2011年の映画・演劇 評論

     ミッション:インポッシブル ~ゴースト・プロトコル~   

あらすじ: アメリカのCIAの極秘機関IMFのチームの1つがブダペストで秘密ファイルを手に入れたが、女殺し屋:サビーヌ・モロー(レア・セイドゥ)に奪われてしまう。そこで、秘密組織を追跡するために、ロシアの刑務所に入っていたイーサン・ハント(トム・クルーズ)を脱獄させ、クレムリンに忍び込み秘密組織のファイルを手に入れたが、同じ時に別の謎のグループもクレムリンに忍び込みそのグループがクレムリンを爆破し、アメリカを核で攻撃しようとするカート・ヘンドリクス(ミカエル・ニクヴィスト)にファイルも奪われてしまう。ロシアとの摩擦を恐れたアメリカ政府はイーサン・チームの存在を抹殺する「ゴースト・プロトコル」指令を出した。CIAの支援を失ったイーサンのチームに残された道は、クレムリンを爆破したテロリストの正体を突き止め、核爆弾の発射を止めることしかなかった。イーサンに対して何かを隠している新しくチームに加わったブラント捜査官(ジェレミー・レナー)や女性ながら凄腕のカーター捜査官(ポーラ・バットン)たちと共に、テロリストが闇の取引をしているドバイの超高層ビル「ブルジュ・ハリファ」向かうが、そこには、まだ「遂行不可能な任務(ミッション・インポッシブル)」が待っていた。。。

ハイテクが全てを解決するのでは、もう「インポッシブル(不可能)」ではなく、ハラハラもしない!

 チラシや予告編では、クレムリンの爆破とドバイの160階の超高層ビル「ブルジュ・ハリファ」から飛び降りるシーンが印象的で観たが、この評論を書くにあたって、あらすじを書こうと思っても、何が何と結びついているのか、記憶をよみ帰らせようとしたが、多くの部分がよく分からず、苦労した。

 本当に荒い筋書きだ、また、今まで他の映画であったような、非常な女殺し屋や過去を悔やんでいるブラント捜査官、また最後には死んだことになっているイーサンの妻などを登場させているが、これらの人間関係の複雑さは、もっと整理して見せなければいけない。

 それにしても、忍び込んだクレムリンの廊下での特殊スクリーンを使った偽装はともかく、超高層ビル「ブルジュ・ハリファ」の風が強いと思われるビルの外側の窓ガラスを軍手に吸着装置をつけただけの手袋でよじ登るとは、それも片手でとは! いくら、映画にしてもひどいアイディアだ。
 また、この超高層ビルの窓ガラスが、都合のいい場面では簡単に割れるし、都合のいい時に風が吹いて、女殺し屋を落とすとは、余りにも、おかしすぎる設定だった。
この映画での最大の見せ場であるだけに、もっと現実性も取り入れたシーンであって欲しかった。

 また、小型ながら強力な磁場発生機を使って人間を浮き上がらせるのは、以前のこの映画のアイデアの焼き直しだし、これでは、もう、映画を楽しむというよりは、金をかけているハリウッド映画が単に海外の有名地をロケして、話題を提供しているだけで終わる。

 突然の砂嵐も、よくあるカーチェイスも時間稼ぎに加えましたという程度で、上下する駐車タワーでの格闘もミサイル爆発のカウントダウンも全て物足りない。
あらゆる困難も最後には、スーパーマンばりに乗り越えて、めでたしめでたしでは、他の「007」のようなアクション物と同じであり、それなら、もう不可能なミッションを、必死の計画で遂行してきた「ミッション・インポッシブル」の世界ではない。

 別の階での相手を騙すシーンなど、こんなものでは入れ替わりの誤魔かしができると思えない。公開日が決まっていたために、編集での時間がなかったのか?

前のミッション・インポッシブルは;「M:i:Ⅲ」
ジェレミー・レナーが出ていた;「ハート・ロッカー」

     リアル・スティール   

あらすじ: 2020年、ボクシングは、生身の人間同士が闘う時代からエスカレートして、ロボットが壊れるまで徹底的に闘う時代となっていた。若い頃は、ボクサーとして活躍していたが、現在は、格闘ロボットを使って小銭を得ているチャーリー・ケントン(ヒュー・ジャックマン)には、別れた妻と息子がいた。しかし、その妻が亡くなり、11歳の息子:マックス(ダコダ・ゴヨ)と共に生活をする羽目になるが、裕福な妻の親戚がチャーリーに代わって養育を望んでいたので、養育権をお金で譲った。その親戚が旅行に出かける間、息子と共にロボットを使ったボクシングをやるが、養育権を売った金で買ったチャーリーのロボットは、壊され再生用の部品探しに行った廃品置場で、マックスは旧式のロボット「アトム」を拾う。アトムは古いモデルだったが、まねをする機能があり、徐々に格闘の技もマスターし、ついに巨大なボクシング・ロボットのチャンピオン「ゼウス」と闘うことになったが、ゼウスの機能は、アトムよりはるかに優れていた。多くの観客が見守る中、真のチャンピオンはどっちか。。。

漫画的な内容を、よくここまで金をかけ、興奮させるまでにしたものだ!

 チラシでは、父と息子の愛情が中心のような謳い文句を使っているが、中心はロボット。
そこで、原題の「REAL-STEEL(リアル・ステール)」の意味する「真の鉄製品」が分かる。
駄目な父親を、しっかりものの息子が助ける内容となっている。

 ここで登場するロボット達の扱い方が、実に日本を意識したもので、最初に壊されるロボットには、日本語の漢字が一杯書かれているし、後から中心となるロボットの名前がアトムとくれば、あの「鉄腕アトム」が下敷きにあることは分かる。

 また、子供であるマックスだけど、日本のテレビ・ゲームで育っていて、この歳で楽々とロボットの改造ができるのも、まあ、それなりに、許せる設定だ。

 他にも、ゼウスの設計者があまり英語がうまくない東洋人であったりして、西洋人にとっては、なんとなくどこか得体の知れない日本や東洋が持っている、頭の良さと神秘性が映画を通じて醸し出されているのも面白い。
また、このゼウスの女性オーナーもアメリカ人でなく彼女の成金感覚が持つ嫌味さが出ていて笑える。

 ボクシング物なら、あの名作「ロッキー」が当然思い浮かぶ。
話の展開も「ロッキー」と同様に、下積みのボクサーが、苦労しながら各地を転々として、最後はチャンピオンと闘うということで、単に人間をロボットに置き換えただけの話かと思っていたら、このロボットを使ったCGの出来が良くて、ロボット同士の殴り合いながら、ボディ・ブロウやアッパー・カットなど細かな部分まで丁寧に作られていて、ついかなり興奮をさせるから憎い。

 ロボット・ダンスなら本家のマイケル・ジャクソンもびっくりの真の(?)ロボット・ダンスには、つい笑ってしまう。

 チラシにあるような、父と息子の泣ける感動の物語ではなく、かなり楽しめる映画だった。

ヒュー・ジャックマンが出ていたのは;「オーストラリア」

     GOLD ~カミーユとロダン~    -ミュージカル- (シアタークリエ)

あらすじ: 19世紀の終わりの頃。フランスの片田舎に住む、彫刻の好きなクローデル家の長女:カミーユ(新妻聖子)は、その才能を伸ばすべく、パリに向かうが、当時の彫刻界では、いくら才能があっても、女性というだけで、彫刻家への道は閉ざされていた。しかし、既に名声を得ていた、オーギュスト・ロダン(石丸幹二)にその才能を認められ、彼のアトリエの助手となることができた。ロダンのアトリエで、カミーユは、その豊かな才能を発揮し、ロダンの作品にも影響を与え、妻子がいるロダンではあったが、愛人関係ができた。だが、いつまでもロダンの下にいては、自分の作品の発表ができないことに不満をもったカミーユは、フランスを離れて外国で個展を開くことができ、異国での生活が始まる。しかし、カミーユの才能と肉体に未練を持っているロダンが、引き戻しにきて、カミーユもパリに戻るが、パリでのカミーユとロダンの生活は、いつもいがみ合っていて、かみ合わないものだった。カミーユの良き理解者であった父(西岡德馬)も亡くなり、いつしかカミーユの精神が侵され、ついに精神病院に送り込まれる。そんな環境でも、ロダンが影から見守っていた。。。

熱演はしているが、歌と脚本が悪すぎる!

 オリジナルは、アメリカで上演されていたミュージカルを、日本版では森雪之丞が訳詞、白井晃が台本と演出をしている。
カミーユを演じているのは、東宝がミュージカルの歌姫として、これからもドンドン売り出したい新妻聖子だ。

 舞台上には、ロダンの有名な「考える人」や未完の「地獄の門」など、また、カミーユの「分別盛り」や「ワルツ」の彫刻が、多数並ぶアトリエが中心の構成。
途中休憩をはさんだ、2部構成だけど、舞台上の変化は、あまりない。
出演者には、あらすじに出来てきた、新妻聖子・石丸幹二・西岡德馬のほかに、カミーユの母親として、根岸季衣、弟役で伊礼彼方もいる。

 新妻聖子を中心にした舞台は、彼女もそれに応えるべくして必死に歌い演じているが、セリフは当たり前の言葉を並べているし、メロディも主役の新妻のパートとバックのアンサンブルの曲調が同じで、まったくメリハリができていない。
また、衣裳も主役のカミーユもロダンもそして、他のメンバーも、ほとんどが、ほとんどのシーンで作業着のガウンを着て、舞台上を行き来するのでは、これまた、見栄えが悪く退屈だ。
ここは、カミーユが、ロダンとの恋に燃える若い頃と、段々と歳をとっていく、時の変化をもっと衣裳でも表現してほしいところだ。

 それにしても、演出が冗長な流れとなりすぎ。恋愛期間を過ぎた後半のカミーユとロダンは、いつも顔をあわせるといがみあっているシーンが何度も繰り返されていて、ここらは、省略ができる箇所で、一ひねりがない。

 これでは、純情な気持ちでロダンを愛し続けるカミーユを描きかったのか、それとも、彫刻家として、ロダンを利用し成功したかったカミーユなのか、テーマ付けが明らかでなく、観客席の近くで力強く歌う新妻聖子であるが、その気持ちが、舞台の上だけで留まり、観客席にまで下りてこないもどかしさのまま終わった。

 ロダンやカミーユなどの芸術家が持っている、通常の人々には理解できない複雑な愛と憎しみが交じり合った感情を描きかったのであれば、まだまだ、白井晃には、勉強が必要だ。

新妻聖子の舞台なら;「プライド」
石丸幹二と伊礼彼方が出ていた;「エリザベート」

     三銃士 王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船   -2D版-

あらすじ: 17世紀のイタリアのヴェニス。フランスから忍び込んだ三銃士、アラミス(ルーク・エヴァンス)、アトス(マシュー・マクファディン)、ポルトス(レイ・スティーヴンソン)は、ダ・ヴィンチの秘密の宇宙船の設計図を苦労して手に入れたが、イギリスのバッキンガム公爵(オーランド・ブルーム)のスパイ:ミレディ(ミラ・ジョヴォヴィッチ)が現れ、その設計図は、イギリスに持っていかれる。それから、1年後。フランスはパリに戻った三銃士であったが、国王:ルイ13世(フェレディ・フォックス)は若くて、国は、リシュリュー枢機卿(クリストフ・ヴァルツ)が影で治め、今まで国王に尽くしてきた銃士隊も、解散させられていた。そんな事とは知らずに、フランスの片田舎から、昔、父親が銃士隊に所属していたこともあり、銃士隊に入りたくてパリに出てきた血気にはやるダルタニアン(ローガン・ラーマン)は、三銃士とは知らずに、彼らと禁止されている決闘をすることになるが、そこに割り込んできたリシュリュー卿の片腕のロシュフォール隊長達との争いになり、ダルタニアンと三銃士は一緒に逃げる。幸い王妃:アンヌ(ジュノー・テンプル)の機転により犯罪者となることは逃れた。しかし、王妃の存在を快く思っていないリシュリュー卿は、二重スパイのミレディを使って、王が妃に与えた大切なネックレスを盗ませ、イギリスのバッキンガム公爵にわたさせる。王の誕生記念日のパーティには、そのネックレスがないと、妃の貞節が疑われる。ダルタニアンと三銃士は、ネックレスを取り戻すべくロンドンに向かうが、そこには、なんと飛行船が完成していた。果たして、ネックレスは取り戻せるのか。。。

女:予告編では、17世紀にはありえない飛行船がでてきて、ひどい話かと思っていたら、案外面白かったわね!
男:三銃士の原作は、アレクサンドル・ヂュマで、この本は、何度も、映画やNHKの人形劇にもなっているし、最近では帝国劇場での舞台も観たね。
女:予告編では、完全に17世紀のヨーロッパではありえない飛行船が空を飛んでいて、空中戦をはでにやっていたでしょう。
  これは、もうお子様相手の映画かと思っていたら、案外しっかりとした話の展開よね。

男:原作にはないイタリアでの話を加えて、ここで飛行船の設計図を持ち出すとは、それなりに、オリジナリティがある。
女:王様とダルタニアンが同じ世代の若者として、かなり打ち解けた友人的な関係で共に恋愛問題を相談しあうのも、当時の階級社会ではありえないと思うけど、これはこれでもありって感じで、許しちゃうわね。
男:ダルタニアンのパリでの三銃士との出会いや、その後のリシュリュー枢機卿との争や、ネックレスを取り戻しにロンドンに行くという部分は原作どおりだった。
  「みんなは、一人のために! 一人は、みんなのために!」のスローガンも使われている。
女:でも、王妃が噴水のある水場で、陶器の魚を釣っているのも面白かったわわ。
  このあたりの映像化は、独自のアイデアね

男:私が、帝国劇場での感想として述べたように、原作では王妃の侍女で人妻のコンスタヌスとダルタニアンの関係が面白くなかったけど、この映画では、コンスタヌスが面倒な人妻であったことは省略してダルタニアンと単純に恋人同士にしたのですっきりしていていい。
女:そのコンスタヌスを演じているガブリエラ・ワイルドって、若い頃の三田寛子を思い出させるわね。
男:若い頃の三田寛子では、今ではイメージがピンとこないけど、ふっくら感が日本人にも親しみのある顔ってことだね。
女:アクション・シーンも、かなり高い屋根でハラハラさせるチャンバラもあるし、飛行船が互いに撃ちあう戦いなんかもありで、これらは、いい出来よ。
  二重スパイのミレディの役を貰ったミラ・ジョヴォヴィッチは、オーランド・ブルームよりも活躍していたわ。

男:正しく、本でよくある「妖艶な女スパイ」を演じてたね。
  いつも胸を強調している衣裳も含めて、グッドだった。
女:空中から落ちて死んだと思っていたミレディが生きていたってことは...
男:また、また、パート2が作られるって事だろうね。
女:今回は、今まで観た3D映画が立体的でなかったので、2D版で観たけど、2Dで観てもかなり奥行のある映像だったわね。
男:監督のポール・W・S・アンダーソンは、「バイオハザード」を撮っているので、このあたりのアクションでの奥行感や、空中での浮遊感を出すテクニックは持っているようだ。
  衣裳や宮廷なんかのロケも豪華にできているしね。
女:ミラ・ジョヴォヴィッチのスカートが回るスロー・モーションのアクションや、ガブリエラ・ワイルドの親しみのある顔よりも、あなたが熱心に見てたのは、どうも、女性たちの胸元だったような気がするわね!
男:えっ、そッ、それは、この映画の製作意図だから、それでいいんじゃないの?
  原作の「三銃士」から、大きく変わったのだから...
女:まあ、今回そういうことにしておきましょう。
男:ふーっ、良かった。

帝国劇場での;「三銃士」
リシュリュー枢機卿を演じたクリストフ・ヴァルツが良かった;「イングロリアス・バスターズ」

     ステキな金縛り

あらすじ:評判の良い弁護士だった父親(草なぎ剛)を幼い頃に亡くし、自分も弁護士をやっている宝生エミ(深津絵里)だったが、弁護が下手で所属している事務所の所長(阿部寛)から、最後の依頼事件として、殺人事件の弁護をすることになる。この被告(KAN)は、殺人があった時間には、殺人現場から遠く離れた田舎の宿に泊まっていてそこで、落ち武者に体の上に乗られて動くことのできない「金縛り」にあいアリバイがあると主張している。そこで、エミもその宿に行き、落ち武者:更科六兵衛(西田敏行)の存在を突き止め裁判の証人として六兵衛を出廷させるが、落ち武者は幽霊で、一部の特殊な状態にある人たちには見えるが、多くの人には見えない存在だった。六兵衛が法廷で証言しても、裁判長には聞こえず、笛やハーモニカを使ってどうにか、検事(中井貴一)も認め証人として採用される。しかし、真犯人の方も、幽霊を消すために陰陽師(市村正親)を雇う。エミは果たして、裁判に勝てるのか。。。

相変わらず、小芝居の退屈な笑いしかない出来だ!

 監督と脚本は、いつも、映画の公開前には、テレビやラジオなどのマスコミにやたら出て、自分の映画を宣伝しまくるあの三谷幸喜。
以前公開された「ザ・マジックアワー」や「The 有頂天ホテル}でも、この三谷幸喜の宣伝にのってしまい、観たが、それらはみんながっかりしたので、今回は、もう観ないでおこうと思っていたが、暇だったのでつい観てしまった。

 そして、それは、やっぱり、腹の底から笑えない出来上がりの作品だった。

 まず、落ち武者の幽霊を太っている西田敏行にやらせて、ここで、彼のアドリブと演技で笑いをとるという役者におんぶの発想がみえみえで、三谷幸喜の監督としての綿密な脚本のなさが露呈されている。

 大体、400年前の幽霊が、たびたび出現して現代の日本にも通じているという設定なら、もっと画面で説明がなければおかしい。
そして、事件の発端である、双子の姉妹の替え玉殺人も、いくら双子といっても、被告の夫が妻にしては変であると気づかないのは、不都合が過ぎる。

 満足のできる脚本を書けない場合に、よくある設定として、笑いと中途半端な人情を絡める手があるが、これが、その悪い見本だ。
正しく定番の、幼い頃になくった優しかった父親とその父親を偲ぶ娘の人情を持ってきたがる、本当に素人のような作り方をする監督では、映画では通用しない。

 三谷幸喜は舞台の演出家としては、評判が良くて映画界にも進出したようであるが、映画での笑いをつかむまでの成長ができていない。
舞台に足を運ぶ人は、もう行く前に、それなりに笑おうとしてくれる人がきてくれているので、髪の毛や奇抜な陰陽師の出現という安易な小芝居でも笑いが取れるだろうが、映画を観ている人は、舞台を観る人よりも、もっと、もっと多くの作品を観て来ていて、眼が肥えていることを前提にした脚本を練らないと駄目だ。

 また、チョイ役で、唐沢寿明、深田恭子、佐藤浩市、篠原涼子、最後に「勝訴」の看板を持った大泉洋など、多くの俳優が出ているが、これらも主題に対して意味がない。
かえって、話に没頭できなくさせるという短所に気付くべきだ。
チラシや予告編に、何の芝居もしていない有名な俳優をならべて、観客を呼ぼうという羊頭狗肉の宣伝は止めるべき。

 三谷監督個人としての昔の映画に対する思い入れはわかるが、DVDが再生される2時間で、どこかの山奥まで行って慰霊碑を建てるなど、煮詰めていない脚本の不自然さが目立つ。

 ここは、幽霊の存在を認めるが、更科六兵衛は仲間を裏切ったので人間性(死んだ人間に、真っ当な人間性があるかどうかは分からないけど)を疑い、その証言の信憑性がないというこちらの扱いをもっと広げた内容にした方が、面白かったか。

 三谷作品で、面白くない;「ザ・マジックアワー」「The 有頂天ホテル」
 深津絵里が良かった;「悪人」

     マネーボール

あらすじ:有望なプロ野球選手としてスカウトされたが、結局選手としては芽が出ず、今はオークランドの貧乏球団:アスレチックスのジェネラル・マネージャーとなっているビリー・ビーン(ブラッド・ピッド)であったが、今期も優勝を逃し、主力の選手は他の金持ち球団に引き抜かれて来期の戦力は大幅にダウンしていた。しかし、有名な選手を補充したくても、肝心のお金がなかった。そんな時、イェール大学の経済学部を出て、野球のデータに強いピーター・ブランド(ジョナ・ヒル)を知り、ピーターが分析した出塁率の高いデータなどに注目し、他の球団ではほされている選手達を安く集めて試合に臨むが、昔ながらのセオリーや感で選手を使うアート監督(フィリップ・シーモア・ホフマン)の采配では、ビリーが意図した成果が出なかった。そこで、シーズンの途中ではあるが、データのない選手やビリーの考えに合わない選手を放出し監督にもデータ重視で試合運びをさせるとチームの成績も上がりだし、後半は20連勝という新記録を打ち立てるまでになったが、リーグでの優勝は出来なかった。しかし、貧乏球団のこの活躍は、ボストンの金持ち球団:レッド・ソックスのオーナーの眼にとまり、破格の年棒を提示され、ビリーの気持ちも動くが。。。

日本の野球機構と違った組織と、よくある描き方では、感動しない!

 今丁度、日本でも、読売巨人軍のジェネラル・マネージャーが親会社である読売新聞のワンマンなボスから、一度決まった球団の人事を覆させられたと、涙ながら訴えていて、スポーツ新聞などを賑わせている。
私としては、実につまらない読売の内輪もめで、全然興味がないが。

 それはさておき、野球界だけでなく、あらゆる競技(勝負事)において過去のデータを重視するのか、その場の感で試合を采配するのかは、いつも争いがある。
それは結局、競技をしているのは人間という、常に機械のように正確には動かない(動けない)対象が絡んでいる以上、データだけでは解決できない状況が存在しているからだ。
野球でいえば、バッターやピッチャーのその時その時の気分や読みで結果は変わるし、捕球のエラーもありで、結局結果でしか判断ができないのだから余り意味のない論争である。
 うまくいけば、どちらかの読みがあたっただけで、バッターがいい当りをしても、運悪く野手の正面に飛べばヒットにはならない程度のものだ。
また、過去のデータに基づき大金を積んで、多くの実績のある選手をかき集めても、優勝できるわけではないことは、日本でもあの読売巨人軍が証明している事実でもある。

 ということは、有名選手がいない貧乏球団であっても、「流れ」に乗れば、一時的には勝てることもある。
勝負とは、データはある程度基礎資料とはなるが、それが全てではないから、面白いのだ。

 映画の話から、勝負論になってしまったので映画に戻そう。
この映画は2002年にアスレチックスが20連勝した実話を中心にしているが、本当に、データだけで勝ったのかが、はっきりしていない描き方である。
先に述べたように、勝負はデータだけで決まらないのが常であり、その時の「流れ」をうまくつかんだだけではないかと製作者も疑問を持って作ってしまったようだ。

 また、よくある実話に基づいて作っているのも、主張があやふやな作品にさせた。
人間の人生での実話は、波乱万丈なんてことは少なく、本当のとおりに描いても映画的には面白くなくてどこかを強調する。
そこで、今回も、主人公のビリーを特徴づけるのに、気の短さや、選手をまるで「物」のようにトレードに出したり、首を切ったりしている。
しかし、製作者としては、実存のビリーに遠慮して、完全には「血の通わない悪者」にせず、それでもどこか、いい奴として扱っていて、この安易な相手に対するおもねりが、作品の全体を曖昧にし、出来を冴えなくしている。

 それから、アメリカ映画での常套として持ってくる家族愛として娘を登場させて「歌」まで歌わせているのは、無駄な挿入だった。
可愛く、幼い父親思いの娘を出して、ビジネスとしての野球経営を論じるのは、欲張り過ぎだった。

 日本の野球界では、シーズンの途中では、余り選手をトレードに出さないし、ここまで、球団のジェネラル・マネージャーの権限がないようで、それが、読売巨人軍の内輪もめの原因のようだけど、メジャー・リーグのやり方も説明が欲しい。

 野球での勝利をデータ中心でできると考えるなら、もっと様々なデータの分析と勝利を結び付けて欲しかった。

ブッラド・ピットの前作:「ツリー・オブ・ライフ」

     ニューヨークに行きたい!! ― ミュージカル ―  (帝国劇場)

あらすじ:ここは、ドイツ。テレビ司会者のリサ(瀬奈じゅん)は、浮いた話もなく仕事一筋でやってきて、どうやら有名な賞を狙えるまでになった。一方、老人ホームにいるリサの母親マリア(浅丘ルリ子)は、同じホームのオットー(村井国夫)と恋仲になり、老人ホームを抜け出し、昔からの夢だったニューヨークに行って結婚式を挙げようと、豪華客船の安い船底の部屋に乗りこむ。老人ホームからの連絡で、計画を知ったリサとオットーの息子:アクセル(橋本さとし)は、親を連れ戻すために、共に船を追うが、船内に隠れたマリアとオットーを見つけ出さない内に、4人を載せた船がニューヨークへ向かって動きだす。船内でも仕事中心のリサと気楽に生きてきたアクセルは、いつもケンカばかりしていた。今までは母親マリアとも意見が合わなかったリサであったが、徐々に自分の気持ちも大切にするようになり、アクセルとの間に恋心が芽生えるが、念願の賞の受賞が決まる。また、仕事人間に戻るリサなのか。。。

似たようなダンスもあるが、心は弾む!

 オリジナル製作は、ドイツ。音楽は、オールドの人たちには、ペドロ & カプリシャスで大ヒットした「別れの朝」の原曲になった「夕映えのふたり The Music Played」でお馴染みのウド・ユルゲンスが書き、演出は山田和也。日本では、初公演。

 あの浅丘ルリ子が、芸歴27年で初めてミュージカルに挑戦し、数曲も歌い、純白のウエディング・ドレスを着るとは、もう驚きが先にたつ。
でも、そんな心配は無用だった。舞台とは、恐ろしい存在のようで、見事に役をこなす。さすがに体全体を使う激しいダンスのシーンはなかったが。

 勿論主役は、浅丘ではなくて、リサ役の瀬奈じゅんだから、こちらも感想を述べなければならない。
瀬奈じゅんは、元々は、宝塚の男役をやってきたので、多くの曲も難なくこなし、さらに背筋良く踊りもきめているし、男勝りでテレビ局で活躍している司会者という今回の設定も彼女にあっている。

 今まで上演された他のミュージカルに比べて曲数も多いが、それに対応した舞台セットも様々なものが用意されていて、こちらもその入れ替わりを観るだけでも楽しい。
冒頭の大きな船をイメージした、動く錨とスクリューを中心として、テレビ局・豪華客船内のハネムーン・スイート・ルームやダンス・ホールだけでなく船上のあちらこちらをイメージした異なったセットも出入りがある。
それに、瀬奈じゅんなら使い慣れた(?)宝塚の舞台のような階段も小ぶりながら用意されている。
リサとアクセルがキッスをした時に、救命輪が下がって、ハート・マークが出てくるのは、印象に残る良いセットだった。

 曲調も元気がでるリズムを多く使用していて、舞台全体が最初から終わりまで活気がある。
ダンスも、「屋根の上のヴァイオリン弾き」のコサック・ダンスも出てくるし、どこかでやっているライン・ダンスなどを含めて似たような振り付けがかなりあったがそこは、眼をつぶろう。バックのアンサンブルの人たちもこんなに踊るのでは、汗だくで大変さが分かるが、頑張っている。

 もう、東宝のミュージカルの舞台ではかなり顔を合わせている瀬奈じゅんと橋本さとしのやり取りもしっくりとしたものに仕上がっているし、浅丘ルリ子を絡めたコメディとしても楽しめる。
村井国夫も歳相応の落ち着いた役を得て、しっかりと存在感が出ている演技だった。
アクセルの息子を演じている子役(吉井一肇?)は、大人の恋の緊迫時にうまく状況を和らげる役を”クール”にこなしていてこれからの成長も期待できる。

 難点をいうと、ゲイの二人組も話にいろどりを添えるために入れているが、ヨーロッパやアメリカならこの設定でも喜劇になるのだろうが、日本では、別の展開にした方がいい話だった。

 舞台だけでなく、時々客席も使用した演出は、元気のある出来上がりとなっていた。

瀬奈じゅんと橋本さとしが活躍していた;「三銃士」

     ミッション:8ミニッツ   

あらすじ:アフガンの戦場で負傷し意識を失ったアメリカ陸軍のコルター・スティーヴンス大尉(ジェイク・ギレンホール)は、目覚めると、シカゴに向かう列車に座っていた。そして、向かいの席の見知らぬ女性(ミシェル・モナハン)から、ショーンと親しく呼び掛けられる。まったく訳の分からないままトイレに行きそこにあった鏡を覗き込むと、鏡には自分でない顔が写っていた。その時、爆発が起こり、また意識がなくなる。そして、気が付くと、今度は軍の研究室のカプセルの中にいた。そこで、グッドウイン大尉(ヴェラ・ファーミガ)とラトレッジ博士(ジェフリー・ライト)から、人が死亡する前の8分間だけその人の意識の中にはいることのできる新しいテクノロジーの実験台としてコルターが選ばれたことを知る。実際に起きた列車爆破で乗客は全員死亡し、さらに犯人は、次のターゲットとして、シカゴ市街を巨大な爆発物で破壊すると予告していた。早急に犯人を捕まえるために、再びコルターは、ショーンとして、爆破された列車に戻されるが、8分間では、少しだけヒントを得ても、なかなか犯人に近づけない。死んでは、研究室に戻り、また列車に送り込まれるコルターの意識。繰り返される意識が新しい現実を生むのか。。。

女:あまり、細かいことを気にしなければ、サスペンスとして楽しめるわね!

男:そうだね。
  監督は、ダンカン・ジョーンズで、私は観ていないけど、「月に囚われた男」というSFもつくっているようだ。
  原題は「SOURCE CODE」とあるように、コンピューターの発達で、他人の意識の中に入り込めるプログラムができた結果の設定だ。
女:このタイトルの:「ミッション:8ミニッツ」は日本語のタイトルとして内容が分かり易いわね。
男:8分間というと随分と短い時間だね。
  その限定された時間で、どこまで犯人にたどりつけるかとなると、同じ状況を繰り返し、徐々にヒントをつかんで、犯人に近づいて行くことになる訳だ。
女:だけど、単に犯人探しだけでなくて、主人公のコルターの過去や愛情も絡めているのが、新しいアイデアね。
男:同じことの繰り返しでありながら、徐々に話が進展していく映画はどこかで観たよ。
女:恋愛喜劇の「恋はデジャ・ブ」よ。
  翌朝目覚めると、少しずつ変化する同じ日が繰り返される、こちらは、何をやっても死なないお天気キャスターの話だったわ。

男:この「8ミニッツ」では、「恋はデジャ・ブ」での1日を題名のように8分間に置き換えて、同じような列車爆破シーンが、何度も繰り返されるけど、そこは、犯人捜しもあるので緊迫感もとり入れたのがミソだね。
女:このようなSFで過去に戻り、何か、現在に影響することをすると、私たちが生きている現在や歴史が変わることになるけど、そこは、触れないのね。
男:それを問題にすると、もう脚本が成り立たないよ。
  歴史では、いくつもの異なった流れがあり、私たちは、たまたま、数本ある流れの中のある1つの歴史を経験しているという考えかたもある。
  かなり、強引なSFの理論だけど。
女:それにしても、コルターが自分の体ごと生き返るなら、そうかと、思えるつくりだけど、体は他人で、脳だけを乗っ取ってしまうとは、乗っ取られたショーンはどうなるの?
  可哀そうよ

男:でも、戦争で負傷しここまで、体が破壊されているコルターの体を健全な形で蘇えらせるのは、無理だと判断したんだね。
女:大体、この映画は「ハッピー・エンド」で終わる必要があるの?
  どこか、終わり方が、大いに不自然ね。

男:「ハッピー・エンド」は、もうハリウッドの映画製作では、当然の要求だからね。
  そこから、外れると、映画製作のお金がでない。
女:そんな規定概念に捉われて映画を作るから、映画がどんどん面白くなくなるのよ。

  ところで、この映画のように「残りの人生が後1分」だとすると、貴方は何をするの?

男:もっ、勿論、きみを愛し続けるだけだよっ!
女:まったく、しらじらしい言葉だけど、今日は、それで終わりにしましょ。
男:ふっ、良かった。
女:何か言った!
男:いや、何も...

     カウボーイ&エイリアン   

あらすじ: まだアメリカが先住民のインディアンと戦っていた頃のとある西部の荒野。記憶を失った状態で目覚めたジェイク・ロネガン(ダニエル・クルイグ)の左手首には使い方が分からず、外すことのできない奇妙な腕輪がはめられていた。近くの町へたどり着くと、そこでは、牧畜で町を牛耳っているダラーハイド(ハリソン・フォード)の放蕩息子が暴れていて彼を戒めたが、ジェイクも賞金がかかったお尋ね者であったのでシェリフに捕まり裁判にかけられることになる。しかし、突然、空に見たこともない飛行物体が数艇現れ、ダラーハイドの息子や町の人間を捕まえ飛び去る。ジェイクの腕輪が光りその飛行物体の1つを破壊したが、乗っていたエイリアンは傷つきながら逃げる。連れ去られた息子や家族たちを救うために、ダラーハイドは救助隊を率いてエイリアンを追跡する。エイリアンの襲撃で、ジェイクも以前妻と共にエイリアンに捕まり、妻は殺されたが、腕輪を武器にして、エイリアンから逃げ出したのを思い出し妻の復讐をするため救助隊に加わる。また、ジェイクの過去を知っているらしい謎の女性:エラ(オリヴィア・ワイルド)や、エイリアンに仲間を連れ去られたアパッチ族もジェイク達と救出に加わる。地球の金(きん)を集めているエイリアンの本拠に迫るが、エイリアンも凶暴だ。果たしてジェイクたちはエイリアンに勝てるのか。。。

ハラハラもドキドキも、そして話の面白さもまったくない映画だ!

 製作をスティーブン・スピルバーグがやり、主演は007のジェムズ・ボンドを演じたダニエル・クルイグとさらにインディ・ジョーンズで名を馳せたハリソン・フォードが出ていている。チラシではこの豪華タッグが作った映画ということで観たが、いやはや、まったくつまらない出来となっている。

 記憶を失くした西部劇のカーボーイとどこかの星からやってきた地球征服をたくらんでいるらしいエイリアンの対決。
時代は、アメリカの白人がまだ先住民のインディアンと戦っている開拓時代だけど、さすがに、今日では、もう先住民を殺すという話は映画にできないので、これも仲間に加えて、地球を守ろうとする。

 でも、そんな時代では、いくらなんでも、他の宇宙から来るほどの文明が進んでいるエイリアンには、勝てるわけが無いので、そこに、他の星からやってきた地球に味方する善いエイリアンも登場させ、男ばかりでは、色気がないので、女性の姿をさせている。
また、味付けに男の子も救助隊に参加させて、賑やかさを出そうという魂胆だった。

 登場しているエイリアンの姿は、1979年製作の映画「エイリアン」を参考にしているようだ。
昔のエイリアンは、いつも暗いところばかりに出ていて、その姿や全体像がはっきりしなかったが、この映画ではCGとVRX技術の発展により昼間も出てきて、エイリアンの形は分かる。また、お腹から別の手も出てくるしで、その点では、かなり進化した描き方だ。

 だけど、小型の飛行艇やその飛行艇から縄を飛ばしてピン・ポイントで人間を捕まえることのできる、地球人よりかなり優れていている筈のエイリアンにしては攻撃方法も中途半端で、舞台を西部劇にする必要性からエイリアンは金を採掘していることにしたようだけど、この設定では、説得力もなくおかしな内容でしっくりしない点ばかりだ。

 大体、人間がまだ高度に進化した武器を持っていない西部開拓の時代に、はるか宇宙の彼方から来た地球征服を企む文明の進んだエイリアンを持ってきて、エイリアンに勝つというストーリーには、最初から無理があった。
この地球人では勝てないということを解決するために、エイリアンに対抗できる訳の分からない別の異星人も登場させた訳だけど、これが、一度死んで火葬されると、女性の裸姿で生き返るとは、もう余りにもラフで、デタラメ過ぎる展開でこれではまともな人は付いていけない。
男性客へのサービスとしても、話を尊重する大人の映画ファンにとっては、無用な展開だ。

 それから、上下を逆さまにして荒野にあった船って何をいいたいの?
悪党たちが、命を懸けてまで、見返りのないエイリアンとどうして戦うの?
また、結末の、お尋ね者が、エイリアンをやっつけて、保安官から死んだことにされて、その後は罪を逃れるって話もどこかで、観たよ。(クリント・イーストウッドがでていた「アウトロー」です。)

 あちらこちらにあった話の二番煎じでなく、もっと、鑑賞に堪えられるオリジナル性をもった筋を練ってから、映画にして欲しい。

 本当に最近の スピルバーグの製作の映画はつまらない:「スーパーエイト」 

     猿の惑星 創世記(ジェネシス)   

あらすじ: サンフランシスコ近郊にある大手製薬会社に勤めるウィル・ロッドマン(ジェームズ・フランコ)は、父親:チャールズ(ジョン・リスゴー)も罹っているアルツハイマー病に効く新薬の開発に精を出し、妊娠している雌のチンパンジーを使った実験では、知能の向上や脳細胞の再生が見られるなどいい成果をだすが、そのチンパンジーは暴れたために殺され、残された赤ん坊のチンバンジーを引き取り自宅で育てることになる。赤ん坊のチンパンジーをシーザーと名付け観察すると、母親に与えた新薬の効果が遺伝したようで、シーザーの脳細胞が急激に進化し、人類に近い知能を発揮しだした。そこで、アルツハイマー病患者の父親に新薬を与えると、父親は一時は回復したが、すぐに効き目がなくなり元の状態にもどった。新薬の開発に自信を持ったウィルは次の段階の薬の開発に取り組み、シーザーとは別の猿を使った実験では、脳細胞の進化に成功するが、人体に及ぼす影響はまだ分からなかった。シーザーが成長して自宅では飼えなくなったので、猿たちの収容所に預けるが、知能が進化したシーザーは、ウィルの新薬を手に入れ、仲間の猿たちに与えると他の猿たちも進化する。檻を壊して暴徒となった猿たちがサンフランシスコの街にでて警官隊と争う。人類の将来はどうなるのか。。。

結末のわかっている映画を、十分に楽しませてくれる!

 基になっているのは、1968年に製作された「猿の惑星」です。
この基の「猿の惑星」のあらすじは、チャールトン・ヘストンが扮する宇宙旅行士が時間を超えた宇宙旅行でたどりついた惑星では、進化した猿たちによるあまり進化していない人間狩りが行われていて、チャールトン・ヘストンは一体どこの惑星に来たのかと思っていたら、なんとそこは、地球だったという落ちのある映画でした。
私もこの基になった「猿の惑星」を観ています。
チャールトン・ヘストンが、最後に海岸で馬上から「自由の女神像」を見て呆然とするシーンは実に印象的でした。

 現実の地球では進化してきてのさばっているのは人類であり、ひっそりと森に暮らしているのは類人猿ですが、それらが入れ替わった話の意外性と、猿を演じている人たちは、サル顔の特殊メイクをして、リアルに表情を出していたので、評判になった作品です。
当時は、まだCGの技術が十分に発達していませんから、このリアルさをもった特殊メイクをする苦労は大変でしたから。
その後「猿の惑星」はシリーズ化されていて、猿対人間の続編も数本観てますが、1作目を超える印象は残っていません。

 そこで、この「創世記版」は、最初の「猿の惑星」での謎、それは、どうして猿たちが地球において、人類よりも進化したのかを解く映画として製作されたとのことです。
脚本と製作は、リック・ジャッファ。監督はルパート・ワイアット。
原題は「Rise Of The Planet Of The Apes」ですが、「創世記」の日本語のタイトルは、製作意図を表す点では分かり易いですね。

 基になった第1作目の「猿の惑星」がある以上、どうして「進化は、彼ら=猿=を選んだか」の結末に向かって、うまく謎解きをしなければいけない訳です。この制約のある話での展開ですが、そこは上手く、関連を付けています。
アルツハイマー病という脳の病気を持ってきたのは、チャント現代でも通用しますし、その新薬が猿の脳だけを進化させ、副作用があるために人類の破滅に繋がり、その副作用がどうして地球上に急速に蔓延していったのかも、感染した飛行機のパイロットをウィルの隣人にしていて、ここも納得できます。

 第1作目で評判になった猿の演技に対しても、今回の映画化に当たっては立体映画の「アバター」を作った会社が関係したようで、表情を持った猿のメーキャップや4足歩行での動きも、流石に良く出来ています。

 また、馴染みのない似たような顔の猿が多くいても主役のシーザーには、Tシャツを着せて、他の猿とすぐに区別できる工夫も感心します。
シーザーとウィルの家族愛に近い描き方も、将来、猿たちが地球を支配しても、どこかで、人間を完全にはいじめないだろうという期待も活かされています。
猿の収容所に入れられたシーザーが、育てられた家族を懐かしがって、開けることのできない収容所の壁に窓の模様を書くシーンは、ジーンとくるものがあります。

 シーザーが簡単に新薬を手に入れたり、ゴールデン・ゲイト・ブリッジでの猿たちと人間の警官との闘いなどでは、それはないだろうと突っ込みが入りますが、オランウータンやゴリラなど猿人の世界でのボスの存在や猿の仲間意識も細かく描いていて好感が持てました。

 1968年で思い出しました。当時流行っていたなぞかけです。
  *問:人間のおならと猿のおならは、どちらが臭いか?
  *答:猿。それは、猿のは、クサイ(猿のわくせい)

 お粗末でした。

     幸せ パズル   ― アルゼンチン映画 ―

あらすじ: 専業主婦のマリア・デル・カルメン(マリア・オネット)は50歳の自分の誕生日でも自らせっせとパーティ用の料理を準備し、バースディ・ケーキを焼いていた。彼女の家庭には、自動車部品関係の店を経営している夫:ファン(ガブリエル・ゴイティ)と成長した二人の息子がいる。親戚付き合いも大切にしている彼女の誕生日プレゼントの中に「ジグソー・パズル」があり、やってみると面白くて、すっかりジグソー・パズルのとりこになり、いろいろ買い集めて、1、000ピース以上でも楽しめるようになった。そんな時、ジグソー・パズルを売っている店でパズル大会への出場パートナーを探していた金持ちの独身男性:ロベルト(アルトゥーロ・ゴッツ)を知り、ロベルトの家で、美味しい紅茶を飲みながら、大会への練習をするのが、いつの間にかマリアの秘められた「幸せ」な時間となっていった。夫との愛情にも満ち足りていたが、大きくなった息子が自立を望み、母親として腕をふるった料理も敬遠されるようになりどこかマリアの心の中に隙間が生じていた。パズル大会でロベルトと組んだマリアは優勝し、ドイツで開かれる世界大会への出場権を手にするが。。。

世間を知らなかった専業主婦の、一度のときめきでは、かなり物足りない!

 日本ではあまり上映の機会がない、アルゼンチンの映画で、監督と脚本は、女性のナタリア・スミルノフとある。

 専業主婦として、長いあいだ、夫につくし、親戚や近所との付き合いも豆にこなし、美味しい料理をつくって、二人の息子を育てあげたのに、いつの間にか、周囲は変わっていて、自分だけがその変化から取り残されていたことに気付き、虚しくなるという設定は、よくあることだ。
そこで、ジグソー・パズルに熱中し、才能を開花し、世界大会までにでるというので、これは、主婦には珍しい設定なので、面白そうと感じて観た。

 家庭だけが生きがいだったマリアが50歳にして初めて感じる家族からの疎外感と虚しさはよく表現されている。
子供の頃は母親を頼りにして、共にダンスをしていた息子達がいつの間にか成長し、親から離れていく寂しさ。
その寂しい気持ちが分からない夫に対する感情の隔たりが大きくなっていくのは、郊外の土地を売る話や、次男の菜食主義のガール・フレンドの登場などで、実にきめ細かく描かれていて、いい。
しかし、マリアがジグソー・パズルにのめり込むのは、いいとしても、そのジグソーを、他の人よりも早く完成できる才能があったという描き方は不十分で物足りない。

 ジグソー・パズルのやり方として、他の人は、まず同じ色を集めたり、外枠から始めるのに対して、マリアは内側からやっても、他の人より早く完成できたようだけど、ここは、コンテストでもあるので、もっと緊張感がでるように、多くの映像を入れて欲しいところだ。

 また、マリアの夫や息子が、女性としてのマリアの生活態度にまったく関心がないというのも不自然さを感じる。
叔母さんの看護と言いながら、金持ちの家で、隠れてジグソーの練習をしていたり、また練習の相手が誰かも詮索しないという設定は、アルゼンチンという国柄なのか。
日本なら、急にイキイキしだし、綺麗になる妻の態度は、追及して描くところだけど。

 パズル大会での緊張した場面があると、もっとお客をよべる映画だった。

同じアルゼンチンの良かった;「瞳の奥の秘密」

     ワイルド・スピード メガ・マックス   

あらすじ: 強盗の罪で刑務所に送られる途中の護送車からドミニク・トレット(ヴィン・ディーゼル)は、妹:ミア(ジョーダナ・ブリュースター)とミアの恋人で元FBIの特別捜査官であったポール・ウォーカー(ブライアン・オコーナー)によって、逃げることが出来たが、FBIの特別捜査官:ルーク・ホブス(ドウェイン・ジョンソン)達の追跡が厳しく、世界の各地を逃げまくり、今はブラジルのリオ・デ・ジャネイロのスラム街に身を潜め、車などを盗んでいた。しかし、盗んだ高級車にブラジルの裏社会を牛耳るレイエス(ホアキン・デ・アルメイダ)の金の動きが記録されていたチップがあり、レイエスから命を狙われることになる。また、ドミニクの動きを掴んだFBIもリオ・デ・ジャネイロにくる。ドミニクは、この世界から足を洗う最後の大仕事として、レイエスが買収している警察署の頑丈な金庫にある1億ドルを盗み出す大胆な計画を立てて、かっての仲間をリオ・デ・ジャネイロに集める。しかし、レイエスの守りも厳しく、またFBIのルークもドミニク達に迫ってくる。ドミニクの計画は成功するのか。。。

女:すごい爽快感がある映画ね!

男:「ワイルド・スピード」のシリーズとして、5作目ということだね。
女:第1作の路上のカー・レースは面白かったけど、2作目からは、特に目新しいこともなかったわね。
男:東京を舞台にした作品もあったようだけど、それらは見ていない。
女:そこで、久しぶりに観たってわけだけど、この破壊シーンの連続した演出は、普通では作れないわね。
男:一体、車を何台壊したのだろうね。
  また、本当に崖の上から飛んでいるようで、CGでは表せない映像が持つ迫力を感じるね。
女:冒頭のドミニクが護送されるバスがあれだけ転がってもドミニクが生きていたり、ブラジルでギャングやFBIに撃たれても、死なないというのは、ちょっとばかり気になるけど、この破壊のリアルさでカバーされているわ。
男:警察署から奪った堅牢な金庫を、リオの町中を車2台で引っ張りまわすとは、すごい発想だね。
  この警察の車に追われる途中での町の交差点の金庫の転倒や、お店のショーウインドーが壊れるシーンなどと、長い橋での車がぶつかり合う一連のシーンの撮影だけでも、あちらこちらにカメラを構え、かなりリハーサルをしているんだなぁとその大変さと苦労がよくわかる。
女:元々は、車が好きで、スピードに命を懸けたロード・レーサーたちの話でしょう。
  スピードでは競いあうけど、彼ら同士の仲間意識もあるのもかなり布石にあるわね。

男:そして、ミニ・スカートをはいた美女たちも彩をそえているね。
女:あれは、本当に男性へのサービス・シーンね。
  いくらなんでも、Tバックのお尻まで見せることはないでしょう!

男:カー・マニアにとっては、競走車として1つの歴史をつくった日本が誇る懐かしい箱形のスカイラインGTーRから、ポルシェやスーパー・カーも出ているし、最新のレクサスのスポーツ・タイプもそして新しいスカイラインも見せてくれるで、それなりに楽しめる。
女:路上でのカー・レースは勿論出てくるし、またドウェイン・ジョンソンとヴィン・ディーゼルによる肉体派の殴り合いもあり、赤ん坊の話もありで、本当に盛りだくさんの映画ね。
男:それらをうまくつなぎ合わせた展開の速い編集と、どうして、本物の金庫と同じものまで揃える必要があったのか、ちゃんと結末のどんでん返しまで考えた脚本の勝利だね。
女:でも、最後のシーンのいくら大金を盗むことに成功しても、また盗むまでのスリルに惹かれていくのは、男のわがままよ。
男:男のオスとしての本能は、結局”他の男との闘争”や”命を懸ける行為”にあるから仕方ないと思うよね。
女:だいぶ前から、そんなオスの気概がないあなたからそんな言葉を聞くとは思っていなかったわ。
男:えっ、何か言った?
女:いや、何も
  一人ごととよ。ひ・と・り・ごと...

また、続編が違う展開で計画されているようです。

肉体派のヴィン・ディーゼルが注目を浴びた;「トリプルX」

     ミケランジェロの暗号  ― オーストリア映画 ― 

あらすじ: 第2次世界大戦下のポーランドでパルチザンが、ベルリンに向かうナチス・ドイツの輸送機を撃ち落す。その飛行機には、ユダヤ系オーストリア人であったために収容所に入れられている、以前は画商だったヴィクトル・カウフマン(モーリッツ・ブライブトロイ)が今はナチスの親衛隊員となっている幼友達のルディ・スメカル(ゲオルク・フリードリヒ)の監視を受けて乗っていた。実は、カウフマン家には、400年前にイタリアのヴァチカンから盗まれた国宝級のミケランジェロの絵が隠されていて、絵が好きなイタリアのムッソリーニにこのミケランジェロの絵を贈ることで、ナチス・ドイツは有利な条約を結ぼうとしており、ヴィクトルから絵のありかを聞いたルディの密告でナチス・ドイツは絵を手に入れるがその絵は偽物で、本物の絵のありかを聞き出すためにヴィクトルをベルリンに呼び寄せるつもりだったのだ。落とされた飛行機からどうにか助かったヴィクトルとルディだったがルディは落ちた際に足に大けがをしていた。ヴィクトルはナチス親衛隊の制服を着ているルディをパルチザンから守るために、着替えをさせるが、墜落の現場に先に来たのは、ドイツ軍だった。そこで、ヴィクトルはナチス親衛隊の服を着てルディに成りすまし、本者のルディは嘘をついていると言って強引にユダヤ人として扱わせる。ベルリンからは、本物の絵を何があっても手に入れろと厳しい命令がくるが、絵の隠し場所を知っていたのは、収容所で亡くなったヴィクトルの父親だけだった。そこでルディに化けたヴィクトルは、一計を案じ、絵はスイスの銀行の金庫にあり、金庫を開けるには母親のサインも必要とスイスへの逃亡を図るが。。。

こちらの予想のとおりに話が進むが、布石がしっかりしていて面白い!

 日本でのタイトルは「ミケランジェロの暗号」と、このタイトルからは評判だった「ダ・ビンチ・コード」と同じような印象を与える意味合いが感じられるが、映画を観た後ではこのタイトルの付け方には、どこか納得が行かずひっかるものがある。

 参考までに、原題は、ドイツ語で「MEIN BESTER FEIND」で英語版のタイトルは「MY BEST ENEMY」とある。
これを日本語に訳するなら正に「好敵手」ということだ。このタイトルなら、かなり頷けるか。
監督は、ウォルフガング・ムルンヘルガー。

 主役のヴィクトルとルディは、幼い頃からカウフマン家で一緒に育てられたが、ルディの母親は、カウフマン家の家政婦であり、カウフマン家としては、ヴィクトルとルディを分け隔てなく育てた積りでもルディにしてみれば、お坊ちゃまのヴィクトル程の物質的、精神上の豊かさはないために、どうにかして、ヴィクトルが持っている品物だけでなくヴィクトルの恋人までも手に入れたい気持ちが、ルディをナチスの親衛隊員に走らせた一因という設定もある。

 今までのナチスとユダヤ人という関係を取り上げた多くの映画では、ナチス=残虐な迫害者、ユダヤ人=迫害をうける可哀そうな被害者 という図式で描かれていたが、この映画では、ユダヤ人の父親が収容所で亡くなったり、母親の髪の毛が短く切られていたりするが、ユダヤ人が強烈な被害者という表現はあまり明確にしないで描いている。

 ミケランジェロの絵が偽物であると同時に、人物もユダヤ人であるヴィクトルとナチス親衛隊のルディが入れ替わるという、この言い換えると「物」の偽物と「人間」の偽者の関係が流れよく纏められて描かれている。
偽の絵とかユダヤ人かそうでないかは、結局、周りの評価や、見かけだけの判断で、その真実は実に曖昧なものであるという批判の主張が大いに楽しめる。

 勿論、この映画の他の展開として、いつ二人の入れ替えがばれるかもしれないという緊迫感もあり、特に元はヴィクトルの恋人で今は、ルディの婚約者となっているレナ(ウルズラ・シュトラウス)が、入れ替わっているヴィクトルとルディの前に現れてどのように対応するのかのシーンは、過去の設定が丁寧に描かれているので、多分そうだろうなと思っていても、ホット胸をなでおろす。

 緊迫感をほぐす「割礼」の話なども効果的に入っていて笑える。

 本物の絵はどこにあるかの謎解きの方は、亡き父が残した言葉で、どこにあるかは想像できるので、余りワクワク感はない。

 このまま進行したのでは、いくら軍関係者が馬鹿でも、ヴィクトルが身代わりになったことにいつかは気づくとはずと思っていたら、そこは、しっかりと身元がバレてくれるので、脚本の出来の良さに安心した。

 そして、そこそこ終わりかと思っていたら、まだ戦後の米軍の身元確認でもハラハラさせる場面まで用意するとは、これまた、憎いつくりだ。
観終わって爽快感がある気持ちのいい映画だった。

この映画は、日比谷の「シャンテ」で公開されていて、平日の昼過ぎの回を目指して、開演30分前に映画館に行ったのですが、これがいつもなら、席もすいているのですが、ナント、前から3列目しか空いていず、かなり前で観ました。
でも、そこまでしても観る価値はありました。

 監督のウォルフガング・ムルンヘルガーがナチスとユダヤ人を描く上で影響を受けたという、タランティーノ監督の;「イングロリアス・バスターズ」
同じスタッフの良かった;「ヒトラーの贋札」

     神様のカルテ  

あらすじ: 長野県の松本にある救急患者も扱う本庄病院で勤続5年目を迎え主に消化器を担当している内科医:栗原一止(くりはらいちと:櫻井翔)は、通称「イチ」と呼ばれていて、当直となる夜勤では、救急患者を分け隔てなく受けいれるので、まさに寝る暇もないほどの忙しさの日々だった。そんな彼の気持ちを安らげてくれるのは、風景写真家で最愛の妻:榛名(はるな:宮崎あおい)の優しさと、古い旅館だった「御嶽荘」でイチ達と以前から一緒に暮らしている売れない画家の男爵(原田泰造)や哲学好きの学士(岡田義徳)とのふれあい、そしてお気に入りの夏目漱石の本だった。そんな多忙の日々を過ごすイチの将来を思って上司の貫田(柄本明)が取り計らって参加した出身大学病院での研修で、イチは、元学校の先生で今は身寄りのない末期ガンの患者:安曇雪乃(加賀まりこ)を診察し、詳細な「カルテ」を作成する。治らないことを知った雪乃が研修を終えたイチを頼りに本庄病院に入院する。一人の患者とどこまで付き合えばいいのか、多くの患者の命を救う為には、医師としての技術も向上させなければならない。大学病院から医局に移る話が来る中、イチが選択した道は。。。

出演者のスケジュールと予算を先行させては、いい映画は創れない!

 チラシによると原作本は、現役の医者でもある夏川草介が書いたのがあるらしい。この本は全国の本屋さんの店員が今もっとも売りたい本として選ぶ「本屋大賞」に、珍しく2010年、2011年と2年連続してノミネートされたので、これはいい脚本ですよってことですが、私は、原作は読んでいません。

 監督は、1976年生まれの深川栄洋で、「60歳のラブレター」も監督したようですが、この映画も観ていません。

 主演は、毎年誰かの主演映画をつくっているジャニーズ事務所から、今度は「嵐」のメンバー:櫻井翔が選ばれ、そして、相手役には、NHK・TVの大河ドラマ「篤姫」以来、今では国民的な注目をあび、映画出演が多くなってきている宮崎あおいです。

 確かに、現在の医療現場が抱える、救急病院の激務。大学病院と民間病院における体制の問題などは、原作者が医者とのことで、ほどほどの描き方で、観客にも伝わってくるが、ちょっとばかり報道や医療現場に過去から関心がある人なら、もう古くは医学界を扱った名作「白い巨塔」での指摘があるように、わかりきった内容でいまさら同じテーマでよく取り上げたなあと、残念な気持ちになる。

 さらに、この映画の出来の弱さとして、登場人物を「善い人」ばかりにしてしまったことが挙げられる。
例えば、医者の気持ちと患者の苦しさを理解している病棟の主任看護師:池脇千鶴や救急担当の看護師:吉瀬美智子の役柄。
大学病院に残れば、違う人生の選択があったのではと民間病院の医師としての悩みがあった後輩思いのよくある設定での柄本明。
 また、旅館を改造して共同アパートにしたというアイデアのユニークさは買うが、ここの同居人も互いに相手の心の傷には触れずに思いやって生活しているというのでは、医療の現場の過酷さが現実的であるだけに、余りにもメルヘンの要素が大きく「甘すぎる」展開だ。

 同期か先輩かが分からない要潤だけが、多くの一般人の抱く出世や将来をまともに考えているのでは、浮世から離れてしまった。

 だけど、この監督:深川栄洋には、映画つくりに対する、この1本は自分が誇る作品にしたいという気持ちがかなり欠けているようだ。
具体的には、まず撮影のまずさが挙げられる。

 松本から、周りの山々や街を望むシーンが随分と出てくるが、この映像がいつも霞がかかったものばかりで、細かな物がはっきりせず観ていても不愉快な気持ちになる。
ここは、話の展開においても重要な場面なのだから、決められた撮影の期間中に撮ることができなかったなら、もっと天候の良い日に、もっと解像度の高いカメラをもってきて、山の木々や、街の建物の看板などが綺麗に映る時に撮影するぐらいの努力が必要だ。

 次の監督の怠慢さとしては、時の変化を出そうとする努力がたりない。
イチが病院から御嶽荘に戻るカーブした上り坂が同様のアングルで何度も出るし、神社のシーンもそうだが、これでは、撮影の時間が限られているので、カメラの位置をできるだけ変えずに後ろに入り込む景色の模様替えを少しにして、予算を押さえようしていることがバレバレだ。

 それにしても、イチと榛名は夫婦なのに、共に映っている場面がこれまた少ない。
これは、主演の櫻井翔と宮崎あおいの二人の過密なスケジュールが原因と推定される。
映画を撮る前から櫻井翔と宮崎あおいのスケジュールを充分に取って、二人が結婚に至った経過の説明もシーンとして入れないと、観客には、二人が共に普通の生活をしていないだけに、どうして結びついたのか納得できない。
この部分の説明がないために、かなり世間離れしたイチと、また、苦労知らずでこんなに自由気ままに現実離れして写真を撮っている榛名が暮らしているのかまったく不明で、話を面白くなくしている。

 大体、ジャニーズ事務所の「嵐」のメンバー:櫻井翔で映画を撮るということそのものが企画として無理だったといってしまえば、それで終わりだが。

宮崎あおいが、今回と同様に目立たない;「劔岳 点の記」

     ハウスメイド  ― 韓国映画 ―

あらすじ: 無口で余り物事にとらわれないウニ(チョン・ドヨン)は、その性格がかわれ、大金持ちの御曹司:フン(イ・ジョンジェ)の大邸宅で家政婦(ハウスメイド)として働くことになった。その大邸宅には、出産まじかの若奥様:ヘラ(ソウ)と6歳の娘:ナミ、そして、先輩の家政婦:ビョンシク(ユン・ヨジョン)がいた。家政婦として食事の世話や洗濯、風呂場の清掃などをこなし、また妊娠中の奥様や眠れない娘にも心の底から優しく接していたので、邸宅での評判は良かった。そんなある夜、妊娠中の妻とのセックスに不満だったフンがウニのベッドに訪れ二人の親密な関係ができる。ウニの妊娠に本人よりも先に気が付いたのは、先輩の家政婦:ビョンシクだった。ビョンシクは以前から世話になっているヘラの母親(パク・ジョン)にウニの妊娠を告げると、ヘラの母親は、何とか中絶させようと事故を装って細工をするが失敗する。ウニの妊娠は奥様も知り、ウニが常用している薬に中絶剤を入れる。体の異変に気が付いたウニは邸宅から逃げようとするが、連れ戻されついに強制的に妊娠中絶される。失意のウニがとった最後の行動は。。。

女:結局、金持ちは、下層階級の人とは交わらないのね!

男:オリジナルは、もう亡くなったキム・ギヨンが1960年に製作した「下女」があり、それを監督:イム・サンスがリメイクしたとのことだよ。
女:韓国も、日本やハリウッドと同様に、いい映画のシナリオがなくなったので、50年前の作品を引っ張りだしてきたってことね。
男:映画のチラシでは、そのあたりはぼやかしているけど、そうなんだろうね。
女:元になった「下女」は観てないけど、当時の映画では、ここまで、女性の裸やセックス描写は出来なかったのを、今回は随分と取り入れたようね。
男:メイド役のチョン・ドヨンが、豊かな胸だけでなく、かなり下半身まで見せてくれるね。
女:肌の露出や、きわどいシーンで評判をとっても作品のできとは別よ。
男:しかし、広い邸宅だね。
  部屋数は分からないほどあるし、大きな暖炉やピアノ、また凄いオディオ・ルームもある。
女:この大邸宅のセットで、韓国での階級差と身分差別がもたらす非合理性の追求もテーマにあったようだけど、ウニも簡単に性を楽しんでいたようすもあるので、そこまでは、描ききれていないわね。
男:それから、チラシでは、サスペンス・ホラーって書き方だけど、全然怖くなかった。
女:狙いが違っているのよ。
  サスペンスというなら、犯人は誰かが推理されなければならないけど、これでは、最初から、ウニを落とす人や中絶の薬を与えるひともわかっているのよね

男:そして、最後の復讐のやり方が、焼身自殺では、金持ちでなくても、時がすぎれば、忘れ去る。
  元の作品から50年以上たった現在に置き換えるなら、貧乏人がとる復讐も自己犠牲でない、もっと、相手に被害を与える復讐策でないと、観客にはピンとこない。
女:昔と違って下層階級の人たちの権利意識もかなり上がってきているのを反映できてないのね。
  ピンで連想したんだけど、先輩の家政婦はどことなく「泉ピン子」を感じさせるわね。

男:それなら、チョン・ドヨンは「宮崎あおい」を重ねて観ていたよ。
女:「宮崎あおい」よりも、チョン・ドヨンはお笑いの「いとうあさこ」に似ているかもね。
男:全てを金で解決する、ピアノが上手く弾けて、ワインが大好きな肉体美を誇る御曹司か。
   設定として、どこか浮世離れの感じが強いなあ。
女:その妻は、豪華な部屋で「マティスの画集」をみたり、ボーボワールの「第二の性」の本を読んでいるのね。
男:これでは、どうしても、50年前の設定を引きずっているようで、現在の環境や発想から離れすぎている。
女:でも、一度はあんな大邸宅に住んで、暖炉の前でゆったりと刺繍でもしたいわ。
男:刺繍!?
  今までも、一度も刺繍をしているところをみたことが無いのに!
女:何か言った!
男:いや、何も...

久しぶりに観た韓国映画でしたが、この内容では、多くの観客は呼べません。

     ツリー・オブ・ライフ 

あらすじ: 厳格な父親:オブライエン(ブラッド・ビット)に反発しながらも、事業に成功し、今は高層ビルのフロアーにオフィスを構えるジャック(ショーン・ペン)であったが、彼が育った三人息子の長男としての幼年時代を振り返るとそこには、1950年代の家庭があった。芝生の育て方や食事中の話し方などいつもうるさい父親。優しく子供たちを見守ってくれたが父親にはどこか耐えていた母親(ジェシカ・チャスティン)。兄弟でふざけあった草原やよく泳いだ小川。そこでの友達の溺死。異性を感じた女性の家に忍び込んだ時の罪悪感。この地球を創った神は、今の人生を生きていくジャックに対して、いや全ての人類に対して、何を求め、どこに向かわせるのか。。。

巨大なテーマを映像化できなかった退屈さだけが残る!

 この7月や8月の映画興業界は、他愛のないアニメやコミックの映画化など夏休みのお子様向けばかりの作品が上映されていて観るべきものが無くて時間がつぶせないなぁと思いながらも映画館に足を運ぶと、大きな赤ん坊の顔に、小さくブラッド・ピットとショーン・ペンと書かれてあるこの「ツリー・オブ・ライフ」のポスターを見て、あまり宣伝文句がないので、かえって惹かれて観た。

 映画の展開は、今は成功して高層ビルの一角に立派な事務所を持つショーン・ペンが、厳しかった父親やいつも優しく包んでくれた母親、そして、ふざけあっていた仲のいい弟たちとの家庭生活。また、男としての思春期の目覚めなどを、仕事の合間に、時々回想して行くという構成だけど、回想とナレーションに伴い、ここで、わけのわからない映像が挿入されていて、退屈だ。

 回想のシーンで何度も使われる映像が、挿入された始めは、映像もぼんやりしていてはっきりとしないので一体これはなんだか不明で下手な手法である。
後からこれらが、銀河系や広大な宇宙の写真だとわかるが、このタイミングで見せられても困惑するだけだ。
たびたび出てくる神に対する問のナレーションで使用されているのは、宇宙のどこかの星が爆発した際にできた星雲の写真だけど、このぼんやりした写真では宇宙の写真を見たことのない人には、全然意図が不明だろう。

 それにしても、地球の生命は神秘にあふれていて、海中の魚も地上の動物も各々が生命を繋いでいくでは、NHKやイギリスのBBC製作の「自然」を主題にした内容の方がずっと分かり易いし、これに、「神」が宇宙を創造し、地球誕生から火山活動まで絡めては、もう、意図が壮大すぎて描ききれず、観ていてもなにも訴えてこない。

 人間としての誕生・成長そして死は、誰でもが知っていることであり、事故により若くして死ぬこともよくあることで、この映画のように指摘されるまでもない。
また、男の子が父親に反抗して育つのものもありふれた描き方だし、男の子としての性の成長の描きかたも、厳格な家庭の扱い方もとおり一辺倒で間延びしたシーンも多く、つまらない。

 かなりの観客が、途中で席を立っていたが、私も、この評論を書く立場でなかったら、前半で帰ってしまった内容だ。

それにしても、ブラッド・ピットは、マーロン・ブランドに似てきた!?

ブラッド・ピットが良かった;「イングロリアス・バスターズ」
ショーン・ペンなら;「I am Sam」

     ビューティフル -スペイン・メキシコ映画-

あらすじ: スペインはサグラダ・ファミリア教会などで観光地としても有名な街:バルセロナの裏街に住むウスバル(ハビエル・バルデム)は、幼い娘と息子の三人暮らしであった。妻はいるが、躁うつ病で、入院歴もありたびたび子供にも暴力を振るうので別居をしている。ウスバルの生活費は、時々依頼される死者との交霊の謝礼と、路上で偽ブランド品を売っているアフリカ人移民から場所代をとったり、中国からの密入国者達への労働斡旋のピンハネで得ていたが、どこか優しい彼の家族の暮らしは最低であった。ある日、血尿が出たので病院で調べてもらうと、前立腺癌が悪化しており、もう余命2ヵ月と宣告される。自分も産まれる前に父親を亡くし、幼いころから生活の苦しさを味わってきたウスバルが残された時間で、自分の子供たちに何をするのか。。。

女:ハビエル・バルデムの相変わらず濃い演技が目立つ作品ね!

男:その前に、タイトルの「ビューティフル」の説明がないといけないんじゃないの?
女:そう?
  原語のタイトルは「BIUTIFUL」と発音のとおりだけど、それがどうしたの?

男:英語の「ビューティフル」のスペルは、「BIUTIFUL」ではなくて、「Beautiful」なんだよ。
  ここは、娘に「ビューティフル」のスペルを聞かれたウスバルが、スペルは「BIUTIFUL」と発音のとおりと教える重要なシーンなんだけど、ここを簡単に観ると、監督でもあり脚本も書いたアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの言いたいことが、素通りになってしまうよ。
女:英語のスペルも知らない父親だったということ?
  それなら、私も、ウスバルと同じ程度の教養しかないってことねッ。

男:いやっ、日本人と例えスペイン人であっても、ヨーロッパ人では、英語力が必要とされる差は大きいと思うよ。
女:変な、慰め方ね。
男:言葉で「美しい」といっても、その「美しさ」の内容ととらえ方は、正しく人様々だということだね。
女:ミス・スペルのことは分かったわ。
  その次の話に移りましょう。

男:本当に、ハビエル・バルデムが出ると、その眉毛の濃さ、髭の濃さが、彼の演技と共に強烈に印象に残るね。
女:顔の話なら、妻役のマリセル・アルバレスの大きな特徴のある「鼻」もよ。
男:映画の中でも、ウスバルがこの鼻に惚れたって言っていたけど、彼女が煙草を吸うシーンでは、鼻を中心に躁うつ感がうまく表現されていた。
女:日本映画やハリウッド映画なら、癌で余命2ヵ月と宣告されると、よくあるストーリーとして、急に善い人に変身して、そこからはもう完全に良いことばかりを描いて「お涙ちょうだい」の話になるのが、監督のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥはかなり違った方向に持っていったってことね。
男:ウスバルの行為として、寒さに震える中国人達に暖房器具を贈ったり、アフリカからきた母親を助けたりするけど、これらは、彼が残りの命が少ないことを知ったための急な善意の行いではなく、もともと彼は、思いやりのある人間だったということも伝わってくるからね。
女:自分は、法に触れる悪いことをしているという自覚は、もともとあったからでしょう。
  貧しい生活の中でも、父親として子供に食事中の礼儀作法を教えているのも、以前からの彼の生活態度のままね。
男:子供たちに、死んでいくことを悟られないでなお父親としての記憶を残しておきたい気持ちはわかる。
女:でも、カメラのアングルは、固定カメラで撮影していない場面が多くて、不安定な気分になって疲れたわ。
男:焦りや恵まれない環境にあるウスバルの気持ちを表すために、カメラを肩に乗せての撮影を多用したようだけど、大きなスクリーンで、安定しないカメラ・アングルが続くと観客としては、気分が悪くなるので、もう少し、固定でのアングルも途中に入れるべきだね。
女:上映時間が、148分と長いのもチットばかり不満ね。
  もっと、短くまとまられたと思うわ。

男:そうだね。
  冒頭の病院での注射器を看護婦よりうまく使うシーンのように、これだけで、ウスバルが薬をよく使う裏の世界に住んでいることがわかる。
女:言葉でなくて、映像で観せるテクニックが他の場面でも必要よね。
男:不要なものとしては、男性中国人のゲイの関係だろうね。
   ここは、相手を殺したりするのを含めて、かなりの場面がカットできるね。
女:でも、あなたは、あまり効果がないクラブでの女性のお尻が、おっぱいの形をしているシーンでは、身を乗り出していたわよ。
男:このシーンは、どうなっているのかと面白かった。
女:逆に死人と交信ができる能力の方は、この描き方では説明不足だったわ。
男:死んでいく父親と残される子供たち。
  華やかな大都会の陰で暮らす人々。
  スペインだけでなく、ヨーロッパの他の国々も抱えている移民が引き起こす社会問題と盛りだくさんの内容を詰め込みすぎかな。
女:でも、言いたいことは、ハビエル・バルデムの濃い演技のおかげで、観ている方にしっかり伝わったてことね。
  観終わってから、あれこれといろいろと話ができる、話題性の多い映画としては成功しているわよ。
  
  ところで、スペインのバルセロナといえば、思い出したけど、貴方は観光で行って旧市街で道に迷ったのよね。

男:エッ、どうしてそんな、嫌な思い出を持ち出すのッ!
女:記憶に残るのは、いい思い出よりも、悪い思い出が多いってことよね。
  他にもあったわね。そう、あの女性との・・・

男:そッ、そんなの思い出さなくてもいいよッ!

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督がミスった;「バベル」
ハビエル・バルデムなら;「ノーカントリー」「食べて、祈って、恋をして」「海を飛ぶ夢」
スペインのバルセロナの観光なら;「スペイン・ポルトガルの旅」

     三銃士 ― ミュージカル ― (帝国劇場)

あらすじ: 英国と一触即発の状況にある1600年代のフランス。元は国王に仕える銃士隊員であった父親の影響で、銃士隊に入りたくて田舎からパリに出てきたダルタニャン(井上芳雄)は、銃士隊でも名をはしているアトス(橋本さとし)、アラミス(石井一孝)、ポルトス(岸祐二)の3人の銃士と出会い、銃士隊の見習いになった。「ひとりはみんなのために。みんなはひとりのために」の合言葉のもと、ダルタニャンも剣の腕を磨き、彼らは徐々に固い絆を結んでいく。そんなある日、ダルタニャンはアンヌ王妃(シルビア・グラブ)の侍女:コンスタンス(和音美桜)に一目ぼれをする。一方、王:ルイ13世(今拓哉)を影で操るリシュリュー枢機卿(山口祐一郎)は、スペインから嫁いできた王妃が邪魔であった。王妃が昔の恋人である英国の貴族:バッキンガム公爵(伊藤明賢)に王から贈られた「首飾り」を預けたことを知った枢機卿は、今はロンドンにある「首飾り」を身に着けて、1週間後の王の誕生日パーティーにでるように王妃をしむける。王妃の窮地を知ったダルタニャンと三銃士は、「首飾り」を取り戻しに、パリからロンドンに向かうが、枢機卿の配下のロシュフォール(吉野圭吾)が行く手の邪魔をする。また、枢機卿に通報する謎の女:ミレディ(瀬奈じゅん)の行動がおかしい。。。

もっと日本的な内容にしてくれるとうれしいが!

 「三銃士」の原作は、フランスの作家:アレクサンドル・デュマ。いままでも、たびたび映画化はされているので、どこかで一度は観た人もいるかも。
最近も、朝のNHKテレビで人形劇として放映されていて、私も早く起きた日には時々観ていた。(再放送、再々放送か?)

 今回、帝国劇場での舞台化のもとになっているのは、2003年オランダで初演され、2005年にはドイツでも上演されたものを山田和也が演出している。
翻訳と訳詩は竜真知子。
舞台上には、いつも大きな3つの剣が立っていて、パリからロンドンへ行く時には、その剣が船のマストにもなるような装置。
オーケストラ・ボックスの前にあるエプロン・ステージも多用している。
休憩をはさんだ3時間を、2幕構成で観せる。

 原作では、ダルタニャンと人妻コンスタンスとの恋愛関係は複雑だが、この演出ではコンスタンスは人妻ではなく、単純に二人の愛も中心に据えて、ダルタニャンを演じている井上芳雄の元気溌剌な歌と踊りが見ものということだ。

 訳の方は、分かり易くていい。
歌われる掛詞でのコンスタンス/ダンスなども原語はどうなっているか知らないが、笑いを誘う。

 しかし、話がヨーロッパにおけるカトリックとプロテスタントの宗教対立や、謎の女:ミレディと三銃士:アトスとの秘められた関係も絡んだ展開のため、これでは、ある程度予備知識を持っていないと筋が分からない。

 特に、ラストで、コンスタンスは毒殺されるは、ミレディも自殺するは、では、余りにも悲劇が重なり、いくら原作を重視しましたとはいえ、後味が悪い出来栄えだ。
ここは、大胆に、ダルタニャンとコンスタンスとのハッピー・エンドに変更した方が観ている人としては、うれしい。

 それにしても、王様や王妃だけでなく、リシュリュー枢機卿がまとう豪華な衣裳は、凄い出来だ。
観客席のかなり後方で観ていても、彼らのガウンや身にまとう宝飾の素晴らしさはわかる凝ったもので感心する。
今回の配役では、闇を感じさせる女:ミレディの瀬奈じゅんが宝塚時代は男役であったことを伺わせない女としての存在と活躍が目立った。
印象に残る驚きといえば、かなり高齢になった山口祐一郎が、いつもは歌わないロックの曲を歌うことにもあるが。

 剣劇の迫力の乏しさ、またミュージカルで華やかさを演出するためによくつかわれる王様の誕生日のパーティでの歌と踊りなど、ひと工夫がほしい構成もある。

東宝ミュージカルのプリンス:井上芳雄なら;「ウエディング・シンガー」
ミュージカルで連続して出ていて休む暇がない山口祐一郎の前作;「レ・ミゼラブル」

     ハリー・ポッターと死の秘宝 PART-2 ―3D版― 

あらすじ: 魔法界でハリー・ポッター(ダニエル・ラドクリフ)と激しく敵対するヴォルデモート卿(レイフ・ファインズ)をやっつけるには各地に散らばっている分霊箱を破壊することだとわかったハリーと親友のロン(ルパート・グリント)そしてハーマイオニー(エマ・ワトソン)は、分霊箱探しの旅にでていた。偽ってヴォルデモートの仲間になっていたスネイプ(アラン・リックマン)が死に際に残した涙などから、ハリーは自分自身がヴォルデモートの1つの分霊であることを知り、ホグワーツ魔法魔術学校に戻り、仲間達と最後の戦いをするが、ニワトコの杖を手に入れたヴォルデモートの巨大な力の前に多くの犠牲者をだし、ハリーもついにやられてしまう。しかし、魔法界を守ろうとするハリーの仲間たちの必死の助けで、生き返るハリーはヴォルデモートを倒すことができるのか。。。

長いけど、まったくつじつまの合わない話ばかりでは、がっかりだ!

 2010年 11月に公開された、「死の秘宝 PART-1」の続編である。
世界的なベストセラーとなったジョアン・K・ローリングの原作で、映画の方も2001年に第1作の「ハリー・ポッターと賢者の石」が大ヒットしており、ついにこの公開で最終作品となるとのことだ。

 ハリー・ポッター・シリーズは、その話題性から、映画ファンとしてのおつきあいで観てきたが、それらの内容が途中から、あまりにも他愛のないファンタジーだけの子供向けでつまらなくなり、観なくなった。
が、たまたま前作のPART-1では、子供向けから脱した恋愛関係や複雑な家庭環境も描き楽しめたので、高い3D(立体)での料金を払って観る。

 しかし、今回の「PART-2」の物語としての内容はバラバラで、観終ってから、この映画のあらすじを書くために各場面を思い出していくわけだが、結末に向かってどう話がつなぎあっていたのかわからずすごく苦労した。
確かにハリー・ポッター・シリーズのファイナルとして謎の存在であった殺されたハリーの両親や、世話になったホグワーツ魔法魔術の校長など様々な人物も出さなければならないのかも知れないが、これでは全体の展開の中で脈絡を欠き過ぎて、纏まりがない。

 そして、多くのエピソードも盛りだくさんにこれでもかと入れすぎだ。
変な地下金庫からドラゴンで脱出したり、スネイプがヴォルデモートに殺されたり、ロンとハーマイオニーがキスをしたり、ゴーストの寂しさに付き合ったり、隠し部屋を爆発させたりと、子供だましのような映像が、ただただ続く。

 子供向けのファンタスチックな本としては、各章ごとに盛り上げるエピソードがないとページ数が稼げないから、だらだらとした構成をとって、続きはまた明日でもいいが、大人が観ている1本の映画とするには、それらを、結末に向けて繋いでくれないと、観るに値しない。

 それにしても、前のPART-1では、ハリー・ポッターとハーマイオニーの恋にロンが焼きもちを焼いていてこの行方が楽しみの1つだったのに、PART-2では何の説明もなく、簡単に、ハーマイオニーとロンが仲良くなり結婚までに進展し、ハリーもちらっと出てくる別の女性と結婚している。
これでは、3人の恋のさや当て方の新しい展開を期待していた私としては、あまりにも安易な扱い方で「冗談ではない」と大いに憤慨している。
監督がPART-1と代わったのかと調べたが、同じデヴィッド・イェーツでは、なおさら、前の作品での描き方との整合性を疑うつくりだ。

 他の場面でもつくりが本当に荒くてガッガリする。
階段や廊下を右往左往し行き来する生徒たちが無駄に騒がしくひねりのない戦闘シーン。
昔の恋人に対するスネイプの慕情を表現できていない場面。
まったく不気味さが無くなったヴォルデモートの存在とそのお粗末な魔法力。
死の秘宝とされる3つの「杖」「蘇りの石」そして「透明マント」の説明不足。特に「杖」は持主が変わると杖の忠誠心が持主の魔法の威力の差になっているらしいが、このあたりは、他の場面をカットしても、もっと丁寧に扱ってくれないと、130分の上映時間が無駄になる。

 付け加えると、ハリーとヴォルデモートの決戦の場所に、いつの間にか優しい巨人が捕らえられていたり、苦労してやっつけたハリーの死を確認しない間抜けのヴォルデモートを大げさに闇の帝王と呼ぶのでは、本当に「おとぎ話」の粋をでない、他愛のない作品だ。
9年後にハリーたちが各々結婚し、また彼らの子供たちが魔法魔術学校にはいるのが最後のシーンになるが、この描き方では、子供が寝る前に母親が読んでくれる絵本の「みんな楽しく暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」で、映画としては成長のない魔法使いだった。

 話題性ばかりで、またまた大きく期待を裏切る出来だった。こんな内容では、終わって当然か。

*3Dで観る必要性もありません。
 3D(立体)版は、通常料金の他に¥400を取られます。
でも、前に別の3D映画を観たときに、3Dメガネは¥100の買取だったので、今回は¥300をプラスして3D版で観ましたが、これがほとんど立体感がなくて金を返せの世界です。
 あの、「アバター」でジェムス・キャメロンが観せてくれた、画面全体に渡る奥行きがまったくありません。
 これなら、普通の2D版の方が、画面も明るく、眼も疲れず、よっぽどいいようです。

前作;「ハリー・ポッターと死の秘宝 PART-1」
立体映画なら; 
「アバター」

     小川の辺 (おがわのほとり)  

あらすじ: 時は江戸時代。東北の小藩での物語。剣の使い手として名高い戌井朔之助(いぬいさくのすけ:東山紀之)は、家老(笹野高史)に呼ばれ、藩の失政を正して、脱藩をし、江戸の近くの行徳付近に逃げている佐久間森衛(さくまもりえ:片岡愛之助)を討てと命じられる。武士として藩命とあれば逆らうことはできないが、佐久間森衛は朔之助の親友であり、剣の道でも互角であった。また、佐久間は、朔之助の妹:田鶴(たず:菊地凜子)の夫でもあった。佐久間を討てば、幼いころから男勝りに剣を学んできた田鶴が、朔之助に挑んでくるだろうと悩む朔之助であったが、二人を探しに奉公人の新蔵(勝地涼)と共に旅に出る。どうやら突き止めた佐久間と田鶴の家は、東北の故郷を偲ばせる小川の辺にあった。田鶴が留守の間についに剣を交える朔之助と佐久間。そこへ、田鶴が戻ってくる。。。

淡々と描いたといえば聞こえがいいが、不条理に対するメリハリのない退屈さだけが残る!

 原作は、「たそがれ清兵衛」や「必死剣 鳥刺し」など数々の映画化された作品がある藤沢周平の短編があり、監督は、篠原哲雄。

  短編を原作にしているというが、この映画で取り上げる内容は多く、それらが観ていても感情に響いてこない。
脚本として、一体どこに主題を置いたのか、分からない展開だ。

 言いたいと思われることは多い。
江戸時代の武士階級における、例えその命令が、どんなに納得のいかないものでも殿様の命令には絶対服従しなければいけないことに対する批判なのか。
それとも、親友と闘うことの辛さか。
また、殺さなければならなくなる妹に対する家族としての思いやりか。
はたまた、妹を慕う奉公人の切ない気持ちか。

 この脚本では、藤沢周平の作品では、もう何度となく取り上げられた、古い日本人のこれらの感情を充分に消化しなくて、画像として流しただけである。
そして、画像にする際に監督は、江戸時代の時代考証に欠けている。
例えば、東北から江戸への追跡の道筋でも、多くは山道を背景にしていて、後ろを通る旅人が、女性だけとか、明るい夫婦連れが出てくるが、当時は町民が旅をすることは容易ではなく、特に女性だけで旅をするなんてことは、簡単でなかったことを知っていると、この苦労知らずの雰囲気の現代感覚でのエキストラの使い方では、朔之助の回想話にも、身が入らない。
また、朔之助達が寺に泊まるのもおかしな設定だ。

 大体、他の男性との結婚を前にした貞操の固い筈の武家の娘が、慕っていた奉公人の前で大胆に「すきにして」と裸になることの必然性も考えられないし、奉公人が好きでも結婚した相手ならその夫が殺されれば、例え、兄であっても剣を交えるという体面だけの設定には、この程度の夫婦関係でここまでやるかと、観客としては、納得がいかず、面食らうばかりだ。

 タイトルにもなっている基本となる、逃げている二人が暮らしている「小川の辺」のロケ地とセットがひどいのも、できの悪さに追い打ちをかける。
江戸の近くで、渡し船に乗ってこの「小川の辺」に来ることになっているが、あばら家がある一画だけの映像で清流がそそぐこの設定には、平らな関東平野でそんな場所はどこかと想定に無理があった。

 さらに、朔之助と佐久間の殺陣(たて)も迫力がないし、朔之助に小川に突き飛ばされる田鶴が次のシーンをまっている演技は、もうなんと下手な女優と呆れるだけだ。

藤沢周平の作品が持っている、ほのぼの感やしみじみ感が全然でていない作品だった。

 裸だけが目立つ菊地凜子の;「バベル」
 藤沢周平の映画化なら;「たそがれ清兵衛」「必死剣 鳥刺し」「武士の一分」

     スーパーエイト  

あらすじ: 1979年の夏。アメリカの片田舎。最近母親を工場の事故で失い、保安官代理の父親と二人で暮らしている少年:ジョー・ラム(ジョエル・コートニー)は、学校の仲間たちと8ミリ映画を作っていた。新しくヒロインとして迎えたアリス(エル・ファニング)を加え、6人で、夜の駅でのシーンを撮影していたら、通りかかった貨物列車にジョーの学校の先生が車で衝突して、大事故となった。その貨物列車の頑丈なコンテナには、空軍が隠している”何か”が積まれていて、事故の際逃げてしまったが、ジョーたちの8ミリ・フィルムには、その”何か”が映っていた。空軍は、住民たちにその正体を知らせずに追跡をしていた。しかし、町では多くの人間や犬がいなくなり、ジョーの父親も軍とは別の捜査をする。”何か”が巨大な力で動き出す。。。

女:所詮、説明できないものは、見せないという、引っ張りだけがある映画なのね !

男:チラシや予告編では、映画の内容がはっきりしなかったね。
  チラシが強調するのは、製作があの巨匠スティーブン・スピルバーグで、監督はJ.J.エイブラムスで、二人の過去の作品の「未知との遭遇」や「E.T」に「M:i:Ⅲ」や「スタンド・バイ・ミー」を混ぜたような内容ってことになっている。
  最終的な出来ばえは作ってみないとわかりませんが、ともかく、この二人がやるなら期待できるでしょうって宣伝だ。
女:その、巧妙な宣伝にのって、不可解な展開が繰り広げられる内容の無い映画をみてしまったわけね。
  予告編からは、貨物列車の事故で”何か”が街の中に出てきて、それは多分「地球外生命体」とは、「未知との遭遇」や「E.T」を宣伝に使っているので想像はしていたけど、これでは、ほのぼのとした「E.T」のイメージに人間を襲う凶暴な存在の「エイリアン」も付け加えるべきね。

男:人間を食べているけど、子供たちとは心を通じ合えて、故郷に戻りたがっている鋼鉄製の食人鬼「エイリアン」とは、もう無茶くちゃな設定であきれる。
女:本当に、過去に作られたいろいろなSF映画から、適当にあちらこちらをパクってきた荒っぽいつくりの映画よね。
  この宇宙からきた”何か”は、空軍に長い間捕えられていたわりには、外に逃げてからは戦車を操縦不能にして暴走させたり、暴発させたりとその破壊力はものすごいのよね。
 こんなに凄い怪物なら、よくも長い間おとなしく捕まっていたと、誰でも不思議に思うけど、作っている人は、全然おかしいと思わないのね。

男:この”何か”にさらわれた女の子は、もう、当然それに食べられていたと思っていたら、都合よく食べられる直前に救われるし、おまけに大人の保安官もまだ生きていましたでは、観ていて、「おいおいそれはないだろう」って突っ込めるね。
女:突っ込みで思い出したけど、最初の違和感は、学校の先生が自動車でかなりのスピードで貨物列車に突っ込み、正面衝突しているのに、生きているのも、考えが浅い脚本よね。
  ただ貨物列車を脱線させるのが目的なら、自動車を線路に置き去りして、本人は逃げればいいわけで、別に突っ込む設定でなくてもいいでしょう。

男:その先生の乗った自動車が貨物列車に体当たりをするシーンだけど、予告編での詳細が、本編ではカットされていなかった?
女:この程度の映画じゃ、そこまでは注意してみていないかったわ。
男:それから、その先生が、昔は空軍にいて「宇宙人」の研究をしていたという白黒フィルムも暗いし、状況がよくわからない。
女:小さなキューブの説明も不足ね。
男:何か曰くのありそうな物をだすならちゃんとその意味を観客に示すのは、映画製作では当然だけど、この監督は省略していてわかっていない。
  自分の頭の中だけでわかっていても、観てる人に対しては映像で説明が必要だ。
女:多くの自動車からボンネットも壊されずにエンジンだけが盗まれるのは、細工として下手ね。
  自動車のエンジンを盗んだ後に、またボンネットを傷もなくきれいに閉めているなんて、明らかに、人間の仕業としか思えないやり方でしょう。
  この”何か”なら、ここまで丁寧なことをする必要性もないし、またできないわよね。

男:それなら、最後の「鉄製」のものを全部吸収するタワーの描きかたは、もう完全についていけない無理な話だよ。
女:どうして、母の形見のペンダントが、引っ張られるのかも含めて音だけが大きないい加減なシーンね。
男:人物の関係でも、反目する父と娘や、誤解している保安官と工員などが、簡単に和解しわだかまりがなくなるのも、これなら、いつものパターンでシーンとして入れる必要がないね。
女:それにしても、いつまでたっても正体不明で、周りの小物を使って存在を示すけど本体は画面にはっきりと表れない「宇宙人」の描き方は、シャマラン監督が何度も使って不評だった手のマネね。
男:この映画で取り上げるなら、「アイ・アム・サム」で評判が良かったダコタ・ファニングの妹のエル・ファニングだろうね。
女:まだ、まだ監督の言いなりでやっている小娘の演技を特にいうことはないでしょう!
男:きみは、どうも若い娘のこととなると、いつも厳しいね。
女:何か言ったッ
男:いや、何も

この映画と似たようなSFで、つまらないM.ナイト・シャマラン監督の;「ハプニング」「サイン」
ダコタ・ファニングなら;「アイ・アム・サム」
「宇宙戦争

     風と共に去りぬ  (帝国劇場)

あらすじ:舞台はアメリカ。南北戦争が始まろうとしている1861年。南部のジョージア州アトランタの近郊の土地”タラ”で大きな農園を経営するオハラ家の娘:スカーレット(米倉涼子)は、その美貌と勝ち気さで園遊会でも飛びぬけて男性達からもてていた。スカーレットは、密かにアシュレイ(岡田浩暉)が好きだったが、アシュレイは、おとなしいメラニー(紫吹淳)と結婚し戦場に向かう。その反発から、スカーレットもメラニーの兄チャールズと結婚するが、チャールズはすぐに戦死し、未亡人となったスカーレットに、自由・気ままな生活を送っている、レット・バトラー船長(寺脇康文)が近づいてくるが、レットも南軍の窮状を見かねて戦争に加わり、スカーレットは、戦争で荒れた”タラ”に戻り、タラを何とか復旧させようと努力する。南北戦争も終わり、勝った北軍から重い税を課せられたスカーレットは、南軍の軍事費を横領したとの噂があり北軍に捕えられているレットを訪ねるが、さすがのレットも牢屋にいては、金策はできなかった。そこで、金を持っている妹の許婚のフランクを略奪し、どうにかタラの税金は払えたが、フランクも暴漢に殺される。そんな時に現れたレットの優しさに負け、未だにアシュレイを忘れないまま、スカ-レットは、レットと結婚するが、どこか二人の生活は、しっくりとしていなかった。そんな二人の仲をかろうじて結びつけていた、娘:ボニーが馬から落ちて亡くなると、二人の間の亀裂は決定的になった。アシュレイへの想いもメラニーの死で、幻想であったことを知るスカ-レットだったがもうレットの愛は冷めていた。失意の中、故郷”タラ”だけが、スカ-レットが落ち着ける場所だった。。。

前半はかなり面白いが、後半は感動に至らない !

 原作はマーガレット・ミッチェルで、その舞台版だ。
舞台化での元の脚本は、今は亡くなった菊田一夫で、今回の舞台化では、堀越真が潤色し、演出は山田和也とある。
初演は1966年のこの帝国劇場で、そのスケールの大きさと長編のため舞台化は無理と思われたが、菊田一夫は、最初からこの壮大なスケールの「風と共に去りぬ」の舞台化のために、帝国劇場の改築を想定していたというほどの入れ込み方で、版権もとり、ミュージカル版も2001年や2003年に上演されている。
多分、私も定かではないが、どちらかは観ていると思う。

 「風と共に去りぬ」とくれば、もう、映画ファンなら、知らない人はいないといってもいいほどの、ビビアン・リーがスカーレットに扮し、クラーク・ゲーブルがレット・バトラーを演じたあの超名作・超大作「風と共に去りぬ」があるので、どうしてもその映画との比較になるのは、許して欲しい。

 舞台構成は、2幕構成で、1幕目は、アトランタの炎上までで、休憩を挟み、2幕目は牢屋のレットをスカーレットが訪れるところから始まる。
今回は、夜の部を観たが、午後6時から始まり終わりは9時10分とこれも映画並みに長時間の舞台だ。
さすがに元は菊田演出と感じさせる舞台の切り替えで、無駄もなく、セットの流れもいい。
映画と同じようにクライマックスとなる、アトランタの炎上は、どうしているかと興味深々だったが、ここは、現代的に、電飾をうまく使って炎上の効果を出した。

 主演のスカーレットを演じた米倉涼子は、随分と奮闘している。
広い舞台でも、白い肌が美しいし、表情や演技またセリフもしっかりしている。
彼女が纏う衣装も綺麗だ。

 相手役のレットの寺脇康文は、キザさと豪放さがもう少し欲しいところだが、このスカーレットが中心の演出ではそれほど期待されない扱いは仕方ないか。

 舞台では、映画のように表情のアップができ無いために、どうしてもセリフが決め手となるが、この演出では、宝塚歌劇の延長線上にあり、かなり物足りない。
特に後半に入り、スカーレットとレットが結婚してからの愛と嫉妬の表現が訴えてこない。

 また、産まれ育った土地”タラ”が父親のセリフと共に繰り返して出てくるが、ここの演出が残念な出来となっている。
2度目、3度目では、そのままの繰り返しではなく、省略した演出でいい。
そして、映画との比較になるが、”タラ”のテーマ音楽の出来の違いが明確になった部分だ。
映画での大きな木と壮大な”タラのテーマ”の印象がどうしてもあり、この演出では、タラがスカーレットを優しく包み、最後に戻る場所であるとの感動まで持っていけない。

 映画との比較といえば、映画では黒人の召使でありながら厳しく上流階級の教育をするマミーとどこか抜けたその娘プリシーの存在感がかなりあり、この二人の言動で、観ていても緊張がほぐれていたが、舞台では、二人が活躍していないので、気休めがないのも、メリハリのない気分にさせたようだ。

 正しく、長く、壮大な”グランド・ロマン”で演じるのは大変だと思うが、後半部には、再考が欲しい演出だった。

 それにしても、1939年という昔に、全編カラーでこの壮大な映画「風と共に去りぬ」を作り上げたアメリカの映画界の力と、主演したビビアン・リーの美しさと良く動く表情。威厳のあるクラーク・ゲーブルの演技の素晴らしさに、またまた、ビデオを観て感激しました。

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あらすじ:時は、1971年。今は大手の東都新聞社でやや暇な週刊誌の記事を書いている若手社員の沢田雅巳(妻夫木聡)は、彼の学生時代に盛んであった学生運動やヴェトナム反戦運動に直接参加しないでいた自分に対して、どこか後ろめたい気分を持っていた。そんな時、梅山と名乗る学生運動の活動家(松山ケンイチ)が、武装決起するとの情報があり、彼に接触するが、どこか海山の話は口先だけのようで信用できなかった。しかし、梅山は、本当に武装決起を考えており、自衛隊員を仲間にして、駐屯地から武器を盗もうとするが、警護の隊員に見つかり、武器を奪うことができないばかりか、その隊員を殺してしまう。梅山からの接触で殺人の証拠の腕章を預かった沢田は、スクープとして新聞社の上司に相談する。社では、梅山の行為は「思想犯」ではなく「殺人者」と判断され、沢田も居場所がなくなる。。。

無駄にカット割りが長くて、間延びする!

 今は、定年退職者となり、平凡に(?)暮らしている64、5歳の人も、大学生の頃、学生会館の自主管理で大学側と揉めたことや国会議事堂前のデモ行進や街頭でのヴェトナム反戦運動、反安保闘争など大学内で渦巻いていた、あの「青春のエネルギー」は未だに体のどこかに隠しているでしょう。
また、東大の安田講堂に立てこもった全共闘に対する放水と催涙ガス。そして、機動隊の突入のテレビ中継はみていたことでしょう。

 当時のその「なんでも出来ると思っていた若さの渦」の中に入って行けなかった、また入らない方向を選んだ私としても、どこか、この映画での沢田が感じているように「そこまでは熱中できない自分」の思いは今もある。

 そんな気持ちから、私の青春時代へどう遡っているのか興味で、映画館に足を運ぶ。
しかし、この映画は話の展開とまとめ方がよくない。

 上映時間が141分と長いのだけど、これは、1つ1つのカットが無用に長いせいである。
例えば、クライマックスである自衛隊員が殺されるシーンにしても、血が流れて、死んだと思わせるまでに体を引きづるが、こんなに時間をかけなくても、死は示せる。
また、沢田と梅山の密会場所として沢田の住んでいる離れや、梅山と自衛隊員が会うホテルがでてくるが、ここは、どうして家族のある沢田が離れに一人で暮らしているのか、金のない学生運動家がどうして金のかかるホテルを密会場所に選んだのかなどの説明が必要と思われるのに、唐突に展開されていて、大いに戸惑う。
それにしても、週刊誌の表紙を飾るカバー・ガールと沢田の淡い付き合い方の扱い方は、不完全燃焼すぎる。
この程度の話なら、もう女優を出さなくてもいい。

 同じ新聞社での週刊誌担当と新聞の社会部担当の記者間の軋轢もあるが、所詮、本当は「社会の味方」ではないのに、思い上がったエリート・ジャーナリスト内部の意識の表れであり、そして、これはよくある話でさらに退屈だ。
出だしのヤクザみたいな人物も分からないまま最後にいい人として出てきたり、京都大学の全共闘の幹部を含めて、ここまで、訳ありの人々を多く出すなら、もっと説明を丁寧にしないと人物相関図も分からない。

 必要な場面の説明が不足しており、その割には、不要な場面の説明が長く、これでは、私の青春を顧みることのできない作品だった。

妻夫木聡なら;「悪人」

     アジャストメント

あらすじ:ニューヨーク出身で幼い頃から苦労してきた下院議員のデヴィット・ノリス(マット・デイモン)は、将来は大統領との期待もあり、上院議員として出馬したが下半身露出のスキャンダルがたたり落選し、次の機会を狙っていた。そんな時、男子トイレに逃げ込んでいたバレリーナ:エリース・セラス(エミリー・ブラント)とバスで再び出会い恋に落ちるが、二人の恋は、人類の歴史を「操作」している超組織「調整局=アジャストメント・ビューロー」のミスによるものだった。ミスを訂正する調整局により、二人の仲は裂かれるが、デヴィットのエリースに対する強い恋心は募る。しかし、調整局は認めない。彼を担当する調整局員の協力を得たデヴィットとエリースの恋はどうなるのか。。。

漫画と同じように”どこでもドア”で、ニューヨークの観光ができます?

 有り得ない話もSFだからといってしまえば、それで納得する観客もいるだろうが、この出来映えでは、「オヤオヤ」という感覚での矛盾の方が目立ってしまい、観ていてもスッキリしない。

 話の基本となっている「(運命)調整局」が、超人類的な存在で、本来ならそれは、凡人には見えない存在でなお単独の「神」であるようだけど、それを現在の団体に近い組織に置き換え、トップには「神」を前提とした正体不明の議長がいて、議長だけが人生の設計図を変更でき、その下に、実務を行う局員がいるということは、想像の世界である本の中なら面白いが、スクリーンで見せなければならない映画となると多くの部分で、「これは変だぞッ?」となり鑑賞していても内容に集中できない。

 どうして、過去から全人類をコントロールしてきた大きな組織の本部が、アメリカという一地方にあり、現実の存在として活動する局員は現代的に「帽子」をかぶり、「雨や水」があると「操作」ができなくなるということは、余りにもローカルなアメリカ人だけをを相手にしていて残念な設定だ。
それに、最終的に「愛はすべてに勝つ」のも、「恋愛至上主義」が好きなハリウッドとアメリカ人だけを対象にした空想の物語で、これでは、他の国でも障害を乗り越えた多くの恋愛があるわけで、アメリカでの1つ恋愛を「操作」できない調整局なら、もうその存在そのものが世界的にみるとあっても意味がないものである。

 そもそも、全人類を監視し操作しているような超巨大な見えない組織は当然に緻密に行動していなければならない筈で、それが、人間にありがちな「ミス」をしたということも、考えにくい。
そんな組織なら、人類は恋愛だけでなく「自分の運命は、自分が切り拓く」ことが常にできてきたわけで、いまさら、存在していても、いなくてもいいことになる。

 世界大戦やユダヤ人への大虐殺など、近代だけが人類には任せておけない時代だと原作者であるフィリップ・K・ディックは言っているらしいが(?私は原作を読んでいないので、また、こんな駄作なら読みたくもないので)、それ以前の人類の歴史にしても、戦いはあり、多くの人々は虐殺されて居るわけで、作者のここらの歴史認識は、甘すぎる。

 ニューヨークのあちらこちらのドアを開くと、自由の女神、野球場など、好きな場所にいけるのだなーと感心はした。

最近多くの映画にはでている、マット・デイモンの;「ヒア アフター」「トゥルー・グリッド」「グリーン・ゾーン」
厚化粧がいただけない、エミリー・ブラントなら;「サンシャイン・クリーニング」
「ブラダを着た悪魔」

     プリンセス・トヨトミ

あらすじ:会計検査院でも厳しい調査をすることで有名な、笑った顔を見せた事がない調査官:松平元(堤真一)とその部下:鳥居忠子(綾瀬はるか)と新人の旭ゲーンズブール(岡田将生)の3人が、東京から大阪の空掘商店街にある財団法人:大阪城跡整備機構(OJO)」の調査にやってきた。会計帳簿や電話での確認など調査は問題なく進んでいたが、OJOの向いにあるお好み焼き屋「太閤」で3人がお好み焼きを食べていて、OJOから昼になっても、職員が誰も出てこないことに気がついた松平がOJOを訪れると、調査の時には、20人近くいた職員が一人もおらず、机の中は、事務用品もない不思議な事務室だった。時間を変えてOJOを再び訪れると、職員もいたが経理担当の長曽我部(笹野高史)の説明がおかしい。問い詰めると、お好み焼き屋「太閤」の主人:真田幸一(中井貴一)が現れ、真田が「大阪国総理大臣」だという。実は、大阪では、徳川に滅ぼされたとされている豊臣家の末裔がその後も大阪商人の援助で生き延びており、明治維新でも、薩長連合に大阪商人がお金を出すことと引き換えに、大阪の独立を認める秘密の条約があったのだ。この条約の下、大阪独立国の秘密組織ができ大阪の男性は、豊臣家のお姫様を影ながら守る約束を父親から息子へと伝えてきたのだ。しかし、今回の調査でその存在が、明らかになると困る大阪の人が動き出した。。。

女:それが、だいたい、何んなのっ!?

男:あらすじを書いていても、説明が長くなり話が流れていかないなァ。
女:タイトルが「プリンセス・トヨトミ」ってことだけど。
  元気な男勝りの女の子が一人出てくるけど別に彼女が、プリンセスってことは映画でははっきりと言っていないわよね。

男:確かに、映画の展開とこのタイトルとはあまり一致していない。
  あいまいな存在であるトヨトミのお姫様を、これまたあいまいな大阪の男だけの秘密組織が、ゆるく、ゆるく見守るでは、観ていても、面白くない。
女:それよね。
  何を求めて作っているのか、この映画のテーマが分からないのね。
  父親と息子の関係か、大阪人の独立心か、会計監査院の活動か、豊臣家の末裔のその後か。
  それと、笑わせたいのか。
  本当に、話がばらばらでまったくつかみどころがないとは、このことよね。

男:つかみどころはなくても、突っ込みどころは、一杯ある映画だね。
  その他にも、あらすじが長くなるので省いたけど、真田の息子は、女の子になりたくて、学校へセーラー服を着ていって、いじめにあう話もある。
  いくら、大阪でも、ここまで劇的にやるかって気持ちになるね。
女:訳の分からないついでに、富士山麓の白い十字架も最後に絡んでたわよ。
男:映画にするにあたって、原作から、どこを抽出してどう処理するのか。
  また、布石をおいて、これらをメインの設定とどう絡めていくのかが、この監督:鈴木雅之には理解できていないようだね。
女:かなりの布石を、回収しないで、あちらこちらに置きっぱなしにしたってことね。
  それにしても、この製作に、フジテレビと大阪の関西テレビも関係している割には、大阪の人の描き方が足りないのよね。

男:エキストラとして大阪の人々も多数参加したようだけど、大阪らしいのは、エレベーターで松平たちと乗り合わせる、おばちゃん達だけだ。
女:はっきり言って、配役のミス?
男:中井貴一を指しているのかい?
女:もっと、あくの強い関西人を配しないと、秘密組織を引っ張っていく演技は出来ていないわね。
  中井貴一にしても妻役の和久井映見にしても、大阪のおっちゃん、おばちゃんとは「ちゃうわね」。

男:父親と若い頃の息子との関係は、基本的に対立し、反抗し父親の意見なんて聞かないで成長する。
  そして、自分も年齢を経て父親になり初めて、あの時の父親の言葉の意味が分かる。
  それを、こんな、長い地下の廊下で歩きながらの演出では、ピンとこない。
女:男だけの秘密組織がちょっと動いただけでチラシにあるような、「大阪が全停止」も大げさすぎるわね。
男:綾瀬はるかが、無人の大阪を走り回っても、背景よりも、胸の揺れの方が気になるなぁ。
女:大したものね。
  貴方は、面白くない映画でも、何か印象に残すのね!

男:それは、褒めているのかい?
女:飽きれているだけよっ。
男:うっ・・・

関西を描いた;「阪急電車」
堤真一の;「SP 野望編」
綾瀬はるかは;「ハッピーフライト」
最近、いい映画にでている岡田将生の;「悪人」「告白」「瞬」

     パイレーツ・オブ・カリビアン -生命の泉-   3D 字幕版

あらすじ:カリブの海を荒らしていた海賊:ジャック・スパロウ(ジョニー・デップ)は、持っていた船を無くし、ロンドンに潜んでまた海にでる機会を狙っていたが、前は同じ海賊でありながら今はイギリス海軍の将校になっているバルボッサ(ジェフェリー・ラッシュ)に捕まり、ジャックが持っている地図の「永遠の命」もたらすと言われている「生命の泉」への案内をさせられることになる。一方、冷血な海賊として恐れられている黒ひげ(イアン・マクシェーン)も、2週間以内に死ぬとの予言を受けて娘:アンジェリカ(ペネロペ・クルス)と共に、「永遠の命」を求めていた。さらに、イギリスと敵対しているスペインの軍隊も「永遠の命」を探していた。「永遠の命」は、孤島にある「命の泉」で、二つの「聖杯」にその水をそそぎ、1つには、「人魚の涙」を入れて、二人が一緒に聖杯を飲めば、片方の命が、もう一人の方の寿命に加算されるのだった。苦労の末「聖杯」を手に入れ、凶暴な人魚も捕まえが人魚は泣かず「涙」がない。「命の泉」で、ジャック、黒ひげ、パルボッサとスペイン軍も交えた戦いが始まる。。。

中途半端なものを多くつなぎあわせても、面白くはならない!

 本当なら、このパイレーツ・シリーズも、前の3部作で終わったはずだったのが、ハリウッドも日本映画界と同様に、新しい映画の企画力に乏しく、なんとか、無難に観客を呼べる方法はないかと安易に思案し、それなら、とりあえず、今ならジョニー・デップを主役にすれば客は入る。そこで、特に目立った企画が無いなら、題名は、一応評判だった「パイレーツ」の続編にして、嫌がる(?)監督:ロブ・マーシャルに、かなり高額な監督料(想像です。)を払って上映時間だけは長くするようにして作らせたということが、見事にわかる宣伝だ。

 また、これも、本当なら2Dであった撮影も、「アバター」以来世間の噂を呼ぶ1つの手として3D(立体)でも上映します。これで、さらに余分なお金を取れるというたくらみもある。

 これら製作者の意図は充分に分かっていても、作品の出来は残念ながら観てみないと分からないため、映画ファンとしては、通常料金に プラス¥400-のお金を払って、3Dで観てしまった。

 その出来は?
 ここまでくると、もう大人の持つ映画を楽しむ領域を大きく超えて、他の映画から借りてきた、未消化で悪ふざけのオンパレードとなるだけだ。
冒頭のジャックが裁判官に成りすますことから始まり、現代版の映画で良くあるカー・チェイスを、時代を変えて馬車に置き換えただけの話。
だいたい品の無い元海賊が、イギリス軍で指揮をとるとは、見過ごしてよという冗談にしても、これは飽きれる。
ジャックだけが高い断崖から飛び降りるのも、必然性が分からないし、人魚は人を食いちぎるほど凶悪で海を自由自在に泳げるのはいいとしても、空も飛べるし、水が無くなれば、いつの間にか人間の足になっているけど、いつも「おっぱい」は隠れているでは、絵本の世界だ。(ここは、かなり男としての感想ですが。)

 他にも、聖杯が置かれていたことになっている崖の途中にある船そのものも、どうしてこんなふざけた所にあるのって感じるし、その船内でのシーソーは、既にもっと優れて面白い内容をチャップリンの映画で観ていて別にドキドキしない。

 映画の面白さは、主役の活躍だけでなく、脇役も重要であることは言うまでも無いことです。
この映画なら主役と対照的に黒ひげを描くこと、そう宣伝にあるように、黒ひげを凶悪で冷酷だというならもっと凶暴性を強調して描かなければならないのに、そこは、ディズニーとして、お子様にへつらう意識からか、それらも無い。

 さらに、ペネロペ・クロスがその冴えない黒ひげの娘として、また剣の達者な女海賊ということで出ているが、チャンバラのシーンが刃音ばかりするこの程度の演出では、真剣勝負とならない。彼女は、修道院の尼さんになるはずが、ジャックを愛したために、道を間違えたというのが少しばかり大人向けといえるが、この程度ではとるに足らない。

 ここまでくると、もう完全に荒唐無稽の作り物の、たまたま船に乗り合わせて命が何となく助かっている宣教師と、いつの間にか聖杯が重要と知っている人魚の恋の方がかえって印象に残る。

 おっと、聖杯とそれを求めて、追いつ追われる展開なら、海賊ではなく、陸での「インディ・ジョーンズ」と同じではないか。

 ジャックの人形を痛めつける話など、これでは、前作の「パイレーツ・オブ・カリビアン」と同様に、お子さま向けの話ばかりでディズニー・ランドのアトラクションでしかない。
もっと、大きな命のテーマと煮詰めた筋をもった内容でなければ、途中で何度も眠たくなる映画だった。

*おまけ:3Dの効果は?
 黒ひげの剣だけが、立体的で、他は単調です。これで、プラス ¥400-はふんだくりだ。
 2Dで観ても充分でした。
 なお、TOHOシネマズでは、3Dメガネは、今回から、買い取りになり、返還しません。
次回からは、3Dメガネを持参すれば、¥400-から¥100-を引いてくれ、¥300-で3D映画が観られるというけど、ブラーッと映画館に行く人は、3D眼鏡を持っていかないよね。
 それなら、¥300-にして、毎回回収システムの方がいい。

だんだん行き先が分からなくなるジョニー・デップの;「ツーリスト」
前の;「パイレーツ・オブ・カリビアン」
ジェフリー・ラッシュなら;「英国王のスピーチ」

忘れていました。監督:ロブ・マーシャルの冴えない;「NINE」 と 良かった「CHICAGO」

     岳 -ガク-

あらすじ:長野の県警に勤務する椎名久美(長澤まさみ)は、山で亡くなった父親(石黒賢)が山岳救助隊の隊長であった影響を受け、自ら志願して、野田(佐々木蔵之介)が率いる県警の山岳救助隊に入る。その北アルプスでは、警察の山岳救助隊以外にも、世界の山を知っているボランテイアの島崎三歩(シマザキ・サンポ=小栗旬)がいて、山岳救助の助けをしていた。三歩は、山をこよなく愛し、遭難した人を責めることなく、「元気になったら、また山においでよ」と優しく声をかける青年だった。新人の久美は、登山や救助の方法を隊からだけでなく、三歩からも教えられる。そんな冬場、急激な天候の変化で猛吹雪となり多くの人が遭難し、新人の久美も救助に向かうが遭難者と共にクレパスに落ちる。二次遭難の恐れがあるなか、三歩が現場に向かう。。。

撮影の裏話の方が、よっぽど面白い?

 ロケ地となった、日本アルプスの山々を背景にした景色が実に美しい。

 だけど、この話のような、次々と迫りくる危機とそれらが都合よく解決される展開は、どこかで観た退屈な映画があったような気がする...
そう、海でのあまりも間延びした危機を描いていた、あの「海猿」だ。
「海猿」のシリーズが一応終わったので、今度は、海から山の遭難救助に置き換えて作ってみました。
山での評判が良ければ、何とか「山猿」としてシリーズにしたいって程度の甘い発想が見えている。

 原作は同じ題名の漫画があるようだが、このストーリーの展開では、不自然であってもなんら問題にならない、結局「漫画」の世界でしか通用しない。
山のスペシャリストも市街地では道に迷い、遭難死した父親の代わりに授業参観に出席したり、死亡事故があっても平然と大盛りのナポリタンを食べる神経など、笑いをとる手法と、子供を使った泣きを取るやりかたも平板だ。

 本当に救助物は、撮影と設定が難しい。
映画とするためには当然にカメラ・光の当て方・背景などと、多くのスタッフが必要で、それらを天候不順など過酷な状況という設定のなかで作り出さないといけないわけだ。
猛吹雪での遭難のシーンを天候の良い状況で撮影すれば、それは遭難にはならないわけだけど、それを危機に見せるためにはスタッフの努力と、俳優の演技と熱意が必要とされる。
そして、観客が観ていて、「おやっ、これはおかしい?」と途中で思わせてはいけない。

 しかし、この映画では、些細な面にこだわっていないために、危機が危機になっていない。
たとえば、授業参観に行っていた平地から、猛吹雪の山中にそんな簡単に行けるのか。
救助隊員が、あんなに音がするほど、たくさんのカナビナ(鉄の輪)を持っているのかよ。
いくらなんでも、氷に挟まれた程度なら、足を切断する前に氷を崩せるだろう。
猛吹雪でも遭難現場の上空にいけたのなら、あと数分の余裕は無理しても、挑戦してみるべきだろう。
だいたいクレパスに落ちこんでいるのに、貰ったマフラーが都合よく、目印になるとは。

 など、危機の創造に至るまでの脚本のできが悪く、また、俳優の危機感を訴える演技力が本当に乏しい。
虚構と誇張はあってもいいが、それらがチャント流れのなかで、無理なく、ありそうだと整理されていないと観ている人の心に訴えてこない。
これなら、後日談の俳優インタビューにおける山での撮影の苦労話の方が真実性が出ていて、よっぽど面白いと思えた。

 山の撮影なら;「剱岳 点の記」
 海の救助の;「海猿」
 笑い顔だけの長澤まさみ;「隠し砦の三悪人」

     ブラック・スワン

あらすじ: ニューヨークのバレエ団に所属するニナ(ナタリー・ポートマン)は、バレエ・ダンサーでもあった母親(バーバラ・ハーシー)の厳格な躾の元、幼い頃から、バレエ一筋に打ち込み技術を磨いてきていた。新しいシーズンの開幕にあたり、芸術監督のトーマス(ヴァンサン・カッセル)は「白鳥の湖」の公演を考えていたが、今までのプリマであったベス(ウイノラ・ライダー)が衰えてきたので、新しい主役としてニナを起用することにした。しかし、優等生の人生を送ってきたニナは、純粋な「白鳥の女王」は演じられても、邪悪で官能的な「黒鳥」への変身ができなかったので、トーマスは、代役として、新人のリリー(ミラ・クロス)も抜擢していた。公演の期日が迫る中、必死に男を誘惑する「黒鳥」の感情を表現しようと練習するが、トーマスからは性的な表現の乏しさを指摘され、経験の少ないニナは追いつめられる。このままでは、幼い頃から夢見たプリマの座を新人に奪われる。プレッシャーがいつしかニナの頭の中に現実と狂気をうんで行く。。。

確かに綺麗な「白鳥」ではなく、官能の「黒鳥」の演技だ!

 題材は、あのチャイコフスキーの有名なバレエ「白鳥の湖」を中心にしている。
そこで、主役(プリマ)の座をめぐり、生真面目なバレリーナがプレッシャーから幻想を抱く、かなりサイコ的で少しばかり、ホラー感もある作品だ。

 撮影と編集がうまい。
これは、主役のナタリー・ポートマンが、バレリーナとしての肉体をつくり、また女王役の純真さと裏側に潜む官能との対比、まさしく「白鳥と黒鳥」との比較を演じた成果でもあるが、実際には代役が演じた踊りでの足元と、顔や手や腕をクローズアップした時の映像とを、うまくつなぎ合わせているので、観客は完全に、全部ナタリー・ポートマンが踊っていると、違和感がなくて観ていられる。

 その他大勢のダンサーから、いつかは栄光のプリマを夢見た母親の、自分が産まれたために叶えられなかった夢を叶えてあげたいと思う優しさ。
やっと、掴んだプリマの座も、初舞台に上がれないまま逃すかもしれないという恐怖。
今までの人生では経験の少ない性の部分を何とか、補おうとするあせり。
それらが大きく膨れ上がり、正常心が失われていく。

 多くの人が納得できる展開と二面性に悩むナタリー・ポートマンの演技がそこにある。

 監督:ダーレン・アロノフスキーの練った構想が、ナタリー・ポートマンという女優とともに見事に花開いた。
しかも、超満開の華麗さで描かれた。

 芸能の世界においては、恋愛の経験と性の経験は、芸の肥やしとして当然に必要であるが、それを自慰行為や女性同士での行為で描くということは、アメリカ的な捉え方で、同調できないが、子供じみた寝室の飾りや、前のプリマの化粧品を盗んだりするなど、細かな部分での設定が、巧である。

 幻想で指の皮がむけたりなどとやたら血が絡むのは、気の弱い人には、勧められないが、背中から、黒鳥の羽が出てくるアイデアは、優れている。
通常では、ここまで思い浮かばないシーンだ。

 ラストも大いに盛り上がる。
回転しながら、徐々に羽のある黒鳥への変身。
そして、高い台から身を投げる白鳥。
この一連の踊りのシーンは、チャイコフスキーの名曲「白鳥の湖」の旋律と相まって、観終わっても強く脳裏に刻まれた。

 女優:ナタリー・ポートマンも確かに「アカデミー賞主演女優賞」を獲った演技であった。
これで、また、一皮むけたナタリーが観られるか。
このナタリーの好評を支えているのは、周りのヴァンサン・カッセルや落ちぶれたプリマを見事に演じているウイノラ・ライダー、そしてライバルを演じたミラ・クロスたちであり、また撮影であり編集であり、音楽でもある。
優れた映画といわれるためには、主役一人の活躍ではないことも、いまさらながら思い知らせてくれた。

 時々、ナタリー・ポートマンに起きる「鳥肌? サメ肌?」もお見逃しなく。

 ダーレン・アロノフスキー監督の;「ザ・ファイター」「レスラー」
 ナタリー・ポートマンが少しだけ出ている;「ニューヨーク、アイ・ラブ・ユー」

     阪急電車 ―片道15分の奇跡―

あらすじ: 婚約までしていたのに、後輩(安みぐみ)にその婚約者を寝取られた32歳のOL:高瀬翔子(中谷美紀)は、二人の結婚を認める条件として強引に結婚披露宴に招待させ、肩を大きく開けた純白のドレスを着て出席し胸のうっぷんを晴らしたが、披露宴の途中で退席を強制され、阪急電車に披露宴で着ていた豪華なドレス姿と引き出物を持って乗っていた。その電車に、孫(芦田愛菜)と乗り合わせていた萩原時江(宮本信子)は翔子の異常さに気が付き声をかけ、これから会社でも元の婚約者を悩ませるようにアドバイスをする。また、ルックスは良いが、気が短く、すぐに暴力を振う彼氏と付き合っている女子大生の森岡ミサ(戸田恵梨香)も、引っ越し先を探しに、同じ車両に彼氏と乗り合わせていたが、些細な口論からミサは彼氏から駅のプラットホームに突き飛ばされて擦り傷を負い、時江からダメな男とは別れなさいと言われる。また、息子のPTAで知り合い、電車の中でも騒々しいセレブ気取りの主婦たちとはどこか気が合わないけど、豪華な食事に付き合う気弱な主婦(南果歩)。田舎から出てきてオシャレな大学に馴染めない女子学生(谷村美月)と軍事お宅の同級生(勝地涼)との出会いもこの阪急電車の中だった。さらに、アホな会社員(玉山鉄二)と付き合い自信を失いかけている女子高校生(有村架純)など、阪急電鉄の8駅しかない今津線の電車内では、今日もさまざまな出来事が続く。。。

心温まる話が、常套的に続いては、飽きてしまう!

 関西ならではの、お節介(?)なお婆さんの奮闘記が、阪急電車の今津線という、宝塚と西宮北駅の片道15分の沿線に住む人々、といってもほとんどが女性中心ですが、の電車を絡めた往復の話です。

 そう、東京では、電車内で、真っ白な結婚披露宴用のドレスを着ている美女をみても、着替えをしなかったんだと思い軽く見流ししますが、関西の女性は、感が鋭く、「これは、討ち入りだ」とつい声をかけてしまうのですね。

 世間に関係なく、自分の世界に住み、つっぱっていると思っていた女子学生も、お腹の痛い主婦がいれば、優しく看病してくれるし、今時ありえないような、大型ヘッドホンで大音量の音楽を聞いている軍事お宅であっても、不思議なことに、ガラス窓越しのヘリコプターの爆音は聞き分けられるし、田舎出というお約束通りの風采をした自然派の彼女はできるし、電車内でうるさいおばちゃんたちは、ちゃんと注意されるしで、本当に、この阪急電車の沿線に住んでいてよかったと、誰が観ても、心が温まる、いい話です?

 と、細かなことには文句を言わずに、観てくれるお客が一体何人いるのだろうかと思う程度の出来です。

 お節介か、親切かの判断は、関西の人の評価に委ね、こちらとしては、映画としての描き方を問題にしましょう。
外見と内面の違いの差、他人が思っている事と異なった自己、恵まれない人でも得られる小さな幸せなどがこのような、よくある上辺だけで描かれては、まだまだ、映画好きな観客には物足りない作品です。
特に、終わりの方で、どこか関西人でない宮本信子が車内でうるさい関西のおばちゃんたちを相手に、どうやりこめたのかが、見せ場なのに、実に簡単に終わっているのはひど過ぎます。
監督:三宅喜重の未熟な演出は、無料のテレビなら許されるでしょうが、入場料をとるための手法ではありません。
監督として、もっと、筋を消化し、映らないエキストラにもちゃんとした芝居をさせなければ、映画が全体として緩いものになります。

 また、何がサブ・タイトルでいう「奇跡」なのでしょうか?
恋人に振られて新しい生活を始める。暴力的な恋人ときっぱりと別れる。犬を飼ってくれない両親の代わりに祖母が犬を飼ってくれる。学校でのいじめを慰めてくれる心に傷を持ったおねえさん。それらは、人生という波乱万丈の舞台では、当たり前で決して奇跡(ミラクル)ではありません。
これら、ありふれた日常の一片を、ひねりもなくとらえて映しては、曲がり角で電車とレールがきしむ時に発する「軌跡」のいやな音しかしませんでした。

それにしても、泣かせたらこの子以上の子役はいないという、6歳の芦田愛菜の最近の、映画・テレビでの活躍はすごい。学校に入ってもこのまま続けるのかな?

中谷美紀の;「ゼロの焦点」、 演技を開眼した、「嫌われ松子の一生」
宮本信子がぱっとしない;「眉山」
戸田恵梨香が出ていたという;「アマルフィ」
谷村美月の;「十三人の刺客」

     八日目の蝉

あらすじ: 会社の上司で妻もいる秋山(田中哲司)を好きになった野々宮希和子(永作博美)は、いつか離婚するという秋山の言葉を信じ言われるままに子供も堕しそのために子供を産めない体になったが、秋山には離婚の気がなく、妻の恵津子(森口瑤子)の出産を喜んでいた。裏切られた和子は、秋山の留守宅に忍び込み赤ん坊の顔を見ている内にその可愛い笑い顔に魅かれて、誘拐してしまう。幼児誘拐犯となった希和子は、捜査の手から逃れるため、髪を切り、赤ん坊は薫と名付けて、友人の家や訳ありの女性たちが共同生活をしているエンジェル・ホームに逃げ込むが、そこも追われ、エンジェル・ホームの仲間の紹介で、小豆島のそうめん屋に住み込むことができ、希和子と薫は実の母子のように楽しい生活をおくっていた。しかし、島の行事の「虫送り」で撮られた観光写真が、全国紙に載り、4年の誘拐生活は終わり、希和子は逮捕され、薫は秋山家に恵理菜として戻る。だが、この誘拐されていた4年の歳月は、実の母親の恵津子にとっても、恵理菜にとっても大きな溝となり、成人した恵理菜(井上真央)は、打ち解けることのできない家庭を出て、バイトで大学に通っていたが、育ての親の希和子がしたような家庭持ちの男(劇団ひとり)を好きになり、子供をみごもっていた。そんな時、ルポライターの安藤千草(小池栄子)が、昔の誘拐事件を本にしたいと接触してくる。似たような境遇だった希和子の気持ちを確認するために、恵理菜は幼い頃の生活を追う。。。

女:結局、一番悪いのは、浮気をする男たちね!

男:出だしから、厳しい言葉だね。
女:この話は、NHKテレビで壇れいが誘拐犯をやったのを観てつまらないって言っていたのにどうして、映画を観たの?
男:うん。まあ、テレビは壇れいのフアンとしては、一応見ておこうって軽い気持ちだったけど、やたら、1話1話が勿体をつけた内容で、また現実離れをした逃亡生活があまりにも空想的な話だっだので、途中まで観たけど、つまらなくて全部は観なかった。
女:それでも、映画の方は、可愛い井上真央ちゃんが出ていたので、観たってわけ?
男:いっ、いや、単に映画が好きだからだよ。
女:原作は知らないけど、映画の脚本は、テレビと違って、かなり絞った内容にしたわね。
男:うん、それでも、上映時間は、127分とかなり長くて、あらすじを書くのにも、時間がかかった。
女:あらすじでは、赤ん坊の誘拐とその後の成長した恵理菜の妊娠などが、時系列になって書かれているけど、映画の展開としては、希和子が捕まっての裁判から始まり、誘拐や逃亡先の小豆島の生活などと、成長した恵理菜の生活が回想として入り組んだ構成よね。
男:回想で話が昔に行ったり現在に戻ると、観ている方は混乱しがちだけど、この作品では、そんなことはなく流れていく。
女:留守宅に上り込んで、そこで赤ん坊を誘拐するかということについて、あなたは何となく釈然としないようだけど、騙されたけど一度は愛した男性の子供で、もう自分はこんな可愛い子供を産めないと思う悲しさから、見境もなく連れ去るってことは、女性の心理としては、あるのよ。
男:そういわれれば、身代金目当てでない幼児誘拐は、案外事件としてあるね。
女:一番母親の愛情が必要な幼児期を、実の母親が育てられなかった事も本当に寂しい思い出なのね。
  また、どうして、あの時留守にしてしまったのかという、母親としての自責の気持ちからヒステリックになるのもわかるわ。

男:裁判所で誘拐した永作博美が「子育てができたことを感謝します」といって、犯罪行為を謝らなかったのは、実の母親にしてみれば、この楽しい子育ての期間を奪われて、なお、心配の日々をおくらされた訳で完全に怒り狂う。
  ここが、女性の原作者:角田光代ならではの言葉かな。
女:それと、小豆島のフェリー乗り場で警察に捕まる時に、「この子はまだ食べていませんから」のセリフも子供を心配する母親でなければ、いえないわ。
男:私も子供の頃を、小豆島に近い瀬戸内海の島で育ったので、瀬戸の凪いだ波や、やたら暑い夏の夕陽。
  そして、沖をとおる船を観ていたら、島の何もないけど、やんちゃに山でメジロをとったり、唇が紫になっても泳いでいたあの頃を思い出す。
女:その子供の思い出を、誘拐された方の母親が知らないのは、本当に、本当に、辛く、悲しい事なのよ。
男:でも、その小豆島の扱い方だけど、どうして観光的に撮ってしまうのかな。
女:初めて知らない場所を訪れると、寒霞渓やお遍路さんの印象が強くて、監督であっても、一般人の感傷になっちゃうってことね。
   映画の中で流れる主人公たちの生活の中の一風景でなくて、観光客の目線で撮っちゃうのね。

男:そこで暮らしていることを描いている映画だから、田舎歌舞伎にしても、千枚田でも映像として自然に扱えばいいのに、急にここが観光の目玉ですって流れが変わるのは残念だね。
女:残念なのは、エンジェル・ホームの設定とその後一緒に暮らしていた小池栄子の安藤千草の役割もよ。
男:ここが、テレビでも、あまりにも不自然な、連載本としてのページ稼ぎだと感じて飽きた箇所だよ。
女:小池栄子が、金持ちの娘にしては、態度がおかしいのよね。
  彼女の演技で、おどおどした感じを出すために、猫背を監督が指導したようだけど、それなら、小池でないもっと小柄な俳優をキャスティングすれば良かったのにね。

男:監督:成島 出 としての作品に対するこだわりは、厳しかったようだ。
女:そうね、赤ん坊が、足を突っ張り、背中を伸ばして、何度も泣き叫ぶシーンは、ここまでやると、幼児虐待で訴えられるかもというまでの迫力ね。
男:でも、私の不満としては、ベッド・シーンでの真央ちゃんが、胸を全然出さないで、背中だけ見せたのは、あまりにも、大人の演技としてはダメだといいたいね。
女:それは、単にあたなのスケベ根性が満たされなかっただけでしょう。
男:タイトルの「八日目の蝉」だけど、蝉はほとんどの生涯を、地中で暮らし、地上にでてから、7日目で死んでしまう。
  そこで、八日目まで生き延びた蝉は、他の蝉と一緒に死ねなくて悲しいのか、それとも、他の蝉が経験できなかった新しい世界を見られてうれしいのかってことだけど、私にとっては、いつか死ぬなら、他の人と比べても仕方のないことでテーマとしても大事ではないね。
女:蝉が主題ではなく、これは、女と幼児の生き方で、子供にとって、母親の愛情がいかに必要で、また大切かを描いたのよ!
男:そこで、それを引き裂いた、男の浮気が責められるわけか。
女:あなたも、若い頃の行動を、胸に手をあてて、よーく反省しなさいっ!
男:えっ、私は、何も、反省するようなことは、していない・・・けど
女:声が、小さいわよっ

永作博美も子供顔から大きく変身し、熱演しています。
それにしても、写真館のおやじを演じた、田中泯は、2カットしか出ていないが、存在感がすごい。

子供の誘拐を描いた;「チェンジリング」
井上真央ちゃんの;「太平洋の軌跡」「怪談」

    ミュージカル  レ・ミゼラブル  (帝国劇場)

あらすじ: 1815年のフランスはツーロン。パンを1切れ盗んだばかりに、19年間も過酷な監獄に入れられていた、ジャン・バルジャン(別所哲也)がジャベール(岡幸二郎)から仮出獄を言い渡された。しかし、外に出ても、世間の風は前科持ちのジャンに対して冷たく、親切にしてくれた教会にあった銀のコップを盗みまた警察に捕まるが、牧師の思いやりにより救われた。それを機に改心したジャンは、名前を改め、必死に働き、ついに工場を経営し、また人望を集めて市長になった。そんな時、逃亡しているジャンを追っているジャベールから、ジャンに似た男が捕まり、処刑される話を聞いたジャンは、ついに身を明かす。しかし、以前工場で働いていたフォンテーヌ(和音美桜=カズネミオウ)から、死に際に娘:コゼット(中山エミリ)の養育を託され、再びジャンはコゼットと共に、身を隠す。それから、10年後、パリではマリウス(山崎育三郎)たち学生を中心に貧困から立ち上がる運動が起きていた。彼らの活動場所へ、施しで訪れたコゼットを見てマリウスは、恋に落ちるが、マリウスを慕うエポニーヌ(Jennifer)もいた。ついに、政府軍と戦を始めた学生たちであったが、多くの犠牲者をだして破れ、マリウスも傷を負うが、ジャンの助けでどうにか生き延びた。。。

健在なり レ・ミゼラブル!

 話は今更、もう、言うまでもないヴィクトル・ユゴー作の「ああ、無情」を、ロンドンで1985年にミュージカル化して以来、世界各地でロング・ランを続ける作品だ。
日本でも、1987年6月にこの帝国劇場で初演されて以来、何度も、何度も再演がなされている。
そして、2011年4月22日の昼の回で、何と公演回数が、2,500回を迎えるという。
私も、1999年に初めてこの「レ・ミゼラブル」を観てから、過去に5回も観ているが、何度観ても、感動を与えてくれる優れた内容をもった作品だ。
しかし、この演出方法での公演は今公演をもって最後となり、次からは新しい演出になるとのこと。

 ここまで、たびたび再演しても、未だに多くの観客を呼べるのは、膨大な歌に付けられた、訳詞:岩谷時子の功績が本当に大きいとまたまた、感じた。
外国語のミュージカルの日本版となると、どうしても翻訳のうまい、へたの問題がある。
原語を理解した上で、それが、舞台でもチャント日本語として分かり易くしている訳詞のうまさの偉大さが耳から響いてくる。
例えば、「マイ・フェアレディ」で歌われる「スペインでは雨は原野に降る」の訳の拙さと比較すると、岩谷時子の苦労が分かる。

 この「レ・ミゼラブル」では、毎度の事だが、1回の公演時間が3時間近くあり、また、4月12日の初日から、6月12日までのロング・ランを予定して、主な役のジャン・バルジャンやジャベール、フォンテーヌ、コゼットなどがダブル・キャストでは収まらず、トリブルのキャストもあり、また4人のキャストもある。

 私も、ジャン・バルジャンとジャベールでは、山口祐一郎、橋本さとし、石川禅、今拓也などの演技を観、コゼット役も、神田沙也加、辛島小恵、剣持たまき等を観てきた。
この長い公演の歴史の中では、今回も出ている、山口祐一郎や森公美子のように同じ役を数10年も演じている人も居れば、和音美桜やJennifer、そして中山エミリのように新しく参加する者、また岡幸二郎のように以前から参加していて役が変わる者もいるわけです。

 「レ・ミゼラブル」では、セリフの部分が少なくて、殆どのパートに音符が付けられ、また、主な配役には、ソロで歌う場面、二重唱の場面などひきたつ、見せ場が用意されているので、出演者はいつも気が抜けない。でもそれが見事に決まった時には、観客からの拍手も当然大きくなる。

 今回のジャン・バルジャンの別所哲也やジャベールの岡幸二郎は、もう落ち着いていて問題もなく演じ、歌いきっている。
新しく参加している、フォンテーヌ役の和音美桜は、初めて観たが、実に堂々とした歌い方で、舞台からの目線もこれは上手いと思ったら、宝塚出身とのことで、単なるオーディションから出てきた新人ではないと納得した。
中山エミリがコゼットを演じるというので、かなり心配したが、熱意は充分に伝わる。これから、公演を続けていけば、演技を楽しんでできるようになるだろう。
酒場の女将役の森公美子の身体と胸の存在感は、いつものとおりだが、相手役になっている三波豊和は、もっと下品にふざけててもいい。この森と三波の役回りは、緊張している話のなかで、気を抜き、笑いをとるものだから。

 ミュージカルとして、ここまで続けてこられたのは、舞台構成が緻密に練られている点も挙げなければならない。
1つのシーンから次のシーンへの流れに切れ目がないので、観客は、前からの感情を持続したまま、移っていける。
巨大なバリケードの前とウシロを表したり、下水道での雰囲気など、過去にも観て分かっているが、よくできた舞台である。

 この演出が今回で終わるとは残念だが、新しい演出にも期待しよう。

 おまけの情報:コマーシャルの「こども店長」で有名になった加藤清史郎クンもしっかり活躍しています。

以前の「レ・ミゼラブル」;2009年版、 2007年版、 2005年版、 2003年版
中山エミリが出ていた舞台;「ガス人間第1号」
訳を問題にした;「マイ・フェアレディ」 

     わたしを離さないで   

あらすじ: イギリスの郊外にある家庭を持たない子供たちの寄宿学校「ヘールシャム」。幼い頃から仲の良かったキャシー・H(キャリー・マリガン)とルース(キーラ・ナイトレイ)とトミー(アンドリュー・ガーフィールド)の3人は、外の世界から隔離された寄宿舎の環境の中で、他の子供たちと一緒に、勉強し絵を描いたりしながら、特に健康には注意を払った生活を送っていた。キャシーはトミーが好きだったが、積極的なルースがいつの間にかトミーと深い仲になっていた。外から隔離された彼らには、国が決めた特別の役割があったのだ。それは、臓器の提供者(ドナー)としての人生だった。彼らは18歳になると、寄宿学校から出て、外との接触ができるコテージに移り共同生活を送りながら、ドナーの役目を果たしていた。ある者は、最初の提供で「終了」を迎え、長くても3回の提供で「終了」するなか、真実の愛が証明できるカップルは、「終了」を、4、5年伸ばしてくれる噂があり、「終了」を迎えたルースの調べで、キャシーとトミーは承認者らしき人を訪れるが、それは、単なる噂であった。トミーも「終了」し、キャシーも。。。

映画なら、心情は、映像で見せて欲しい!

 原作者は、日系のカズオ・イシグロとタイトルに出ていたのに注目した。

 映画の展開は、成長して最後の臓器提供の手術を受けるトミーを見守るキャシーの子供時代の回想から進んでいくが、あらすじが長いように、かなり説明が必要な映画である。

 出だしで、時代が過去の1990年代といいながら、人類の平均寿命が100歳を超えたとあり、アレッ、イギリスにしては、なにか変だなとは思いつつ、また、苗字が単に「H=エッチ」だけとは、そんな名字もあるのかと、軽い気持ちで先に進む。

 子供時代の寄宿舎でのキャシー、トミー、ルースの3人の恋愛関係を中心に、外部の世界から隔絶された環境に批判的な先生も出てくる。
しかし、その先生はいつの間にか、いなくなっているなど、ミステリアスな部分もある。

 親や兄弟を知らず、世間から隔離されて、ただ先生の教えを忠実に守るドナーだけど愛を知れば、そこには、生きたいという気持ちも芽生えてくるということを、本当に、淡々と描いている。

 でも、ここまで、反抗心もなく、あきらめもなく、更に、決められてしまった自分の人生への憎しみもないというのでは、私にとって、不思議というよりは、単に変わった題材を扱った映画だったと言うだけだ。

 映画のみせ方としては、近未来のこれだけ変わった題材を扱うなら、もっと背景を丁寧に描く必要性がある。

 どうして、世間から見捨てられた彼らが「オリジナル(多分両親を指すのか)」を探す気持ちになるのか、また、海岸に打ち寄せられた船に想いを寄せるのか、を始めとして充分に映像での説明が無いのが、一般に受けない箇所で残念だ。

 ドナーとして抱えている複雑な心の部分の多くを、語り(ナレーション)で済ますのでは、映画としては物足りない。
これでは、映画化は、やっ張り無理な原作であったようだ。

 配役として、キャリー・マリガンは、まあまあだけど、キーラ・ナイトレイが、良く言えば、押し殺した演技となるのだろうが、いつも、暗くて、さらに痩せていては、全然面白くない。
 私としては、もっと活発な娘であって欲しかった。

ドナーを描いた;「私の中のあなた」
キャリー・マリガンを有名にした;「17歳の肖像」
アンドリュー・ガーフィールドが大活躍の;「ソーシャル・ネットワーク」
キーラ・ナイトレイが輝いていた;「パーレーツ・オブ・カリビアン」、また、「ラブ・アクチャリー」、そして、「シルク」 

     漫才ギャング   

あらすじ: 黒沢飛夫(佐藤隆太)と石井保(綾部裕二)は、漫才コンビ「ブラックストーン」を結成して10年近くなるが、全然売れず、ついに借金の返済が難しくなった保から解散を告げられた飛夫は悪酔いして暴れたため留置所に入れられた。また、毎日目的もなく、ケンカばかりしている鬼塚龍平(上地雄輔)も飛夫と同じ留置所に入れられてきた。その留置所でのトイレの使い方や会話から、龍平が持つツッコミの才能に気がついた飛夫は、龍平と新しく漫才コンビを組むことになる。売れない二人であったが、飛夫は恋人の由美子(石原さとみ)の支援をうけ、また、龍平は今までケンカをしてきた相手に絡まれても耐え、二人は夜遅くまで、公園で練習を重ねていた。その成果が実り、徐々に名が知られるようになってきた。そんな飛夫の成功を保は、借金の返済に追われるなか、喜んでいた。ある夜、我慢に我慢を重ねて、ケンカを自粛していた龍平だったが、ついに堪忍袋の緒が切れて相手をたたきのめし、刑務所に入ることになる。そこで、飛夫は再び保とコンビを組み売れるようになるが。。。

女:監督「品川ヒロシ」の、これから伸びる才能が感じられる作品ね!

男:監督した品川ヒロシは、自分でもコンビ名「品川庄司」で漫才をしている。
  彼が、原作と脚本も書いている。
女:品川ヒロシ監督作品としては、2作目のようね。
男:そう、前作は、観ていないけど、「ドロップ」というのがあるようだ。
女:監督自身の身近にある漫才での苦労話を取り入れているけど、俳優たちが役にあった演技をしているわね。
男:佐藤隆太や上地雄輔は、お笑い界の人間ではないけれど、ピースの綾部裕二や借金の取立屋の宮川大輔などお笑いの仲間たちが、ほどほどに配されている。
女:品川ヒロシがお笑いの世界での付き合いの中で、映画をつくる時のために、周囲の人物を見てきて、この役にはこの人をって配した感じが十分に伝わってきたわ。
男:佐藤隆太はともかく、上地雄輔は売りだされた「おバカ・キャラ」のままかと思っていたけど、なかなか俳優としてのルックスもいいね。
女:この映画では、パンチ・パーマで、いかにも暴力団絡みの借金の取立て役って感じを演じた宮川大輔の活躍が目立ったわ。 
  外見はいかついけれど、実は笑いが好きで、どこか売れない芸人を応援しているって設定でしょ。
  彼が、あちらこちらに出てきて、うまく話をまとめていたわね。

男:喧嘩の好きな上地は、見ればすぐに普通の人でないとわかる変なヘヤー・スタイルでまた腕には刺青をしていたり、お宅キャラには、お宅の格好をさせて、もう、役割が単純といえば、単純だけど、みんなそれなりに、映像としての説明が簡単な点は評価できる。
女:借金取立てで、玄関の小窓を閉めたり開けたりするシーンは、面白かったわ。
男:そういったくすぐりの使い方の上手さは、さすがに、お笑いの出身の監督だと感じさせる。
  また、テレビ界からのサラリーマン的な映画監督とは、大分違った熱意もある。

  ウン、お笑い界からの監督となると品川ヒロシと同じ、漫才出身のビートたけしの北野武もいるね。
女:そのビートたけしも、貴方が嫌いな暴力をよく題材にした映画を作るわね。
男:人を笑わせている人たちの感情の裏側には、馬鹿にされたり、我慢してきていて、何時かは思い切り相手を殴りたい気持ちが鬱積していることの表れなのかな。
女:吉本の芸人たちの内輪話では、かなり先輩・後輩の上下関係の厳しさがあるようね。
男:でも、その関係で、売れている先輩が売れない後輩を飲みに連れっていったり、笑いのうけ方などを雑談的に教えているようだよ。
女:笑いの世界では、先輩と同じ事をしていたら、売れないから、「変わったこと」をするためには、ものすごい努力も必要ということね。
男:「変化を求めて挑戦する」か!
  どこかの会社のスローガンにあったっかな?
女:みんな「変わろう」としているのに、貴方が2002年から始めたこの「映画・演劇 評論」は、変わっていないわね。
男:そッ、そんなことは無いでしょう。
  この4月からは、プロバイダーが変わって、サイトのアドレスや、リンク先も変えたりしたよ。
  この10年近くの評論で、なんと800近いファイルがあって、この整理だけでも、大変だったのに。
女:暇な、貴方には、適当な時間つぶしだったんじゃないの。
男:それをイッチャ、お終いだよ!
女:こんなところで、フーテンの寅を気取っても仕方ないでしょう!
男:ウッ・・・

     ザ・ファイター   

あらすじ: 昔は地元でも有名なボクサーで将来性もあった異母兄:ディッキー(クリスチャン・ベイル)にボクシングを教わり、マネージャーを兼ねる母親:アリス(メリッサ・レオ)の手配で試合をするミッキー(マーク・ウォールバーグ)であったが、ランクが重いボクサーなどとの試合も組まされて負てばかりいた.。だが、好意を持っている酒場の娘:シャーリーン(エイミー・アダムス)の励ましもあり、どうにかボクシングを続けていた。そんな時、ミッキーのトレーナーでもあったディッキーが薬物と警察官名詐称で刑務所に入ったのを機に新しい練習方法に変えると、勝つようになり、ついに世界タイトル・マッチの挑戦者になった。シャーリーンや新しいプロモーター達は、ミッキーの過保護な母親や兄たちが、今後とも、ボクシングをしていく上で障害になるというが、ミッキーはどうしても、家族を捨てられない。そして、ロンドンで世界選手権が行われる。ミッキーは勝てるのか。。。

騒々しいセリフの中に兄弟と母の愛がある?!

 この作品で、2011年のアカデミー賞の助演男優賞を兄を演じたクリスチャン・ベイルがとり、同じく助演女優賞を母親役のメリッサ・レオがとった。
ってことで、映画館に足をはこび、観ようとしたら、3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震の影響と計画停電により、上映している映画館が実に少ない。
そこで、仕方なしに、いつもは行かない場所の映画館に、交通費を出して観に行った。

 アカデミー賞ではクリスチャン・ベイルが助演男優賞ということになっているが、あらすじを書いていたら、この映画では、クリスチャン・ベイルの方がマーク・ウォールバーグよりも出番が多く、印象も強いことに気がついた。これでは、助演ではなく主演といってもいいほどだけど。

 映画は、これまた、よくある真実に基づいたという、お定まりの、貧乏から這い上がるボクサーの家庭と恋とを散りばめた感動の涙が無くては語れない成功の話ということであるが、ミッキーの家族は、一体何人の異母兄弟や姉妹がいるのかどうも分からず(後で調べると9人らしい)、母が再婚した現在の父親の存在もはっきりとせず、これだけの大家族がどうやって生計を維持しているのか、現実では面倒だったようで、人はたくさん出てくるが明らかには語られていない。
 さらに、薬中毒になっている兄のディッキーも、東南アジア系の家庭に入り浸りで、母親がくれば、バカなことに度々二階から飛び降りるなど、真実にしては、描き方に間が抜けている。

 また、ミッキー自身も一度結婚をしたようだけど、妻と上手くいかず、離婚し、その妻が再婚した家にいる娘とも自由に会えない関係にあるのに、また良くある描き方をされている酒場の気の強い娘にちょっかいをだすとは!

 実に話の展開がグダグダしていてまどろっこしい!
ミッキーの恋人や母親と異母兄との関係だけに絞った方が良かった。
余りにも、アメリカ的な離婚・再婚のある複雑すぎる家庭環境は観ていても、スッキリしない。
勝気なシャーリーンが、ミッキーの姉妹と口論するシーンでは、チット笑うけど、ほんのチョットだけである。

 警官に拳を殴られても問題なく再起できるなんて、もうとってつけたようなエピソードもいらない。
また、恒例の貧しさからの脱出で、アメリカン・ドリームを実現させる手法としては、同じようなボクシングで栄光を掴むまでを描いたシルヴェスター・スタローンを一躍有名にした「ロッキー」をなぞっているようで退屈だ。
「ロッキー」との比較をするなら、単調な音楽にも一言あるけど。それは、またの機会にして。

 確かに、クリスチャン・ベイルは、エンドロールで出てくる実在のディッキーと容姿も話し方も似ていて、力演ではあるけど、作品としては物足りないできだった。

マーク・ウォールバーグを有名にした;「ディパーテッド」、退屈な;「ハプニング」
クリスチャン・ベイルは;「パブリック・エネミーズ」
可愛いエイミー・アダムスは;「ジュリー&ジュリア」
「サンシャイン・クリーニング」

     トゥルー・グリット   

あらすじ: 時は南北戦争が終わったばかりの、インディアンの居住区など未開の地がたくさん残っていた頃のアメリカの西部。牧場主の娘で14歳ながら経理を任されていたしっかりした少女:マティ・ロス(ヘイリー・スタインフェルド)は、雇っていたトム・チェイニー(ジョシュ・ブローリン)に父親を殺され、遺品として渡された拳銃を手に復讐を誓うが、殺したチェイニーは、ならず者のネッドを首領とする集団に入って逃げていた。一人で犯人の追跡をする訳にはいかないので、なんとか、片目で飲んだくれながら腕は立つ連邦保安官:ルースター・コグバーン(ジェフ・ブリッジス)を懸賞金で雇い、二人でチェイニーを追う。一方、別の殺人事件でチェイニーを追跡していたテキサス・レンジャーのラビーフ(マット・デイモン)も情報を求めてやってきた。広大な西部で、3人はチェイニーに迫れるのか。。。

おしゃまな小娘に付き合う、根は真面目な大人たち!

 この映画の元になっているのは、ジョン・ウェインが出ていた「勇気ある追跡」があるようですが、私は幸運(?)なことに観ていません。
監督は、あの「ノーカントリー」も撮った、ジョエルとイーサン・コーエン兄弟で、製作総指揮には、スティーヴン・スピルバーグも名前がでています。

 それにしても、タイトルの「トゥルー・グリット」とは、まったく最近の配給会社が適当に仕事をしている例となる題名付けでしょう。
これって、チャント発音できますか?
英語のタイトルは、”True Grit”ですから、”True”のカタカナ表示が曖昧で難しくなるなら、訳して「真の勇気」とでも付けるべきでしょう。

 それはさておき、たった2枚の金貨のために愛する父親を殺された、まっとうな理論を持つ、そして口先の達者な小娘が良く活躍していて、面白い出来です。

 現実としては、雪も降り、毒蛇がウジョウジョしている過酷な自然の”大いなる西部”で、こんな小娘が、野宿などをしながら、あてもない追跡をするなんてことは、もうあり得ないのですが、それをカバーするストーリーの展開があります。

 飲んだくれで、妻子に逃げられた連邦保安官だけど、拳銃の腕と情勢の判断は優れている。
このやさぐれた連邦保安官をさらに特徴のある片目にし、対照として同行するもう一人の大人の、テキサス・レンジャーは着ている物から本当に真面目な田舎育ち。
 また悪役は、簡単に下品ですぐに指を切ったり殺したりする粗暴さ。
娘は、世間知らずだけど純真で一途に復讐を願う。

 設定としては、良くあるものですが、間違えて(?)仲間のテキサス・レンジャーを撃ったり、1人対4人の馬上での決闘など、ユーモアや緊迫感をちりばめているので飽きさせません。

 癖のある役にびったりのジェフ・ブリッジスの存在の大きな映画です。
一方、マット・デイモンは、活躍シーンが少なくて残念です。
少女を演じたヘイリー・スタインフェルドが今後どんな使われ方をしていくのか、楽しみです。

 あまり深く考えずに、観られる映画です。
 でも、終わりの、サーカスにコグバーンを訪ねて行くのは、不要でした。

 コーエン兄弟のお勧め;「ノーカントリー」、 面白くない;「バーン・アフター・リーディング」
 マット・ヂイモンの;「ヒア アフター」 

     ツーリスト   

あらすじ: 世界を股にかけている暗黒街のボス:ショー(スティーヴン・パーコフ)を裏切り、彼から巨額の金を横取りし、整形手術までして2年以上も身元を隠して逃げている元部下のアレキサンダー・ピアスは、また高額な脱税の罪でイギリスの警察からも追われていた。アレキサンダーは追跡の眼をごまかすために、愛人エリーズ(アンジェリーナ・ジョリー)にアレキサンダーに似た体型の男を捜して、イタリアのヴェニスにつれてくるよう指示をする。そこで、エリーズはパリからヴェニスに向かう列車の中で、アメリカ人のツーリスト:フランク(ジョニー・デップ)に眼をつけて、色仕掛けでヴェニスの高級ホテルに誘い込む。以前からエリーズを監視していたイギリスの警察は、イタリアでも監視をする。また、執念深いボスもイタリアに来て、アレキサンダーを見つけ出そうとしている。顔を変えたアレキサンダーは、本当にヴェニスにいるのか。アレキサンダーに間違えられたフランクの命は。。。

他愛の無い、出来のゆるい話だ!

 主演に、あの、アンジェリーナ・ジョリーとジョニー・デップという二大俳優を配すれば、映画ファンならば、とりあえず観てくれるだろうという、製作会社の目論見にまんまと乗ってしまった。

 ボスの金をくすねて逃げているアレキサンダーは、整形手術をしたので、最後まで誰だか分からないのが、面白いってことで話を作りたかったようだけど、この内容では、がっかりな出来だ。

 フランスのパリやイタリアの水の都:ヴェニスがロケ地となり、特にヴェニスでは、水上タクシーやボートと共に街並みが綺麗に撮影されているが、これが、あまり緊迫感が無くて、返って不自然さが残る。

 ギャングとの追っかけっこが、襲撃者とエリーズ達との距離がかなり近いにも係わらず、拳銃の弾もあたらず、適当に逃げることが出来る。
ヴェニスの屋根での追跡とイタリア警官とのくだりは、笑いをとろうとしているが、編集が下手で笑えない。

 愛人であるアンジェリーナ・ジョリーとジョニー・デップの関係も、ここまで、愛していたなら、顔だけでなく体の他の特徴も覚えていた筈と、観終わってから、どうも腑に落ちない点が、多すぎる。

 人には、コインの裏表のように、良い面と悪い面があるなんて、分かり切ったことをチラット言っているが、これも主題になりきっていない。

 もっと、脚本を練って、ミステリー仕立てにするのか、ラブ・アクションにするのか、コメディにするのか、目標を明らかにしてから作ってくれ!

 アンジェリーナ・ジョリーとジョニー・デップがでているというだけで、他には印象が何もない映画だった。

アンジェリーナ・ジョリーなら;「ソルト」
ジョニー・デップは;「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズ

     英国王のスピーチ   

あらすじ: 第2次世界大戦が始まりかけていた頃のイギリス王室。2番目の王子:ジョージ(コリン・ファ-ス)は、吃音(どもり)だったために、人前での演説が苦手で大嫌いであったが、父親のジョージ5世は、容赦なく演説の場を与えていた。そこで、ジョージの妻:エリザベス(ヘレナ・ボナム=カーター)や周囲の人たちも何とか、ジョージの吃音を治そうと、名だたる言語聴覚士の治療を受けさせたが、ジョージの吃音は治らなかった。そんな時、ライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)という外国帰りの者が吃音を上手く治しているということを聞きつけ、ライオネルを訪問する。しかし、ライオネルの矯正方法は、他の著名な言語聴覚士のやり方と大きく異なり、診療も宮廷ではなく、ライオネルの自宅で行い、また、王子であってもフランクな友達名で呼びあうというものだった。当初は、無理をしてライオネルの家に通い矯正を受け、少しは良くなったものの、完全には治らないので、ジョージは腹を立てて、診療を止めしまう。そして、父親:ジョージ5世が亡くなり、長男のエドワードが即位するが、エドワードはアメリカ人の離婚歴のあるシンプソン婦人を好きになり、王位を捨てて、イギリスから出てしまう。ヨーロッパではナチスが猛威をふるう中、仕方なく、王位に就くことになったジョージであったが、国民は、王の言葉を待っていた。止む無くまたライオネルの力を借りるが、演説の時間が迫る。。。

女:特別なアクションも無い話を、実に上手くまとめたわね!

男:映画の公開のタイミングが、これまた、良かったね。
  この映画の公開が、2月26日で、丁度、その週の2月27日の日曜日に「第83回アカデミー賞」の発表があって、この「英国王のスピーチ」が作品賞とコリン・ファ-スの主演男優賞や監督賞(トム・フーバー)などをとったので、平日の昼間でも、かなりの観客が入っていた。
女:映画の予告編やチラシからでは、スピーチが下手でそれを克服するのは分かったけど、本当に地味な話のイメージだったので、アカデミー賞の前に色んな賞をとっているという宣伝も聞き流していたけど、観ると確かによく出来ていたわ。
男:製作が、アメリカのメジャーではなくて、イギリスとオーストラリアの合作だ。
  それが、アカデミー賞をとったということもすごいね。
女:また、配役もコリン・ファ-スやジェフリー・ラッシュなんて、いっちゃ悪いけど、若手とはほど遠い人でしょ。
  それが、「作品賞」とは、アメリカのアカデミー賞選考の人たちも、映画を愛するまじめな人たちだったってことね。

男:当然、コリン・ファ-スやジェフリー・ラッシュのセリフ運びと演技力、また脚本の良さがこのアカデミー賞受賞という栄光をもたらしたわけだけど、ジョージの妻役のヘレナ・ボナム=カーターの活躍も印象に残る。
女:どこかで観た女優だと思ったら、ジョニー・デップも出ていた「アリス・イン・ワンダーランド」の恐ろしく頭のでっかい女性だったのね。
  「アリス・イン・ワンダーランド」と違って、この映画では、普通の顔とメーキャップだったから、誰だったか思い出すのに時間がかかったわよ。

男:大人の俳優たちが、魅せる演技をしたら、カー・チェイスや巨大な爆破シーンがなくても、チャンと感動を呼ぶってことだ。
女:日本などでは、イギリス王位を捨ててまで、恋に走った兄のエドワードの方が有名よね。
男:その扱い方が、面白かったね。
  恋に生きるという評判のいいシンプソン婦人でも、皇室内や関係者からは、品が無く全然良く思われていなかったんだって。
女:そういった、普通の家庭と同じように、あるかも知れないっていう内情の描き方は、イギリス皇室を描いた「クイーン」でもあったわね。
  イギリス映画であっても、将来は王になるジョージに、下劣な言葉を言わせたり、また、皇室に対しても遠慮をしないで、辛らつなセリフが飛び交っているわ。

男:それと、既成の権威に対する批判精神だね。
女:「博士」とか「医師」の肩書が無ければ、一流でないという考え方ね。
男:このあたりの批判精神を、日本の映画界やマスコミ関係者もぜひ見習って欲しい点だね。
  どうも、日本の報道関係は、皇室での醜聞や揉め事を知っていながら隠している。
  タブー視が行きすぎだ。
  これでは、国民の判断が歪んでしまう。
  善し悪しを判断するのは、報道関係者ではなくて、民主主義の主権者である国民である事を忘れている。
  情報を提供する前に、報道関係者のフルターがかかっては、私たちの判断が間違えるからね。
女:まあ、今の儲かる体制を維持しようとしてやっきになっている、巨大新聞社や、赤坂やお台場の広大な不動産の管理で多忙なテレビ局では、その役目は放棄しているから、言っても無駄ね。

  でも、ヒットラーのように「スピーチ」が上手くても、困るわけでしょう。

男:そこは、民衆を扇動して暴挙に走ったヒットラーがスピーチする場面を映画にもいれて、チャンと批判精神は忘れずにいる。
  批判をいれて、最後には、英国王万歳!で終われば、イギリスの王室からも、イギリス国民からもクレームはこないと、計算づくだね。
女:でも、ジョージの吃音の原因が、幼い頃に受けた心理的なストレスにあったのね。
  本当に男性は気が弱いわ!

男:その点、きみを始めとして、女性は絶対にストレスが原因で「吃音」などには悩まないよね。
女:何か言った!
男:いや、なにも・・・

英国王室を描いた;「クイーン」
ジェフリー・ラッシュが活躍している;「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズ

バッキンガム宮殿付近なら;「駆け足で回ったヨーロッパ」、イギリス編

    ミュージカル ゾロ  日生劇場  

あらすじ: 19世紀頃のスペイン移民が住むアメリカのカルフォルニア。ドン・アレハンドロ(上條恒彦)が治める地方で、アレハンドロの息子のディエゴ(坂本昌行)と村の娘ルイザ(大塚ちひろ)そして親を亡くしたがアレハンドロが息子のように育てているラメン(石井一孝)は幼い頃からの遊び友達だった。成長したディエゴは、田舎に飽き足らず、スペインに行き、ジプシーの集団に入り、マジックを得意として、ジプシーの女:イネス(池田有希子)たちと各地を放浪していた。しかし、故郷カルフォルニアでは、アレハンドロが落馬事故で亡くなった後、ラメンが総督につき、彼のひどい独裁で民衆は困窮していた。ルイザからの連絡で、ジプシーの仲間たちと一緒にカルフォルニアに戻ったディエゴは、表面ではラメンに従っているように振舞っているが、裏では、「ゾロ」と名乗って、民衆を救っていた。しかし、「ゾロ」を捕らえようとするラメンの罠にはまり、ついに捕らえられてしまう。強引にルイザと結婚式を挙げようとするラメンには、アレハンドロの死について隠していたことがあった。ゾロの処刑とラメンとルイザの結婚式が行われる。。。

情熱溢れるフラメンコとスパニシュ・ギターの音色が舞台だけでなく劇場全体を熱気で包む!

 話は、「Z(ゼット)」のマークを残して、民衆を救うあの「怪傑ゾロ」です。
そのゾロをV6の坂本昌行が演じ、踊り、そして歌っている。

 他の主な配役としては、ジプシーの女:イネスに池田有希子と島田歌穂、ラメンの部下のガルシアに芋洗坂係長と我善導がダブル・キャストになっている。
音楽は、ジプシー・キングスが担当し、ロンドン・パリなどで既に公演されたミュージカルだ。

 全編を、スパニシュ・ギターと情熱的なフラメンコの踊りが包む。
舞台には珍しく、本物の火も各所で使われている。

 実に観客を楽しませてくれる演出だ。
舞台から消えるイリュージョンもありの、ロープを使って、上から舞い降りたり、天井に舞い上がったりと、舞台全体を使った演出は練られている。
そして、ゾロだから、当然、剣劇もある。

 これらの凝った演出をまた盛り上げるのが、本場の人たちも交えた「フラメンコ」の情熱溢れる踊りと、その官能的な動きの取り入れ方だ。

 娘役の大塚ちひろは前に観たとき(2010年5月)よりも、少し太ったような印象を受けたが、これだけハードなフラメンコを踊るのでは、痩せていては、体力が持たないと納得した。

 歌の方は、ジプシーの旋律の他にも、ロック的なメロディもあるが、訳詞:松田直行の苦労の成果で、分かり易く響いてくる。

 この舞台では、ジプシーの女:イネスに扮した池田有希子が歌に踊りにと熱演していて、気持ちいい。池田有希子の為の舞台ともいえるほど、フィットした役だ。

 笑いも散りばめた出来栄えは、カーテンコールで用意されているフラメンコが終わっても、まだ観客を劇場に留めさせ、舞台と一緒になって踊っていた。

 この舞台は、いつもの1階からではなく、日生劇場の2階席から観たが、上から観ると、踊っている人たちの動きがよくわかっていい。

大塚ちひろの;「レベッカ」

情熱の国、スペインを知りたいなら;「スペイン・ポルトガル」の旅行記もあります。グラナダで本場のフラメンコを観ています。

     ヒア アフター  

あらすじ: フランスで人気TVキャスターのマリー(セシル・ドウ・フランス)は、不倫相手のデレクターと東南アジアでヴァカンスを楽しんでいたが、巨大津波に遭難する。どうにか一命をとりとめたものの、津波に飲み込まれた時に垣間見た死後の世界が脳裏から離れず、フランスに戻っても、TVキャスターの仕事に集中できず、死後の世界についての本を書き、イギリスで出版することになり、ロンドンのブック・フェアへ出席することになった。そのロンドンでは麻薬中毒の母親と離れさせられて、里子に出されたマーカス(フランキー・マクラレン)が、交通事故で亡くなった仲のよかった双子の兄となんとか「交信」したくて、霊媒師を探していたが、みんな偽者ばかりだった。そして、アメリカのサンフランシスコ。本物の霊媒師のジョージ(マット・デイモン)は、その才能に疲れて今は、身を隠し工場勤めをし、チャールズ・ディケンズの詩の朗読を聞くことで精神の安定を得ていた。気晴らしに通い出した料理教室で知り合ったメラニー(ブライス・ダラス・ハワード)に好意を持つが、相手の手に触れると、相手に関係した死者の「苦悩」が分かるその才能のせいで別れてしまい、失意のなか、ディケンズが住んでいたロンドンを旅する。ネットでジョージを知っていたマーカスがジョージに出会い、さらにマリーとの出会いが。。。

導入部が長すぎだ!

 タイトルの「ヒアアフター=Hereafter」とは、日本語の訳としては完全な「来世」と言うよりは仏教なら「彼岸」の程度の意味か。この映画では、そこは、詳細には描かれていないけど、完全な「死後の世界」ではなく、死と生の狭間のイメージのようだ。

 監督は、あのクリント・イーストウッド。彼が、なんと音楽も担当し、製作にも絡んでいる。

 殆どの映画は、映画館においてあるチラシを手に入れ、また、その映画の予告編を何度も観ている私ですが、この映画については、実におかしな事に、映画館でのチラシも見た事がないし、予告も一度も眼にしていませんでした。(急に、上映が決まったのか?)

 それは、さておき、タイトルからでは「死後の世界」が主題になっているような映画かと思いましたが、実際は、本物の霊媒師が、過去に縛られることなく付き合える女性と出会うまでの話です。
フランス女性が出て来ますから、映画でも、英語の以外に、かなりフランス語が飛び交い、英語の字幕も、日本語の字幕に重なります。

 話の展開としては、クリント・イーストウッドも、高齢になり、そろそろ「死後の世界」を真面目に考えて来たのかと思いきや、最後は結局「男女の愛」になるわけですが、それにしては、フランスのTVキャスターの椅子争いや、マット・デイモンの工場でのリストラや金儲けなど、最後に来るまでが、長くて、観ている途中で、何度もあくびがでる映画です。

 双子の子供の内一人が死に、更に不幸な家庭で、里子に出されるなんて、これまた、安易なお涙頂戴では、成人の男女の愛を結びつけることと別の方向にあって退屈です。
また、ここは、子供を使って幽霊を描いていた「シックス・センス」の影を感じます。

 殆どの霊媒師(映画では「霊能師」と訳していますが、ここは、霊媒師の方が適しています)が、インチキな存在であると言っていながら、本物の霊媒師もいるというのでは、そこをメインのテーマとして、コメディとして描いた方が、面白い展開になった気がします。
それなら別の映画「ゴースト」になるか。

 じゃ、臨死体験の方に主題をおいてくれると、良かったのかというと・・・

 結局、この出来では、退屈だったという事です。

クリント・イーストウッドとマット・デイモンのコンビなら;「インビクタス」

    太平洋の奇跡 ーフォックスと呼ばれた男ー  

あらすじ: 太平洋戦争も終わりに近く、日本軍の劣勢が濃厚になって来ていた、昭和19年(1944年)の太平洋に浮かぶ軍事拠点:サイパン島。軍人だけでなく多くの民間人も移住していたが、圧倒的な物量を誇るアメリカ軍の攻撃を受け、日本軍は最後の玉砕戦法をとり、多くの民間人も島にあるバンザイ岬から投身自殺をする。しかし、どうにか生き延びた大場栄陸軍大尉(竹野内豊)は元やくざの一等兵堀内(唐沢寿明)ら、47人の兵士を率い、民間人の青野(井上真央)達も保護しながら、タッポーチョ山に籠り、ゲリラ的にアメリカ軍を襲っていた。そのため、アメリカ軍からは”フォックス=狼”と呼ばれていた。日本に留学経験のあるアメリカ陸軍大尉:ハーマン・ルイス(ショーン・マクゴーウァン)は、通訳として元木(阿部サダヲ)を使い、大場達に投降を呼びかけるが、成功しない。そして、昭和20年8月、日本はアメリカに降伏するが、大場たちは終戦を信じず戦いは続く。。。

こんな威厳のない指揮官では統率できない!

 日本側の監督は、平山秀幸がし、アメリカ側のサブ監督は、チェリン・グラックがしたが、映画全体としてのつなぎは、滑らかで問題はない。
原作は、アメリカ人のドン・ジョーンズが書いたよくある”真実に基づいた話”である。

 まあ、真実に基づくのは良いのだけど、ご承知のように、真実ばかりでは、本としても、映画としても、盛り上がりに欠けるので、どうしてもフィクション(作り話)を入れ、そこで味付けを濃くして、感動に持って行こうという目論みです。

 例えば、日本の兵隊では通常あり得ない刺青をいれたやくざ上がりの唐沢寿明や、けなげに負傷者を手当てしてくれる民間人の井上真央、そして大場に好意を寄せる中嶋朋子などが、その味付けをする役割です。
でも、それらの描き方が部分的で、充分に完成していません。

 唐沢が演じるやくざな兵隊も、登場の仕方は野武士のようで上官に反抗的かと思えば、終わりでは、物分かりのいい一兵卒では、物足りないし、中嶋朋子に至っては、大場に対する好意が分かりにくく、不自然な程です。
また、一度気が狂いながらも正常に戻る兵士の話もありますが、このくだりはもう不要でした。

 基本的な違いとして、アメリカ人のキリスト教徒が書いた本に基づいたための、理解できない日本人の腹切りや、赤ん坊の命の扱い方でしょう。
当時の日本人が教えられていたアメリカ軍は”鬼畜”でしたから、親がいない赤ん坊なら、残された子供の将来を考えると不憫さが募り、殺すのが普通です。これは、現代の日本の親たちも同様ですけど。

 脇役たちの描き方の不十分さや、話の展開の悪さ以上に、これは、竹野内豊を主役にした事も大きなミスです。
竹野内豊は、少しかっこのいいサラリーマンならその演技もいけるかもしれませんが、軍隊での指揮官を演じるには、まだまだ青い俳優でした。
この戦争という状況で求められている、兵隊たちを引き連れる威厳、凛とした態度、決断力を見せる迫力からは、程遠い演技力でした。
いつも、しっかりと軍服を身に纏っているだけでは、それらは表現できません。

 また、大場達、日本兵が投降する際に、行進しながら歌を唱っていますが、これは、付けたし過ぎでした。
ここで、あの名作「戦場にかける橋」のシーンが脳裏に蘇り、シラケた気分となります。

 大体、当時の日本兵が、無事に生きて日本に帰ろうと思っていたという発想自体が、アメリカ的です。
まあ、その他にも、簡単に収容所に侵入できたり、投降しない兵隊(山田孝之)の扱い方、また、通訳の民間人:阿部サダヲが殺されるシーンでの収まり方など、荒い展開も大いに気になる出来でした。

    RED/レッド  

あらすじ: 今は現役を引退し、年金で静かに暮らしている元CIAのエージェント:フランク(ブルース・ウィリス)であったが、体は相変わらず鍛えており、時折、電話で話す年金の担当者:サラ(メアリー=ルイーズ・パーカー)に好意を持っていた。そんな退屈な日々のはずが、訳も分からず、急にCIAに襲われ、どうにか逃れたものの、昔CIAで働いていたジョー(モーガン・フリーマン)やマーヴィン(ジョン・マルコヴィッチ)も狙われていることが分かり、フランク達3人は仲間となり、元イギリスの情報機関MI6の女スパイだったヴィクトリア(ヘレン・ミレン)の助けを得て、CIA本部に忍び込み、極秘書類から命を狙われる訳が今の副大統領の命令だと分かり、CIAに復讐する。彼らの作戦は成功するのか。。。

女:若い頃の”007”を偲ぶ映画ね!

女:出ている高齢の俳優たちと”レッド”なんていうから、もう、サッカーの”レッド・カード”を想定した、映画界からの退場処分かと思ったら、逆に老人の大活躍映画だったのね
男:英語では、”Retired Extremely Dangerous” の頭文字のRED(レッド)で、”引退しているがすごく危険な人物”の意味だとさ。
女:モーガン・フリーマンやヘレン・ミレンなど、出ている俳優はすごい人達を集めたわね。
  単独でも、主演映画が作れるでしょう。

男:でも、よくも、まあ、そんな俳優がこんなフザケタ映画に出たねってことを言いたんだろう?
女:元になっているのは、典型的に筋が荒くてアクションだけのアメリカン・コメディでしょう。
  それじゃ、ストーリーを追って行くのは、無理よね。

男:映画の作りが、明らかに、高齢の観客を対象にしている作りだよ。
  歳をとっても、家に引きこもらず、外へ出て、派手な銃撃戦やアクションを楽しみましょうということだ。
  また、アメリカの田舎からニューヨークやフロリダと各地をロケして風景も観せる。
女:そうね。
  私たちが若い頃観た、正月映画の定番だった、あまり細かな事は気にしないで、ただ楽しければいいって作品ね。

男:今では、東西冷戦時代のロシアのスパイや、イギリスのMI6なんて、ショーン・コネリーが出ていた”007”の時代の物で、もう遠い、遠い、昔の思い出だね。
女:高齢者を尊敬しない若者達をCIAと置き換えたいようだけど、そこまで煮詰めた出来でもないし。
男:最後には、皆な、恋も得て元気な老人がその後もハッピーで暮らしましたとさ、で終わるかと思いきや、モーガン・フリーマンが殺されるのは、おかしいね。
女:それは、単純にモーガン・フリーマンのスケジュールが一杯で、最後までブッキングできなかったからじゃないの。
男:他のシーンも特にゴチャゴチャ言う事もない、他愛のない娯楽作品なのに、でも、モーガン・フリーマンのこの扱い方が、特に唐突さを感じたんだ。
女:気休めに作られた映画をもうこれ以上追及することはないのよ。
男:歳をとっても、身体は丈夫だから、若い女性と恋をするか。
女:どうして、恋愛の対象が、若い女性になるの! 
男:いや、それは、映画からのはずみッ。
女:いつまでも、本当に懲りない人ねっ。
男:それが、おとこ なんだろうね。
女:なにか言った!
男:いや、べつに...

ブルース・ウイルスの近未来物;「サロゲート」
ヘレン・ミレンなら;「クイーン」
モーガン・フリーマンの;「インビクタス」

     最後の忠臣蔵  

あらすじ: 元赤穂の浪士47人が元禄の討ち入りを果たしてから、16年後。他の浪士達と吉良邸に討ちいった寺坂吉右衛門(佐藤浩市)は、大石内蔵助(片岡仁左衛門)の命を受け、現場を離れ、残された浪士の家族に打ち入りの状況を説明し、また、内蔵助から託された金銭を届けていた。どうにかその使命も終わり、京都で開かれる赤穂義士の法要へ戻る途中、打ち入り前日に、仲間から逐電した、瀬尾孫左衛門(役所広司)を見かける。吉右衛門と孫左衛門は無二の親友で、どんなことがあっても、主君の無念を晴らそうと誓ったのに、どうして孫左衛門は、打ち入りを前にして逃げたのか、吉右衛門にとっては未だに不可解であった。そこで、孫左衛門の後をつけると、孫左衛門は15,6歳の若い娘:可音(カネ)(桜庭ななみ)と二人で古びた家に暮らしていた。しかし、孫左衛門は可音に、まるで武士の主君のお嬢様のような接し方をし、近所に住む元花魁:夕霧(安田成美)に助けてもらい教養もつけさせていた。実は、可音は、大石内蔵助の隠し子で、孫左衛門は内蔵助の密命で、秘かに育てていたのだった。そんなことは知らずに育った可音であったが、豪商の息子(山本耕史)に見染められ、内蔵助の隠し子である身分を明かして嫁ぐことになった。事情が分かった寺坂吉右衛門から散り散りになった元赤穂藩士へも連絡が行き、盛大な婚儀が催されるが。。。

日本紹介の前半は、かなりだれるが、後半はまあまあ。

 監督は、フジテレビで「北の国から」シリーズで有名になった、杉田成道。原作は、池宮彰一郎。
題材は、忠臣蔵外伝としても、まあ、京都にいた大石内蔵助も男だから、そんなこともあっただろうな程度の話。
前に、NHKテレビで放映されたので、ぼんやりとどこかは覚えている。

 製作が日本の企業ではなく、ワーナー・ブラザースとなっているのが、この映画をつまらなくさせている。
そう、海外向けの仕様となっている点が、日本人である私には鬱陶しい。

 毎度、毎度、日本を表すのに使われる定型的な、京都といえば竹林、紅葉、そして、雪山など日本紹介の絵葉書をイメージした数カットを、海外の観客の眼を意識して、どうしてもどこかに入れなければならないという強迫観念から脱却できない発想だ。
さすがに、富士山(フジヤマ)と、撮影で時間が無かったせいか桜は登場していないが、これまた、日本の古典芸能として人形浄瑠璃の「曽根崎心中」が随所に挟みこまれる訳だが、ここまで挿入するのは感心しない。

 大石内蔵助の隠し子の娘を、教養と気品のある身として育て礼儀・作法を教えたり、瀬尾孫左衛門と内蔵助との関係が、この日本紹介の絵葉書的な場面と絡めて描かれるのが前半で、その秘密を隠し通すために、無二の親友であっても寺坂吉右衛門と瀬尾孫左衛門がチャンバラで対決するがここのシーンの描き方が、実に下手だ。

 訳も無く、切りあって、背景もいつの間にか、ススキの原から小川のほとりと、観ていると、どうしてこんなに長い時間がかかり、場所を移動するまでに決着がつかないのかと、飽きれる。

 でも後半の婚儀が決まってからは、どうにか、可音を演じる桜庭ななみ の可愛さと、年齢の差はあるもの、恋を知らない乙女の父親に対する愛情と、男と女の恋愛感情の相克が絡み合ってきてからは、こんな可愛い娘に慕われてみたいという、高齢者の男としての感情もあるので、退屈感は薄らいだ。

 若い娘さんから、婚礼を前にして、手作りの着物をプレゼントされたら、父親は勿論のこと、親戚の叔父さんであっても、また、近所のおやじさんでも、これは、単純にうれしい話だ。
最大の見せ場の結婚式を夜にして、松明(たいまつ)や、大石内蔵助を慕う元赤穂藩士の祝いへの参加など、このあたりの、描き方は、監督:杉田成道の腕の見せ所、泣かせ所であり、またそれに、観客も乗れる作りであった。

 本来なら、幕府に反抗した罪人の隠し子で、一生、日陰の身であった大石内蔵助の娘がここまで綺麗に扱われるとは、日本人の忠臣蔵に対する気持ちの寛容さを、また認識した。

 目的を達したら、もう後は仲間を追って「切腹」しかないという解釈については、現代人としての意識では、残された人生は自分の幸せに使えばいいという気持ちもあるが、当時の武士としては、主人の為に働いてきて、自分の他の生き方が分からないと理解した。

 時代劇がどこか似合わない、役所広司の;「十三人の刺客」
 でも、最後の切腹の苦しみをここまでリアル、描くのは、どうかな?

     ソーシャル・ネットワーク  

あらすじ: アメリカの名門大学:ハーバードの学生でパソコンのプログラムが得意なマーク・ザッカーバーグ(ジェシー・アイゼンバーグ)は、エリカ(ルーニー・マーラ)とデートするが、女性を馬鹿にしている態度がみえみえと会話がかみ合わず、振られてしまう。そこで、頭にきたマークは大学のサーバーに侵入して、学生ファイルを手に入れ、女性を比較するサイトを立ち上げたら、これが評判になりアクセス数が増えてハーバード大学のサーバーがダウンし学内査問委員会にかけられる。しかし、学内で有名になったマークは、そのプログラムの才能を買われて、上級生で裕福な家庭出身の双子のウィンクルボス兄弟から、匿名でない自己紹介のサイトを創る仲間に誘われ参加する。だけど、あまり周りを気にしないマークは、親友のエドゥイン・サベリン(アンドリュー・ガーフィールド)から1,000ドルの出資を元に、ウィンクルボス兄弟を外して、二人だけで、ソーシャル・ネットワークの「フェイスブック」を立ち上げる。すると、このソーシャル・ネットワークは、あっという間に学生たちの間で評判となり東部の大学から西海岸、シリコン・バレー、そして、イギリスの大学にも広がっていった。「フェイスブック」の噂を聞いた、無料音楽ダウンロードで有名になったナップスターの創設者:ショーン・パーカー(ジャスティン・ティンバーレイク)の支援も受けて瞬く間に、「フェイスブック」の登録者は、百万人を超え、マーク達は広告収入で億万長者になるが、親友のエドゥインは、ショーンと馬が合わず、会社を離れていき、株の譲渡問題でマークを訴える。一方、アイデアを盗まれたと、ウィンクルボス兄弟もまたマークを訴える。友を失い、ガールフレンドもいない寂しいマークのこれからは。。。

いかにも、アメリカが好きそうな話ではあるが!

 題材は、今やアメリカだけでなく、全世界に5億人が登録しているとされる、実際のソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)である「フェイスブック」を学生時代に立ち上げて、世界で一番若い億万長者と言われている、実存のマーク・ザッカーバーグの学生時代からつい最近までの実話的な話である。

 パソコン・オタクのマークを演じているジェシー・アイゼンバーグを始めとして、出演者のセリフが実に早口でしゃべられるので、活気のある展開になっている。
でも、そんなに、インターネットやパソコンの専門用語を知らなくても、話には着いていける?(字幕を追うだけで、疲れるか?)

 映画は、「フェイスブック」が成功して、億万長者になったマークに対して起こされた、元の親友だったエドゥインとウィンクルボス兄弟の2つの訴えを審理する会での、各自の言い分に基づいて、過去に遡るという構成をとっている。
過去と現在の時系列は、整理されているので、面食らうこともない。

 インターネットの利用という、1つのアイデアだけで、世界中を繋ぎ、あっと言う間に、巨万の富を得たと言う事実の裏側を知りたいと思い観た。
確かに、最初のヒントは、女性に振られた事の腹いせだったとは、成功の始まりはそんな他愛のないものだと納得できる。
また、名門大学:ハーバードでもその内部では、さらに上級の階級がありそのグループに入れないと、卒業後に差がでるなどの話は面白い。
だけど、成功の裏にある妬みやその成功で失ったものなどの描き方は、平凡である。

 人間の心までは、プログラムできないことは、みんな知っているのだから。 

 観終っても、それが、どうしたって気持ちになるだけだった。
もう一度、観たいかと問われれば、「もう、結構です」と答える出来栄えだ。

 私も、ネット上で、この映画・演劇評論だけでなく、「目指せ! マンション管理士・管理業務主任者」という大規模なサイトなどを運営しているが、ネットで金儲けは考えてはいない。
折角、個人が情報を発せられる時代が来たのだから、金儲けを考えずに、個人の意見を交換しましょう!

 マーク・ザッカーバーグを演じているジェシー・アイゼンバーグを見ていると、お笑いのナインティナインの岡村隆史を感じるのは、私だけ?

     アンストッパブル  

あらすじ: アメリカは、ペンシルバニアにある貨物列車の操車場。緊張感のない操車係りが、ポイントを切り換える際、貨物列車にブレーキをかけなかったために、全長800mをこえる貨物列車が無人のままゆっくりと暴走を始めた。運行担当もそのうち止められると軽い気持ちでいたが、関係先への連絡ミスもあり、無人の貨物列車が時速100kmを超えるスピードで暴走を続ける。大量の爆発性のある化学物質が積まれているため、鉄道会社もヘリコプターを使って人が乗り移る作戦や、意図的に脱線を試みるが、失敗に終わる。このままでは、急カーブがある市街地で脱線し、大惨事を起こす状況が目前に迫る。そのころ、不況で解雇を言い渡されてもうすぐ会社を辞めることになっているベテランの機関士:フランク(デンゼル・ワシントン)は、ミスばかり起こす頼りない新人の車掌:ウィル(クリス・パイン)と共に、暴走列車が来る線を反対側から走っていた。フランクの操縦する貨物列車は間一髪で、引込線に入り正面衝突は逃れた。しかし、目前に迫る大惨事を愛する家族のために防ぐ決心をした、フランクとウィルは、暴走列車に追いつきスピードを落とす作戦をとる。しかし、2つの列車の距離はなかなか縮まらない。街が迫る。。。

女:単純な話を、よくここまで引っ張るわね!

男:映画化の元になっているのは、アメリカで実際にあった貨物列車の暴走事件で、この映画はそれに触発されたものだ。
女:それにしても、大惨事が回避されたのは、もう事実として観る前から分かっていることでしょう。
男:それを、いかに飽きらさせずに、感動のラストへ続けるかが映画製作者としての腕の見せ所ってことだね。
女:それにしては、脳のない設定ね。
男:そうだね。
  首を切られるベテランの機関士、ダメな新人の若い車掌か。二人が最初は反発しながらも、最後は手に手をとって、危機を救い英雄になりました。
めでたし、めでたしでは、平凡中の平凡で、よくあるパターンだね。
女:その二人を取り巻く環境も、全然ひねりのない話ね。
男:家庭の描き方だね。ベテランだけど、仕事中心の父親に反抗しているノウテンキな娘たち。
  仕事が続かず、離婚目前のダメな亭主では、これまた、他の映画でも飽きるほど観たね。
女:そして、よくあるパターンとしては、金儲けが優先する鉄道会社の上層部も入れてよ。
  事件が終われば、理解の無かった娘も父親を尊敬し、離婚を考えていた妻も思いとどまり、家庭は円満。
  会社も事故が防げてフランクの首切りを撤回。ウィルも会社で昇進しました。
  こんなつけたしの話はいらないわね。

男:迫る来る大惨事という緊迫した実際の事件を取り扱うなら、暴走列車をどうやって止めたかというシーンだけに絞った方が良かった気がするね。
  別に彼らの家庭や会社での立場を挿入しないでも、暴走列車の撮影や止めるためのプランなどは充分に見せ場もあって楽しめる。
女:そう?
  ヘリコプターから列車に飛び乗るシーンは、現実では無理な計画じゃない?
  もっと広い空間がないと、やらないでしょう。あの狭い林の間だとかなり危険よね。
  それに、最後の止め方も、「おやっ?」て結末だったわ。
  道路を併走する自動車から、列車に飛び乗れるなら、もっと早い段階でもできたって気がするわ。

男:これもお決まりのような足を怪我していたことを考えると、おかしな話か。
  でも、この映画で駄目だしをしだすと、題名のように「Unstopable」だね。
女:フン、映画と同じように詰まらない英語の駄洒落を言わないでよ。
  本当に、列車だけを描けば、もっと、ハラハラ、ドキドキできた映画が余分なものを加えたために、興奮できなくなったのよ。

男:胸がときめかなくなったのは、映画以外の歳のせいじゃないの?
女:何かいった!
男:いや、なにも...

デンゼル・ワシントンの鉄道物は;「サブウェイ123 激突」


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