく、愛するアイリーン母子にも容赦ない裏の世界の追跡が始まる。。。

女:凄くクールな運転手だけど、ただそれだけね!

男:監督は、デンマーク出身のニコラス・ウィンディング・レフンだ。
女:「ドライヴ」といえば、ロバート・デ・ニーロの「タクシー・ドライバー」が題名的に思い出すけど、内容的には、フランス映画の「トランスポーター」に近いわね。
男:それよりも、ライアン・オニールが出ていた「ザ・ドライバー」の方が、下敷きとしてあるのかも。
女:この映画の中では、主人公でありながら、名前は明らかでなくて単に「ドライバー」と呼ばれるのよね。
男:いつも口には、つま楊枝を咥えて冷静に横顔を見せながら運転をするとは、チラシにあるようにクールなイメージは充分に出ている。
女:だけど、過去も不明で、家族もなしでは、かなり漫画的な浮いた描き方過ぎたわ。
男:逃亡を請け負っていても、警察から逃げるやり方が、今までの映画にみられるような派手なカー・チェイスではなくて、静かに隠れるという、出だしの用意周到さには感心した。
女:そう? でも、道を覚え、車を改造するほど準備万端なドライバーが、後半の暴力団との争いになると、行き当たりばったりの行動になるのは残念ね。
男:犯行で銃は絶対使わないとクールにいいながら、ショット・ガンを手慣れた手つきで扱って相手を殺すのも、統一性がないといえば無いか。
女:確かに、他の争いの場面では、銃を使っていないけど、カミソリやハンマーを使うのは、銃よりも気持ちが悪いわよ。
男:血が流れるシーンなどでは実に凶暴でグロテスクな感じが出すぎだね。
  これでは、、R15+の指定を受けるのは仕方がない。
女:後半では、話の展開で雑な感じが多いのよね。
  ドライバーが愛用しているのは、背中に巨大なサソリの刺繍がしてあるジャンパーかもしれないけど、返り血がついたままそれを着て街中を歩いたり、人が一杯いる中華レストランに行くのは、かなり不自然よね。

男:それと、ドライバーがスタントマンをした時のマスクをかぶって、ギャングのいるレストランを覗くシーンもつながりがわからない。
女:タダひとつ、ドライバーとアイリーンが一緒に乗り込むエレベーターで殺し屋と出会うシーンはハラハラ感があったわ。
男:キスをしながら、殺し屋をやっつけるとは、「クールだぜ」か。
女:車の助手席に乗っていて、運転に集中する男性の横顔に魅かれるってことはあるわね。
男:それは、私も昔、よく言われた言葉だね。
女:そんな、ありもしないことは、冗談でも言わないでよ!
男:私にだって、きみの知らない過去があるのに...
女:無理して、青春の思い出を創作してはだめよ。
男:本当なんだけど...
女:声が小さいわよ!

可愛いキャリー・マリガンが出ている;「17歳の肖像」「わたしを離さないで」

     僕達急行   A列車で行こう 

あらすじ: 共に鉄道が大好きな、東京の大手不動産会社:のぞみ地所に勤める小町圭(こまちけい:松山ケンイチ)と蒲田の小さなコダマ鉄工所の跡継ぎの小玉健太(瑛太)は、たまたま乗り合わせた列車が縁で知り合いになる。小町が借りていたアパートが取り壊されるので、健太は、工場の側にある寮の一部屋を小町に貸すなどして、鉄道を巡る二人の行動は一緒になり友情が深まって行った。鉄道おたくの二人は、恋愛にも挑戦するが、共に最後は振られていた。会社勤めながらもマイペースな小町は福岡に転勤となり、バブル崩壊で残された不良物件の後始末をさせられる。しかし、休みの日には、東京から健太を呼んで、二人は九州の鉄道を乗り回わしていた。そんな時、福岡支社で以前から懸案となっていたソニック・フーズの新工場建設用地買収の話に展開があり、小町が担当になるが、ソニック・フーズの社長はかなりの頑固者。どうする、小町。。。

オタクの話に仕事と恋を絡め、一般の受けまで狙うとは、無理だった!

 監督と脚本は、この作品が最後の映画となった森田芳光。

 森田芳光監督作品としては、家庭内での食事シーンなら家族が向かい合って食事をするのが当たり前を、長いテーブルで家族が横一列になって食べ合うあのシーンとやや暴力的な、家庭教師には不似合いな松田優作の不思議なセリフ回しで強烈な印象を残している「家族ゲーム」があるが、森田芳光監督は、この映画「僕達急行」を撮り終えた、2011年12月20日に61歳で亡くなった。合掌。

 それは、さておき、本論に戻ると、松山ケンイチと瑛太以外の主な出演者としては、小町の恋人役の貫地谷しほり。キャバレー通いが大好きなコダマ鉄工所社長役で笹野高史。その笹野を好きだった同級生役で伊東ゆかり。
ソニック・フーズ社長でこれまた鉄道おたくの役でピエール瀧。のぞみ地所の社長には何故か大会社の社長らしからぬ松坂慶子。その会社の専務で宴会好きの西岡徳馬。九州のサッカー好きな地主に伊武雅刀という出演者たち。

 作品の狙いとしては、鉄道おたくを通じて、笑いをとる気もあったようで、伊東ゆかりが演じる「小指の思い出」のシーンは、私としては「クスッ」とした笑いもあったが、他の観客の多くは、この「小指の思い出」の歌を知らなかったようで、場内での反応はなかった。

 それにしても、脚本が以前あったどこかの映画を思い出させて後味が悪い。
鉄道おたくが、会社名を隠し趣味を介して意気投合した相手の人が、後で自分の仕事の展開に好都合となり、目出度し、目出度しって話は、どこかでよく使われた話ではありませんか?
そう、「釣りバカ」シリーズで、建設会社勤めを気にしないマイペースの浜ちゃんが、釣りを通じて知った人が仕事につながり、うまくいくってあの手です。
趣味を釣りから鉄道に置き換えただけでは、面白くない出来栄えで、釣りバカの愛妻家の浜ちゃんと比べて、まだ若い松山ケンイチと瑛太を出すなら、少しばかり、苦い恋も彩として入れましたでは、展開として平凡であった。

 また、配役のミスキャストもある。
松坂慶子が大手不動産会社の社長で、接待の席で踊る設定を始めとしてこの調子では、社長として全体に軽すぎる。
比較される釣りバカ・シリーズなら同じ社長役の三国連太郎の立場であるが、三国ほどの威厳がでていない。
いくらなんでも、かなり大手の不動産会社となれば、それなりのセリフ回しと演技が欲しい。

 そして、同じ会社で社長をよいしょする役の西岡徳馬に至っては、西岡の顔は笑っているが、まったく、役にあっていないので、観てる方は痛々しくて笑えない。

 さらに、松山ケンイチと瑛太の男の友情の関係が、どうも瑛太が、いつもシャツの一番上のボタンをしっかり留めていたり、両足の膝をそろえていたりで、かなりホモっぽく見えて仕方がなかったのも「僕達」が「ホモだち」で嫌だった。

 他の場面としては、会社の黒人ガードマンが侵入者をつかみ出すシーンとか、見合いの場所にボールが転がるとか、手ぶらでランニングをしていた伊武雅刀が急にコーヒーを飲めるとか、関連が不明なシーンが多いのも良くない。ここらは、編集をする際に手抜かりがあったようだ。

 森田監督としてこの映画での見せ場は「ゆで卵と焼き鳥」を一緒に食べるシーンかな?
ここのユニークさは、大いに笑えた。
それと、サッカーのユニフォームを着てランニング中の伊武雅刀が、横蹴りを入れるシーンもちょっとばかり笑える。

 余談ながら、サブタイトルの有名なジャズのスタンダードの「A列車で行こう」の曲も一回バックで流れていますし、奇遇ながら、下の「ドラゴン・タトゥーの女」でも使われていた「移民の歌」も出てきます。

 森田芳光監督の;「武士の家計簿」「椿三十郎」

     マーガレット・サッチャー   鉄の女の涙 

あらすじ: 元イギリス首相で「鉄の女」のあだ名があったマーガレット・サッチャー(メリル・ストリープ)もかなり高齢になり認知症の症状も少し出てきた。今は亡くなった愛する夫:デニス(ジム・ブロードベント)の服などを見るたびに二人が出会った若き頃を思い出す。雑貨商の娘として生まれ成長したマーガレットは、市長だった父親の影響を受け、ハーバード大学を卒業後、女性の地位の向上を目指し下院議員に立候補したが落選。その時に優しく慰めてくれたのがデニスで、それを機に結婚をし、その後マーガレットも議員に無事当選し、双子の子供も出来た。あまりにもふがいない保守党の男性たちを刺激する軽い気持ちで党首選に立候補したら、党首になり、総選挙でついにイギリスで最初の女性首相になった。首相となったサッチャーがとった政策は、低迷が続くイギリス経済を立て直すために、巨大化した国有企業の民営化や労働組合に対する介入であった。サッチャーの任期の中で最大の出来事は、南米のアルゼンチン沖にあるイギリス領のフォークランド諸島がアルゼンチン軍に占領されたときに、戦争をしり込みする男性の閣僚に檄を飛ばし、フォークランド諸島を取り戻したことだった。敵対するIRAの爆弾テロにもひるまず、欧州連合にも懐疑的であったが、10年続いた政権も終わる。。。

メリルがサッチャーを演じるが、それがメリル個人になる!

 監督は、朗らかなABBAの歌を交えた映画「マンマ・ミーア」でもメリル・ストリープと一緒だった、フィルダ・ロイド。

 映画の出だしは、メリル・ストリープが演じる、歳老いた元イギリスの首相:マーガレット・サッチャーが、彼女の最愛の理解者であった、今は亡き夫:デニスの亡霊に語りかけることから始まるわけだけど、ここでの老けのメイクアップとメリルの演技にすぐに引き込まれる。

 私もたびたび、ニュースでみたことのある実物のサッチャー首相の特徴を見事にとらえていて、まったく、違和感がなく物語に入っていける。

 男性中心のイギリス議会での初めての女性首相としての活躍や、国内で抱えている経済や労働問題への対応の仕方。また、フォークランド紛争などは公式の動きなので、特に目新しいことではないのだけど、一国を率いる本当のリーダーの立場としては、こうあるべきだと観せるメリル・ストリープの圧倒的な演技力の凄さには、もう言葉がでない。

 威厳と説得力をもって話されるセリフの抑揚。不甲斐ない男性閣僚を厳しくしかる言い回し方。そして、アップされる赤い靴の中と、これは、確かにメリル・ストリープの演技の世界に嵌ってしまった。

 そう、最初は、メリル・ストリープがサッチャーを演じるのだけど、途中から、サッチャーは居なくなり、サッチャーを乗っ取ったメリル・ストリープの存在がドンドン大きくなって行く。
作り物ではあるとわかっていても、いつの間にか、まるでメリル・ストリープの本物のような世界ができていく。
本当に、メリル・ストリープの演技は素晴らしい!

 外では「鉄の女」として知られるマーガレットを、家庭において優しく見守り・支えてくれた夫:デニスを演じたジム・ブロードベントの控えめな演技も見逃せない。

 ユル・ブリンナーが出ていた「王様と私」の主題歌「シャル・ウィ・ダンス?」の使われ方も印象に残る作品でした。

イギリスの話なら;「英国王のスピーチ」
            「クイーン」

     ヒューゴの不思議な発明   -3D版- 

あらすじ: 1930年頃のフランスはパリ。ヒューゴ・カブレ少年(エイサ・バターフィールド)は、博物館に勤め機械いじりが好きだった父(ジュード・ロー)を火災で亡くし、飲んだくれの叔父に引き取られパリの駅舎に隠れ住み、叔父に代わって駅にあるいろいろな時計に油を差したり修理をしていた。そんなヒューゴの楽しみは、父親が修理していた複雑な機械人形をなんとか完成させることだった。しかし、修理に必要な部品を盗んでいたおもちゃ屋の偏屈な主人:パパ・ジョルジュ(ベン・キングスレー)に見つかり、罰としてその店でただ働きをさせられることになり、パパ・ジョルジュの養子のイザベル(クロエ・グレース・モレッツ)と親しくなる。どうにか機械人形の修理が終わり、イザベルが身に着けていたハートの形をした鍵を入れると、動き出した機械人形は、月面にロケットが突き刺さる絵を描いた。それは、ある映画の1シーンだった。どうして、イザベルが機械人形の鍵を持っていたのか? 映画はパパ・ジョルジュとどんな関係があるのか? 謎に満ちたパパ・ジョルジュの過去が明らかになる。。。

監督の余りにも個人的なオマージュでは、ついていけない!

 監督は、マーティン・スコセッシだ。
日本でのタイトルは「ヒューゴの不思議な発明」とあるが、原題は「Hugo(ヒューゴ)」とだけあるように、別にヒューゴ少年は新しい発明はしない。
機械人形の修理を完成するだけです。

 まず、この映画を観るには、前もって予備知識が必要となる。
そこで、チラシによると、このパパ・ジョルジュというフランス人は実在の人で、フルネームは、ジョルジュ・メリエスといい、元々はマジシャンで、映画が発明された初期の映画界において、月世界をロケットで探検をする映画や機関車が猛スピードで画面から飛び出るような奇抜なSFのような作品があって、監督のマーティン・スコセッシが大変に気に入って映画化したとのことだ。

 今回は、通常の映画代のほかにプラス¥300-を払って3D版で観ました。もう、3Dメガネは以前から買ってあるので、他の¥100-はかかりません。

 映画界で暮らしているマーティン・スコセッシ監督にとっては、偉大な先輩であるフランスのジョルジュ・メリエスを偲んで、映画界の今日の隆盛があるのは、昔にこんなに凄い先人達がいたからです。
そして、彼らのおかげで、現代の私も映画界で監督として気分良く暮らせていますってことを、こんなにお金をかけて映画にして、観客に訴えたいのだろうけど、この出来ではその思いは見事に空振りに終わった。

 よくあるやり方として幼い子供をもってきた設定が、普段着の発想でいただけない。
亡くなった父親を思う男の子。挫折して偏屈になった老人が、素直な子供と接することによって、心を開くというのでは、映画を見慣れている大人の観客はもう途中で、たびたび、あくびがでる話だ。

  足が不自由で、ヒューゴを追っている鉄道公安官にしても、その追跡は先が読めるため、駅の中での追いかけっこにしても単に子供のお客を喜ばせる程度の出来で、結局、その鉄道公安官も、元孤児でいい奴でありましたでは、退屈さにわをかける。

 折角駅という多くの人々の交差する場所を中心にしているのに、花屋の娘や、犬を連れている小母さん、図書館の職員も描き方が不十分である。
この描き方では、何のために出ているのか分からず、これでは、その他大勢の通行人と変わらない。

 また、これだけ精巧に入り組んでいる機械人形も、直したら、1枚の絵を描いたら終わりでは、面白くない。
ここも、これだけ精巧な人形なら、亡くなった父親との関係においても、もっと活躍させて欲しい。

 子役のセリフが多いのも退屈さの一因だった。

 マーティン・スコセッシ監督が、偉大と感じているジョルジュ・メリエスを偲ぶなら、チラシで前もっての知識がなくても、ジョルジュ・メリエスの映画制作過程で今日のSF的な技法をいかに苦労して作り上げたのかを見せなければだめだ。
確かに昔の映画つくりを再現しても、月面のセット作りの苦労や、フィルムを繋ぎ合わせる編集作業の面倒さが描かれていないために、これでは、製作の苦労が伝わってこないから、ジョルジュ・メリエスの偉大さも脳裏に焼き付けられなくて、ぼんやりと浮いた状態だ。

 マーティン・スコセッシ監督の狙いが、自分の世界だけに止まり、中途半端になっていた。

 でも、この映画の立体感は、「アバター」並みに良く出ています。
煙や雪など、細かな点で素晴らしい立体感でした。でも、目前に迫る公安官の鼻の高さや、犬の顔など、ここまで、やる必要があるのかと思えるほどです。

マーティン・スコセッシ監督の:「シャッター・アイランド」「ディパーテッド」

     戦火の馬  

あらすじ: 時は、第1次世界大戦が始まる前のイギリスは北方の荒れ果てた土地しかない片田舎。貧しい農家であったが、アルバート少年(ジェレミー・アーヴァイン)は父親(ピーター・ミュラン)が競売で買った、畑を耕すには不似合いのサラブレッドの子馬をジョーイと名づけて、家族のように可愛がり調教した。しかし、相次ぐ不作で、年貢も払えなくなりジョーイはイギリス軍に売られ、フランスの戦地に送られる。前線でイギリスの騎馬隊がドイツ軍に負けたため、ジョーイはドイツ軍に引き取られ今度はドイツ軍の荷車を引っ張ることになるが、ジョーイにとっては、イギリス軍かドイツ軍かは関係がなかった。一方、アルバートはジョーイに会いたくて、まだ若年だったが、軍隊に入りフランスに向かう。激戦が続く戦火の下、多くの軍馬が犠牲となる中、傷つきながら何も言わずにジョーイは役目を果たしていたが、ドイツ軍とイギリス軍が対峙する鉄条網が張り巡らされた最前線でついに。。。

女:いい話だけど、出来すぎているわね!

男:監督は、あのスティーヴン・スピルバーグで、かなり力をいれてやっている。
女:話としては、最初の馬のオークションから始まり、それが、最後のオークションにつながる点といい、布石もチャンと活きているわね。
男:今は落ちぶれた感じになったアルバートの父親が、息子には何も話していないけど、昔は戦場で武勲をたてていたというリボンも最後まで統一した扱いだね。
女:そして、流石にスピルバーグ監督と思わせるのは、戦争のシーンね。
  最近の映画には珍しく、多くの人や馬だけでなくセットも贅沢に使用したわ。

男:何も語ることのできない馬の眼を通じて、人間同士が闘うことの愚かさをいいたかったんだね。
女:両親を亡くして、おじいちゃんと二人で暮らしている病気の女の子は本当に可愛かった。
男:ドイツ軍の脱走兵が射殺される悲惨さを、この女の子の登場でカバーしていた。
  このあたりのフォローはうまい。
女:でも、イギリス軍にしてもドイツ軍にしても、みんな馬が大好きでは、どうも物足りないのよね。
男:砲弾が飛び散る物凄い戦火をかいくぐって生き延びる馬では、単に奇跡ではなくて、これでは、人間ならシルベスタ・スタローンが演じる「ランボー」と同じで、何があっても弾の方から避けてくれている。
女:そうね。本当は最高のシーンとなるべきところの、ジョーイが鉄条網に絡むシーンもかなり不満な演出ね。
  あれだけ杭にぶつかり、鉄条網に絡まれてもまだ生きていて、さらに、さっきまで互いに悲惨な殺し合いをしていた敵味方が急に馬を助け合いましょうというのでは、どうしても間延びしているわ。

男:映画としては作り話でありながら、そこには、「ウン、そうだ!」と思わせる流れが必要なのに、「それは、ないだろう!」って逆の方向に持っていったってことか。
女:眼が見えなくなったアルバートが殺されそうになるジョーイに気がつくのも、美しすぎる設定ね。
   ここまでくると、もう馬は殺されないことは分かってくるのに、それを引き延ばしているだけよ。

男:スピルバーグも歳をとり、「人間の悪の部分」に対して主張が弱くなって来たようだね。
女:映画製作のテクニックでは、確かにスピルバーグって感じで、そつがないけど、そこから先にある訴えが、ピンとこないのよ。
男:そこらが、アメリカでも「アカデミー賞」を獲れなかった原因かもね。
女:商業主義のアメリカの映画界で「アカデミー賞」を貰うことと、私の評価とは別だけど、この作品の出来に対しては、納得できるわ。
男:それなら、アカデミー作品賞を獲った「アーティスト」に対するきみの評価が、楽しみだ。
女:それは、封切りされてからのお話だけど、本当に馬の眼って可愛くて癒されるわね。
男:そういえば、「あなたの瞳を見てると、癒される」って言葉は、ぼくが若い頃きみから言われた言葉だよ。
女:そうね、「あなたの瞳も可愛かった」。
男:「可愛かった」ってどうして過去形なの?!
女:鏡を見ればわかるでしょう!
男:それは、きみもおなじだろうに
女:何かいった
男:いや、何も...

スピルバーグの退屈な;「カウボーイ&エイリアン」

     ものすごくうるさくて ありえないほど近い  

あらすじ: ニューヨークに母親のリンダ(サンドラ・ブロック)と二人で住む9歳の少年:オスカー(トーマス・ホーン)の父親(トム・ハンクス)は、2年前の9月11日に世界貿易センター・ビルにいて同時多発テロの犠牲となった。父親が大好きで、調査探検ゲームをしたり言葉遊びをした思い出が強く残るオスカーにとって、遺体も見つからないまま葬儀をするような状態では、未だに父親の死と決別できず、留守番電話に録音された9月11日の父親の言葉を聞いている。そんなオスカーの日常は、頭は良いがどこか情緒不安定で、母親のリンダも近くに住んでいる祖母もオスカーを心配していた。そんなある日、父親の部屋で花瓶に入った封筒を見つける。その封筒の表には「ブラック」と書かれ、中にはどこかのロッカーで使われるような鍵が入っていた。この鍵で開けられる場所には亡くなった父親からのメッセージがあると信じたオスカーは、電話帳で「ブラックの名前」の人々をリスト・アップし、祖母の家に間借りしている、耳は聞こえるが話すことの出来なくなった老人(マックス・フォン・シドー)と一緒に週末にはブラック苗字の人々を訪問し、鍵の調査をするが、なかなか進展しなかった。残された鍵は果たして、どこの鍵なのか。。。

9・11の影をこのような子供の姿を借りて描くには、哲学過ぎた?

 監督は、「愛を読むひと」や「めぐりあう時間たち」のスティーブン・ダルドリー。

 「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」とは、何をいっているのか意味が不明で、また、ひらがなが多い長いタイトルだ。
原題は「Extremely Loud And Incredibly Close」でまさに、日本語のタイトルはこの英語の翻訳のままだけど、なんとかうまく短い漢字で表現できなかったのかなと思う。
余談ながら、長いタイトルといえば、1964年ごろ日本でも公開された「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」を、思い出した。

 映画のタイトルの「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」が意味しているのは、映画を観ているうちに、それが家族であることが分かる。
確かに、家庭内での家族の存在は、お互いに「ものすごくうるさいし」またいつもべったりと傍にいてこんな関係は「ありえないほど近い」。

 チラシで名前があがっている主役は、アカデミー賞を獲っている、両親を演じたトム・ハンクスとサンドラ・ブロックのような感じだが、本当の主役は子供のトーマス・ホーンだった。

 この9歳に設定されている、父親が大好きだった男の子が、ドイツから来て祖母の家にいる言葉を話せなくなった、わけありのおかしな老人と一緒に、ニューヨーク中の多くの「ブラック」の苗字の人を訪ねて、鍵穴を探すことが中心になる。

 この老人がなぜドイツに居たときにショックを受けて言葉をしゃべれなくなったのかは、この映画のなかでは、簡単に述べられているが、9・11テロによるアメリカでの被害者の気持ちは、第二次世界大戦でのアメリカ空軍によるドイツや日本を含めて大量の爆弾投下が多くの罪のない人々を無差別に殺戮し、残された家族の胸に深い傷跡をいまもおわせていることと同じであることも重要なポイントだ。

 だけど、このアメリカ製の映画では、自分たちが受けた被害だけの方に比重があって、どうして、テロがアメリカで起きなければならなかったのかの原因の追及が軽い扱いになっているのは、大いに不満だ。

 それにしても、子役の設定が、余りにも「大人の考えた子供」でありすぎる。
遺体のない葬式を無意味だと言わせたり、父親からの電話が怖くて出られなかったとは、通常の子供の思考回路なら、電話の向こうから呼びかける父親には素直に答える筈だ。

 私が躾ける子供には、癇癪を起して物を壊すことは許さない。
そして、母親に向かって、父親の代わりに死ねばいいなんて最低な言葉は、口が裂けても言わせない。

 このあたりの共感できない箇所はあるが、行動をすることに少し不安なオスカーに自信を与えるタンバリンを持たせたり、ブランコの裏側に父親のメモがあったりと、細かな点まで手を抜かない脚本はいい。
訪れる「ブラック姓の人々」も離婚のトラブルを抱えていたり、優しくハグをしてくれたりで、多くの人々に会うことによって、オスカーが急激に成長したことが分かる。

 セリフのないマックス・フォン・シドーの子供を暖かく見守る素晴らしい表現や、息子を好き勝手にさせていたと思っていたら、そこは母親。
ちゃんと、先回りをしていたとは憎い話だ。

 子供にしては、ここまではやれないと思える部分もあるが、全体としては、よくできている。

スティーブン・ダルドリーの;「愛を読むひと」
トム・ハンクスの;「天使と悪魔」
アメリカ空軍の無差別殺戮なら;
「明日への遺言」

     ドラゴン・タトゥーの女  

あらすじ: スウェーデンの月刊経済誌の記者:ミカエル・ブルムクヴィスト(ダニエル・クレイグ)は、大物実業家の不正を暴く記事を書いたが、逆に相手側から名誉毀損で訴えられ、裁判で負けてしまい、当分謹慎することになる。そんな彼の元に、以前はスウェーデンの経済界を牛耳るほどだった大財閥の元会長:ヘンリック・ヴァンゲル(クリストファー・プラマー)から、40年前に殺されたとされたが、未だに遺体が見つかっていない当時16歳だった兄の孫娘:ハリエットの調査をしてくれれば、今回ミカエルが名誉毀損で負けた大物実業家に勝てる証拠をくれるという約束をし、ヴァンゲル一族しか住んでいない孤島で調査を始める。しかし、40年前の調査をするには、ミカエル一人では、力が足りず、助手をつけてもらうことになった。助手としてやってきたリスベット・サランデル(ルーニー・マーラ)は、調査の感とパソコンの能力はハッカー並で優秀であったが、顔にはピアスをし、痩せていて、どこか暗い過去を秘め、左の肩の付近には「竜(ドラゴン)の刺青(タトゥー)」があった。ハリエットが残した日記帳から、40年に起きた複数の猟奇的な殺人事件が聖書に関係していることをつかんだミカエルとリスベットの間には調査を通じて、いつの間にか仕事の関係以上の気持ちが生まれてきた。他人には話すことの出来ない過去があったハリエットと同じような過去を持つリスベット。しかし、殺人犯がまた動き出し、ついにミカエルが捕まる。。。

ミステリーとして観るのではなく、ある不幸な乙女の話として観ると面白い!

 監督は、「ソーシャル・ネットワーク」で好評だった、デヴィッド・フィンチャーだ。
元になっているのは、2005年にスウェーデンで発売された本があり、映画化も2年前にぐらいに、スウェーデン製がある。
そのスウェーデン製映画の本編は観ていないが、予告編はかなり変わった内容で覚えており、また今回の予告編を観たときに「あれっ、リバイバル上映か」と思っていたら、なんとハリウッドでデヴィッド・フィンチャーがリメイクしたのだった。

 原作本も単行本で上下2巻が出ているが、本屋でチラッと立ち読みをすると、これがかなりの長編で、そこで映画もまた158分と2時間半を超える大作となっている。

 今回のチラシでは「誰がハリエットを殺した?」の文句があり、ミステリーとして売り込んでいるが、キリスト教の聖書に絡んだり、第2次世界大戦でのナチスに傾倒した話もありで、あちらこちらに飛んでいて、謎解きは観ていても分からない部分が多くて面倒であり、また、良くある映画の後半で、ドタバタと急展開して終わってしまい、この出来では、ミステリーとしては全く面白くない。

 大体、「殺されたようだけど、遺体が見つからない」のキーワードで、賢明な観客は、これは、ハリエットはどこかで生きているなと想像ができる。

 大富豪の一族に起きた秘められた過去を暴いていく訳だけど、この家系が実に複雑で、映画の中でもミカエルが家系図を壁に貼って示してくれているが、私には慣れないスウェーデンの名前が多く出てきて、観終わっても未だに一族の繋がりがよく分からないつくりだった。
これでは、どうして猟奇的に連続殺人をしたのか、レイプがどこまで、ハリエットに暗い影をもたらしたのか、追求できていない。

 といいながら、これを、「ドラゴン・タトゥー」をしたリスベットだけを中心に観ると、彼女の生きてきた過去と哀しさも含めて良く出来ている。

 パソコンやバイクなど興味をもった物にはのめり込めるけど、異性といえば、暴力と権力でセックスを強制する憎悪の対象でしかなかった人生で出会ったミカエルという正にキリストの聖徒のような存在。

 しかし、命を救ってあげたミカエルであっても、結局彼女の思いは叶わず、気分ウキウキでプレゼントを用意しても、ゴミ箱に捨てなければならなかったラストの哀しさは、これからの、ルーニー・マーラの活躍を大いに期待させる出来栄えだった。

 上映時間が長いけど、冒頭のレッド・ツエッペリンの「移民の歌」で始まるタイトル・バックもなかなか印象的な出来で、他に映画の中で使用されるエンヤの曲など、映像としての完成度は、かなり好印象だ。でも、ミステリー映画とするなら別の評価になる。

デヴィッド・フィンチャーの監督し、ルーニー・マーラもちょっと出ている:「ソーシャル・ネットワーク」
謎解きで同じように失敗している、下の;「麒麟の翼」

     麒麟の翼  

あらすじ: 東京は中央区にある日本橋の上。日本の道路元標があるその日本橋に飾られている翼のある麒麟像の下で、練馬区に住む会社員:青柳武明(中井貴一)が夜の9時ごろ腹をナイフで刺されて殺されているのを、パトロール中の警官が見つけた。地元の刑事:加賀恭一郎(阿部寛)と警視庁からきた松宮脩平(溝端淳平)も捜査陣に加わり、犯人捜しが開始される。容疑者として上がったのは犯行時刻に現場近くで青柳のカバンを持っていて、警官の不審尋問中に逃げてトラックと衝突し意識不明の重体になっている元は青柳の会社で派遣として働いていたが今は無職の青年:八島冬樹(三浦貴大)だった。しかし、八島の恋人:中原香織(新垣結衣)の話では、八島が犯行におよぶ動機は薄い。なぜ、青柳は、自宅の練馬とはかなり離れた人形町にたびたび来ていたのか。また、どうして、腹を刺されてから「麒麟の翼像」まで行かなければならなかったのか。そこには、父親の息子に対する隠された愛情が秘められていた。。。

謎解きにしては、設定が甘く、家族の愛情を描くには、まだまだ!

 原作は、東野圭吾の同じタイトルの本から。それを、「ハナミズキ」や「今、会いにゆきます」の土井裕泰が、「ハナミズキ」で使った新垣結衣も出して監督している。

 原作を読んでいないが、映画の出来上がりとしては取り上げた内容が多すぎて、謎解きの楽しみがなくなっている。
父親と息子の家庭関係。田舎から出てきた若者たちの恋愛。学校の教師のありかた。企業の労災隠し。また、捜査本部での上司との争い。その上に、加賀と死んだ父親との確執にお節介にからむ看護師など、多くの挿話があって、全体としての纏まりがなくなっている。

 前から言っているように、原作は原作であって、原作に忠実に映画化するなら、本を読めばいいわけで、映画にする必要はない。
脚本家(櫻井武晴)や監督としては、その本から、映像として何を観客に訴えようとするのかを取捨選択し、ある部分は原作にないことも肉付けすることも必要だ。
また、才能の乏しい脚本家や監督が良く使う、肝心の箇所を映像で見せなくて安易な「セリフ」で謎を解く方法を多用しているのも、残念だ。 

 ミステリーの基本として、最初に登場する容疑者は「シロ」であることは、世慣れた観客は知っている。
そこで、物語の前の方で真犯人は誰かの推理の手がかりとなる布石を巧妙に打ってくれていないと、クライマックスのラストで事件が解決しても、観客は満足して席を立てない。

 この描き方では、事件のカギである水泳部の事故が「オヤッ」と思わせてくれないから、加賀のセリフだけで、どんどん事件が解決して感心できない。
それにしても、この謎解きの要だったパソコンのブログを見るという設定が、すごく不自然だ。
父親が息子の部屋にあるスイッチの入ったままのパソコンを覗き見て事件の真相を知ることになっているが、多くの場合、パソコンの画面は使用しないと自動的に画面の表示が消えるように設定されていて、息子がトイレにでもいったというようなこの僅かな偶然をもっとうまく取り上げてくれないために後に続く人形町の七福神巡りが、単に人形町の観光案内映画のようなそら空しいものになっている。

 さらに、殺された青柳の車の中に当初からあった「白い折鶴」が最後に出てくるとは、もう推理映画としては、扱い方が雑というより他はない。
テーマとして、教師が子供を変にかばったことを責めているが、ここも、私としては、同調できない描き方だ。
被害を受けた程度が分からなかったこの描き方では、教師があの時点でとった行為を、このように非難はできない。

 それにしても、日本橋の上を覆う高速道路は、この観光地には相応しくない見苦し光景だ。
オリンピックを控えて川の上しか高速道路が作れなかったのは分かるが、技術が進歩した現在では、早急に高速道路を地下に潜らせて日本橋の上から空が望めるようにして欲しいものです。

 土井裕泰監督と新垣結衣の;「ハナミズキ」
 土井監督の;
「涙そうそう」

 新垣結衣の;「恋空」

 

     J・エドガー  

あらすじ: アメリカはワシントンD.Cにある「アメリカ連邦捜査局(FBI)」ビルの中。FBI長官のジョン・エドガー・フーバー(レオナルド・ディカプリオ)は、彼がつくり育てたFBIと共に過ごして来た48年間の道程を広報担当に語りタイプさせていた。第1次世界大戦が始まろうとしていた頃、フーバーが入った司法省には、FBIの組織もまだなく、共産党員による爆弾テロが横行していた。捜査方法も未熟で、拳銃所持も認められていない状況であったが、フーバーが率いるチームの働きで犯人達を逮捕できた。また、大西洋横断で一躍有名になったリンドバーグの息子が誘拐され、殺された事件では、科学的な捜査方法を採用して、犯人を割り出し死刑にした。それらの働きが認められ、州を跨いで捜査ができるFBIができ、フーバーは29歳で初代長官に任命され、秘書のヘレン(ナオミ・ワッツ)が献身的にフーバー支えていた。凶悪犯罪に立ち向かうFBIが、アメリカ中の犯罪者のファイルを纏めて管理できるなど、徐々に大きな組織になっていくと、歴代の大統領にとってはフーバーの存在が煙たくて、何とか更迭したかったが、女性とのスキャンダルや家族の弱みを握られていては、ケネディ大統領であってもフーバーをFBI長官の椅子から下ろすことは出来なかった。しかし、そんなフーバーも家に帰れば、母親(ジュディ・デンチ)には頭が上がらず、また、FBIで副長官にしたクライド・トルソン(アーミー・ハマー)と公にはできないゲイの関係もあった。創設以来、FBI長官として、8代の大統領のもと思い通りにやってきたフーバーであったが、キング牧師がノーベル平和賞を貰うことは阻止できず、また77歳になり健康状況も芳しくなくなってきた。そして、ついに。。。

女:地味な話では、飽きるわね!

男:監督は、あのクリント・イーストウッドで、主演がレオナルド・ディカプリオだけど、面白くないの?
女:タイトルのJ・エドガーでは、映画を観るまで誰だか分からなかったわよ。
  ここは、日本人としては、FBI長官:フーバーの方がしっくりくるんじゃないの。

男:最近の洋画のタイトルの付け方としてあまり考えていない、実に安易な例の1つかな。
  アメリカ人にとっては、タイトルだけで、J・エドガーといえば、当然にフーバーFBI長官のことで、歴代の大統領にも恐れられ、一目置かれた男ってことになるのかな。
女:そんな歴代の大統領でも手を出せなかった、法の強い番人が裏では、マザー・コンプレックスで、またゲイの趣味があったというのでは、何をクリント・イーストウッド監督はいいたいのか、分からなかったわ
男:その上に、頑固な反共産主義者で、人種差別もしていたとは、クリント・イーストウッドはヒーローの虚像を暴きたかったのかな?
女:でも、FBIは、すぐれた捜査方法を確立して、ギャングや凶悪な犯罪に立ち向かって実績をあげたのは、事実でしょう。
男:そうだね。
  組織を引っ張っていくのは、ある程度、強引な独裁者でないとダメだということもあるし、でもそれが長くなれば、弊害も起こる。
女:そんな、テレビのコメンテイターがよく使う、訳知り顔で無難な、当たり前のことを聞いているんじゃないのよ。
男:ジャー何んだよ。
女:人間なんだから、当然に表もあれば裏もあるわけでしょう。
  その裏の世界は、よっぽど、その人と親交がある人でないと知らないわけよね。
  その曖昧な裏にあるホモやマザコンをここまで描いても、そんなものかって気持ちだけで、観ている私としては、入っていけないわ。

男:そこが、退屈にさせたんだね。
女:また、リンドバーグの子供の誘拐事件や、「撃つな、G-メン」と言ったギャングの話なども取り上げているけど、ここらのFBIがらみの話はアメリカの内情も知らないから、ビンとこなかったのよ。
男:ケネディ大統領と女優のマリリン・モンローのセックス・スキャンダルだけでなく、大統領に関係した盗聴も重要な面だけど、描き方がはっきりしなかったね。
女:ディカプリオは、かなりの老け役に挑戦して、最後の腹がでた死に方は印象的だけど、ここまでは見たくなかったわ。
男:老齢になると、実際、顔には多くのシミが出てくるけど、ここまでメーキャップされると、嫌だね。
  特に、副長官のトルソンの死んだような表情と汚い老け顔は、やりすぎだっだ。
女:死んだで思い出したけど、マザ・コンであったとしても、死んだ母親の服を着るのも、気持ち悪さだけ残るわ。
男:ゲイの世界での「1日1回は食事を共にする」ぐらいのセリフで済ませる程度の表現で良かった。

  でも、きみには、裏の世界はないよね?
女:甘いわね。
  女はみんな、誰にも知られない秘密を持って生きているのよ。

男:えっ、いままで、こんなに一緒に暮らしてきたのに、私の知らないことがあるの?
  それは、何だい。
女:教えないから、秘密じゃないの。
   
馬鹿ね

男:そっ、そんな秘密って...!?

クリント・イーストウッドなら;「ヒア アフター」「インビクタス」 、「グラン・トリノ」
レオナルド・ディカプリオの;「インセプション」「シャッター・アイランド」 

     ロボジー  

あらすじ: 弱小の家電メーカー:木村電器に勤める、やる気のない小林弘樹(濱田岳)、太田浩二(川合正悟)そして長井信也(川島)の三人にワンマン社長(小野武彦)から会社の宣伝のために二足歩行ができるロボットを開発する社命が下され、どうにか、「ロボット・ショー」に出せるまでのロボット「ニュー潮風」を作ったが、テスト中に暴走し窓から落ちて壊れてしまう。そこで、その場しのぎに、ロボットの中に入る体型の若者をオーディションで見つけたが、その彼は生憎金属アレルギーで、やむなく、次にピッタリの73歳のオジイさんの鈴木重光(五十嵐信次郎=ミッキー・カーチス)にニュー潮風の中に入ってもらい、ロボット・ショーに出る。そのロボット・ショーで適当な動きをしていたら、ロボットが好きな女子大生の佐々木葉子(吉高由里子)の上に突然会場の柱が倒れてきたところをニュー潮風が助けたために、マスコミに大きく取り上げられてしまい、ニュー潮風は、各地のイベントに出る羽目になった。正体がバレナイように苦労する小林たちの弱みを握った鈴木は、いい食事やマッサージを要求するが、その費用は会社に請求できない。有名になったニュー潮風だったが、中に人が入っているのではないかとの噂がたち、地元のケーブル・テレビのディレクター:伊丹弥生(田畑智子)も動き出す。ニュー潮風に恋した葉子の気持ちの行方は。また、いつまで、ロボットの正体は隠せるのか。。。

強引な設定だけど、面白いし、ホロットもさせる!

 監督と脚本は、今まで、「ウォーターボーイズ」や「スウィングガールズ」そして「ハッピーフライト」などの異色作で有名になった矢口史靖(やぐちしのぶ)だ。

 私も、介護用のロボットや自転車に乗るロボットを見ていて、もしかして、ロボットの中には「生の人間」が入っているんじゃないのと思っていたけど、矢口監督はその疑問に答えてくれた。
やっぱり、ロボットの中には、人間が入っていたのだ!
しかも、高齢のジジイが!

 チラシを見ていて、主役の俳優の名前がオーディションで選ばれた「新人の五十嵐信次郎」となっているけど、この老人はどこか素人ではないと思っていたら、なんと歌手のミッキー・カーチスの別名ではないか。見たことあるわけだ。

 どうして、高齢の爺さんがロボットの中に入るのかの設定は、強引だといえば強引な話で、また、会社の宣伝用のロボットなら、もっとピカピカの塗装をしているのに、どうして、この汚さとか、おかしな点もあるが、それらは置いといて、実に面白く作ってある。 役者としての五十嵐信次郎は、本当にそこらに一杯いる頑固で世間を知っているタフな老人を演じているし、認知症を逆手にとって、真実を話しても、ボケにしかとらえられないのも面白い。 大体、笑顔がたまらなく可愛い吉高由里子にありえない話のロボット好きを演じさせ、振られたら目の下にクマをつくってくだをまかせるなんて、この細かな演出は、もう最高に笑わしてくれる。
 そして、やる気のなかったロボット開発の凸凹3人組に開発意欲を徐々に目覚めさせたり、鈴木家の孫との交流まで入れ、笑いだけでなく人情にも触れるとは、さすが、矢口監督ってところだ。 最後のロボットの正体がばれるシーンをどうもっていくのかが、心配だったが、これも最初のシーンを踏み台にして、少しばかりここまでうまくできるかという気持ちのひっかりはあるものの、八方をハッピー・エンドにしたのも好感のもてる終わり方だった。 終わりといえば、エンド・ロールで今度は歌手:ミッキー・カーチスが、1983年頃アメリカで流行ったステックスの「MR.ROBOT」を綺麗に歌いあげています。

矢口監督なら;「ハッピーフライト」「スウィングガールズ」
CGのロボットなら;「リアル・スティール」

     永遠の僕たち  

あらすじ: 母親が賞を貰うとのことで、両親と共に式場に行く途中で交通事故にあい、その事故で両親は亡くなり、自分も重態のまま昏睡状態を続け、死の淵をさ迷った少年イーノック(ヘンリー・ホッパー)だったが、今は回復して叔母に引き取られて暮らしていた。しかし、両親を亡くした心の痛手は大きく彼の心に残り、学校でも問題を起こし、彼の安らぎは見知らぬ人の葬式に参列し、様々な死を見ることだった。そんな偏屈なイーノックだったが彼の唯一の友達は、臨死体験で、彼にだけ見えるようになった日本の特攻隊の幽霊のヒロシ(加瀬亮)だった。ヒロシとイーノックはゲームをしたり、切腹の話で盛り上がっていたが、イーノックがいつものように出かけた葬式で、葬儀屋に関係者でないことがバレテしまい、窮地に陥っていたときに助けてくれたのが、アナベル(ミア・ワシコウスカ)だった。アナベルは、当初は病院に勤めていると言っていたが、本当は、余命3ヶ月の回復できない脳腫瘍の患者であった。死を共通に持っているイーノックとアナベルは、徐々に恋人の関係になるが、死は避けられない。。。

女:恋愛関係になってからが、面白くないわね!

女:1月になって映画の話が出るまでかなり時間がたつけど、どうしたの?
男:私が、マンション管理士として、別途運営している、「目指せ! マンション管理士・管理業務主任者」のサイトで、国家試験のマンション管理士と管理業務主任者の試験問題の解説をしているのだけど、それが、毎年12月から新年にかけてやっているので、こちらの「映画・演劇評論」までやる時間がなかったんだよ。
 でも、それも、一応終わったので、また、こちらに戻ってきた。
女:本当に、勝手に忙しい人ね。
  じゃあ、映画の本論に入りましょうか。


男:監督は、ガス・ヴアン・サントで、イーノックを演じているのは、亡くなったデニス・ホッパーの息子のヘンリー・ホッパーだね。
女:そんな、親子の情報は、映画の出来とは、無関係よね。
男:予告編では、加瀬亮が特攻隊の格好をして出ていたので、どういう扱いかと思ったけど、これは、良かったんじゃないの?
女:臨死体験をしたイーノックだけに特攻隊の幽霊の姿が見えて、二人で話をしたり、機関車に石を投げたりして遊ぶのは、いい設定だったわ。
男:両親と一緒に死ねなかった自分を悔やんで、見知らぬ家族の葬儀に参列して気持ちを取り直していたんだね。
女:この設定は、オリジナリティがあるので高ポイントね。
  アナベルが、病院勤めの人ではなくて、本当は余命3ヶ月の患者だったのは、どう?

男:他人の葬式場での出会いとは、突飛な場所だけど、彼女も死を身近に感じていて、葬儀に興味を持っていたんだね。
  そこでイーノックと出会うという、この映画の流れとしては、自然だけど。
女:そのあたりまでは良かったのだけど、恋人の関係になってからの二人の感情の表現がこれまたアメリカ映画なのよね。
男:愛情表現としての、たびたびのキスの嵐と、その先の肉体関係への急な描き方だね。
女:死ぬ前に、セックスも経験しておきたいという気持ちも分からないわけではないけど、こう、キス・シーンばかりを見せられると、残り少ない時間の過ごし方としては、そればかりではないでしょうって気持ちが募り、どうも画面に集中できなくなるのよね。
男:残された命を恋人がどう過ごすかは、どこかの日本映画のように、安っぽいお涙頂戴の作りではなかったけど、結局、そこらによくある、あたり前の話で終わった。
女:その中では、特攻隊の加瀬が、死の直前に書いた最後まで出すことの出来なかった恋人宛の手紙の方が胸にジーンときたわ。
男」加瀬亮は、いい役を貰っていたね。また、なかなかの役者だ。
  出る映画によって、感じを見事に変えているのは、そう簡単にはできないよ。
女:監督のガス・ヴアン・サントでは、人間にとって、最大の関心事の「生と死」を扱うには、まだ、まだ無理ってことね。
男:そう、このようなアメリカ的な表現では、ミア・ワシコウスカのショート・カットの髪型と可愛らしさをもってでも、かなり物足りないってことだね。
女:貴方は、どうしても若い女優の容姿の方に眼がいくのね
男:いっ、いやっ、そんなことはないよ。
  映画は、ストーリーが重要だよ
女:どうして、そこで、声が小さくなるのっ!

加瀬亮の;「それでもボクはやっていない」


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