2008年 1月の映画・演劇 評論

  母(かあ)べえ

あらすじ: :昭和15年(1940年)の東京。日本が支那事変を始め、戦争体制へと突入をしだした頃。ドイツ文学者の野上滋(坂東三津五郎)の家庭は、「母(かあ)べえ」、「父(とう)べえ」と親しく呼び合うつつましい一家であった。しかし、反戦思想で滋が警察に捕まる。あとにのこされた妻佳代(吉永小百合)と育ち盛りの二人の娘(志田未来、佐藤未来)は、近所の人たちや、妹(壇れい)そして滋の教え子;山ちゃん(浅野忠信)の助けで困難をなんとか乗り越えていく。思想を変えない滋は長い間拘留され、ついに獄中で亡くなる。拡大するアメリカとの戦争は、山ちゃんの命も奪う。夫や親しい人々を奪われた佳代の一生はなんだったのか。。。

山田洋次監督と吉永小百合の集大成となる作品だ!
 監督は相変わらず細部まで手を抜かない山田洋次。
そして、主演は60歳を超えてもちゃんと30歳代の容貌を保つ吉永小百合とくれば、とにかく、観ないわけにはいかない。

その結果は?
十分に期待を裏切らない内容だった。

朝を告げる鶏は、鳴き声だけでなくちゃんと飼われているし、監獄のくさい飯には、これまたきっちりとハエがたかる。
郵便受けは、反戦をさりげなく臭わせて、ローマ字で「NOGAMI」としている。
いつものように無駄がなく、きれいに布石された演出は流石と、山田監督の世界を魅せる。

映像も、狭い4畳半をなお襖で仕切るが、そこには凝縮された情感を上手く醸し出す効果がある。

 無駄で意味のない戦争とはみんな分かっていても、声に出しては言えなかったあの時代への悔恨。
口では、国民のためと言いながら、庶民の口には入らない「すき焼き」を腹一杯食べる権力者。
どこにいるのか分からない天皇を崇拝することの無意味さ。
思想のためには死を選ぶ人。また、その人を支える家族。

 力まなくても、大声で叫ばなくても、感動は与えられ、監督が意図した反戦の気持ちは、ひしひしと伝わるという映画のいい見本だ。

二度とあの戦争を起こした時代には、戻してはいけないことが、吉永小百合の表現力を通じて十二分に伝わってくる。
「あの世」で愛する人に出会っても、楽しくはない。この世で、共に肌をふれあって生活ができるから、喜びがあるのだ。

 まさに、その通りだ。自分の思いの通りに生きられない生活なんて余りにも寂しい。
他人の強制下で生かされても、楽しみはない。
誰も帰ってきたことのない「あの世」を出されても、慰めにもならないという主張は、心を打つ。

観客席で多くを占める老人たちからは、鼻をすする音が絶えない。

現在の自由で奔放に暮らせる豊かな国:日本が悲惨な戦争と、ものをいえなかった人々の犠牲を経て、なりたっていることを認識させてくれた。
心の底から、二度と戦争はしてはいけないと誓う。

本音で生きる叔父さんを演じた笑福亭鶴瓶が、いい役をもらっている。

山田洋次、壇れいなら;「武士の一分」

 

  シルク

あらすじ: 1860年代のフランス。軍人だったエルヴェ(マイケル・ピット)は、故郷の産業である絹織物の蚕が疫病にかかったので、新しい蚕を求め、シベリアを渡りはるばる鎖国中の日本にやってきた。東北地方の豪族原(役所広司)の世話になり、どうにか蚕は手に入れたが、原が連れている絹のような肌をした美少女(芦名星)に一目ぼれをしてしまう。無事フランスに戻ったエルヴェは、新しい妻エレーヌ(キーラ・ナイトレイ)との生活を始めるが、子供も生まれない結婚生活はどこか物足りず、翌年もまた日本への旅にでる。日本の美少女との再会は互いの心を結び付ける。しかし、余りにも違いすぎる環境は、それ以上の関係を拒む。徳川幕府に終わりが近づき、戦乱が激しくなる中、どうしても美少女を忘れられず、日本へやって来たエルヴェであったが、もう美少女には会えない。フランスで寂しくエルヴェを待っていたエレーヌも亡くなってしまう。エルヴェの本当の「愛」はどこにあったのか。。。

湯煙の立ち昇る先はおぼろで、ついでに表現もかすんでしまった!
  日本・カナダ・イタリアの合作だ。
 音楽は、日本の坂本龍一が担当している。

 ヨーロッパから見た、幕末の頃の日本に対する神秘性、そして、日本女性に対する憧れを「シルク=絹」に託したかったようだけど、イメージに選んだ美少女=芦名星では、滑らかで、柔らかでつやつやした肌触りの絹が表現されきれていない。

 日本女性を象徴したかった手の動き、露天風呂での肩の線もこれでは平凡な、また現代的な女の子のままであった。
これが、ヨーロッパ人がイメージした「絹」の日本女性なら仕方がないが、ここは、もっと色白で、映像にしても、肌にかかるお湯がはじけて流れるような、すべすべ感が出ている女性が登場して欲しい。
折角、日本のスタッフが製作に絡んでいるのに、残念である。

 また、ヨーロッパから日本への長旅もあっというまで、苦労がないのも物足りなさがある。
あまたの困難を乗り越えてどうにかたどりついた「神秘の国、日本」。そこで待っていた、ヨーロッパ文化にはない「絹の感触の女性」と出会えた感激のシーンが描かれていると良かった。
鍵となる「日本女性からの手紙」も印象に薄い。

ぼんやりとし、謎めいた日本と日本女性の存在はあるが、生々しく実体的なセックス・シーンと比べて、扱いが幻想のままで、「まぼろし」が最後まで捕らえられずもどかしい。

キーラ・ナイトレイも役所広司も活躍していないが、この中では、フランスにいる役の中谷美紀が、一番いい思いをしたかな。

キーラ・ナイトレイといえば、「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」

    役所広司なら、「それでもボクはやっていない」「バベル」「SAYURI」

    中谷美紀が活躍している、「嫌われ松子の一生」

 

  スウイーニー・トッド  フリート街の悪魔の理髪師

あらすじ:19世紀のイギリスはロンドンのフリート街で理髪師を営むベンジャミン(ジョニー・デップ)は、美しい妻と幼い娘に囲まれて幸せな日々を過ごしていた。しかし、その美しい妻に横恋慕をした悪徳判事タービン(アラン・リックマン)により、無実の罪を着せら監獄に送られる。15年後、復讐に燃えるベンジャミンは脱獄をし、名前をスウイーニー・トッドと変え、またフリート街に理髪店をだし、タービン判事殺害の機会を狙っていた。幽閉された娘、毒を飲んだ妻、そして、不気味なミート・パイを売るミセス・ラベット(ヘレナ・ボナム=カーター)を巻き込んで、今日もフリート街には、異様な煙が立ち昇る。。。

ここまで、リアルに再現する必要性がない。絶対に薦められない作品!
 ジョニー・デップが主演し、「ゴールデン・グローブ賞」も取ったというので、早速観た。
しかし、ここまで悪趣味な映画とは、想像をしていなかった。

 予告編では、殺人もそれほどショックな内容でなく、元々はミュージカルってことで、ジョニー・デップがどう歌うかも楽しみであり、で出しも分かり易い展開であった。
髭剃り競争の相手が、お笑いの「ガレッジセール」の「ゴリ」にそっくりなので、クスクスと笑っていた。

 しかし、楽しめたのはここらまでで、この後に続く残虐な殺人のシーン(本当に、吐き気がするようなシーンなので、詳細は載せません)の表現の仕方には、気分が悪くなる。
何という変質的で、かつまた猟奇的で、ここまで細かく映像化する監督:ティム・バートンの趣味の悪さには、へきへきする。

 映画を観るのは、個人の自由であり、それをどう評論するかも個人の自由な判断だと思い、私の意見を押し付けることは、この評論では控えてきたが、この映画だけは、絶対に観ては欲しくない映画だ。

 復讐を無差別殺人にしても、反省のない脚本。
人間として尊厳されない肉体の扱い方も酷すぎるストーリーは、もう完全に狂気の世界である。

ジョニー・デップが悪ふざけの、「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド

最近、活躍しているアラン・リックマンの、「パフューム

 

  その名にちなんで

あらすじ:1970年代のインド。ベンガル地方の学生アショケ(イルファン・カーン)は、本が好きで、様々な情報は本から得ていた。ある日、列車で旅行中同席した客から、「海外を知っておくことが、役にたつ」という話を聞かされた時に、その列車が事故に会い、多くの乗客が犠牲者となった。しかし、アショケは手にしていた、ロシアの作家ニコライ・ゴーゴリの本のおかげで助かった。数年後、列車で言われた言葉を信じ、アメリカで勉強をするアショケも年頃となり、インドで見合い結婚をしたアシマ(タブー)とニューヨークで新婚生活を始める。新妻アシマにとって、文化も慣習も違う異国の生活は、辛いものだったが、生まれた長男の名前を、ニコライ・ゴーゴリにちなんで、ゴーゴリと名づけ、異郷での生活にも馴染んできた。しかし、アメリカ人として成長する息子は、変人作家として扱われるゴーゴリの名が嫌で、高校卒業とともに、改名をする。そして、息子はブロンドの白人女性の恋人を連れてくる。両親が期待と願望をこめて付けた名前だったが。。。

淡々とした描きかたで両親の愛情は伝わるが、名前のこだわりが伝わらない!
 原作は、ピュリツァー賞を受賞したジュンパ・ラヒリの本を女性のミーラー・ナーイルが監督している。

子供がたくさんいるインドの町並みや、見合いなどを見ていると、今はなくなった昔の日本の習慣を思い出し、懐かしさを覚える。

 「異文化との交流」なんて、インテリを気取った人は簡単に言うけれど、実際に対応する庶民は、自分が今まで経験したことのない環境を肌で感じ、行動することで乗り切る。
気取っていては、食べていけない。また、その国に適応できなければ、その結果が惨めなものになることは、周りの人たちを見れば、例はたくさんある。
それらの苦労を乗り越えて、世界に出て活躍する、中国人やインド人には、心から感心する。

 ところで、題名の「名前」であるが、子供に付ける名前。それには、どこの国の親でも悩む。
先祖とのしがらみもある名家。自分の家系だけでなく、新しく繋がった、妻や夫の家系からくる押し付けもある。
今は、多くの場合、両親だけが、判断して付ければいいが、それは、それなりに苦労が伴うことには、変わりはない。
その時代の流行もあるし、その子が育った時にありふれた「真央」や「翔太」でいいのか、姓名判断上からふさわしいのか、あれやこれやと悩んだ結果、付けた名前だが、自由の国「アメリカ」で育った息子には変な名前と捉えられ、改名されると、親としては、非常に落胆する。
インドなら、父親として改名に反対するだろうが、ここはアメリカ。息子の意志が尊重される。
 
 このあたりの、描き方は素直で、同じ東洋人として理解できる。
また、インドでは、生まれてもすぐに、正式の名前がなくてもいいって話しは、面白い。
充分に時間をかけて名前を決めるそうだ。それだけ、インドでは名前が重要視されているってことだ。

 でも、この映画では、名付けの重要な要素になったインドにおけるロシアの作家:ゴーゴリの扱われ方と彼の作品「外套」の評価が分からないために、父親の名前に対する思い入れが伝わってこない。
父親が感銘を受けた本「外套」と列車事故で助かったくだりを、もっと説明してくれると、観客としては助かる。

 子供に付ける名前に対するこだわりよりも、国により文化が異なることを中心に見たら面白い作品だ。
インド人の父親が崇拝するロシアの作家ゴーゴリも、アメリカ文化では、変質的な作家の評価を受けている。
完全にアメリカ育ちでも、考え方のどこかでインドを引きずる息子。
アメリカに同化しようとしても、それができず、青春時代を過ごしたインドへ戻る母親。

 これらは、日本でも、田舎から都会へ出てきた家族における、両親と都会育ちの子供達とのギャップ。
そして、晩年は都会から、青春時代の思い出に溢れた故郷へ戻る高齢者と重なるシーンだった。

 余談:この映画には、日本人がプロデューサーなどに関係している。

父親役のイルファン・カーンが出ていた、;「マイティ・ハート」

 

  アイ・アム・レジェンド

あらすじ:2012年、有能な科学者:ロバート・ネビル(ウイル・スミス)は、建物だけが残ったニューヨークの街に、たった一人で暮らしていた。それは、3年前、人類にとって、壊滅的な死をもたらすウイルスが蔓延し、60億の人々が亡くなった悲惨な結果だった。どうにか生き延びてきた愛犬と共に、セントラル・パークにトウモロコシを植え、まだ生きている他の人の存在を信じ待ち合わせ場所をラジオから流していた。しかし、暗闇には、ウイルスに感染し人類から変異した夜行性の肉食獣:ダーク・シーカーズが潜み、彼らの攻撃で愛犬も失ってしまう。孤独から自暴自棄になり、ダーク・シーカーズ達に闘いを挑むロバートを助けてくれたのは、幼い男の子を連れた女性だった。ダーク・シーカーズから免疫性のワクチンを作り出すことに成功するが、ダーク・シーカーズが激しく襲ってくる。ロバートは「伝説の人(レジェンド)」になってしまうのか。。。

女:どこかで、観た事のある映画ね?
男:そうなんだ。人類が殆ど滅亡して、ラジオで他の人に呼びかけるのは、記憶のどこかにあるよ。
女:で、調べたんでしょう。
男:原作は、リチャード・マシスンが1954年発表した小説で、1964年に「地球最後の男」の題で映画化されているようだ。
  そして、1971年には、チャールトン・へストンの主演で「地球最後の男/オメガマン」として、再映画化されている。
女:でも、洋画ではなく、ぼんやりしているけど、邦画でも似たようなのがあった気がするのよ。  

男:まあ、昔の記憶は置いといて、夜に弱いゾンビの設定が、この原作が発祥ならその後の怪奇映画やホラー映画に与えた影響は大きいけど、この映画を現在のSF映画としてみると、辻褄があわず、後味が悪いね。
女:どうして?
男:いくらSFでも近未来なら、ニューヨークという大都会では、この状態になる前に、暴動が起こって食物やガソリンなんかは、無くなっていると思うよ。
  田舎の方へ、逃げた方が生活も楽にできると思うけど。
女:そんな行動をとった人が感染して滅亡したのよ。
  それに、たった一人でゴースト・タウンになったニューヨークで暮らしている方が、今までの混雑や繁栄と比較して絵になるのよね。
  こうゆう設定ってこの種の安易な映画では良くあることでしょ。
  それに、他の人が急にウイルスに感染したので、食物や燃料も手付かずに、充分に残ったのよ。
   あり得ることね。

男:でも、そんな説明はなかったでしょ。
  だいたい、 一人だけ、免疫性があって生き残ったって設定は、おかしくないかい?
女:おかしくないわよ。 ゾンビになる人種がいるんだから、反対に抵抗力をもつ人種がいるのよ。当然よ。
  人類って逞しい生物だから、どんなときにでも進化して対応できるのね。

男: すごいね。君は、映画で説明されていない、裏の裏まで分かっているんだ。
女:いいっ、SF映画では、理屈を言ってては、ダメなの!
  気に入らなくても、作った人の、だらしないセンスに合わせてあげることね。

  でも、愛犬がビルの暗闇に紛れ込んだシーンでは、ドキドキしたでしょ。
男:あれだって、人間が本能的に持っている恐怖感の「暗黒」と「突然の音響」そして「後ろからの攻撃」って、いつものやり方を使っていただけだよ。
女: それじゃ、レゲェの神様ボブ・マーリィが大好きだというシーンはどう?
  感銘的な話だったわ。

男:あれこそ、製作者の超個人的な思い入れだよ。
  ボブ・マーリィは確かにレゲェ音楽では神様的な存在だったけど、彼が言うほど、多くの人の行き方までには影響を与えていないね。
女:エエッ? そんなに多くの人を対象にこの映画を作ったと思っていたの?
  ダメねーッ、こういう映画は、正月のパーッとした気分で、観てそれで終わりなのよ。
  ゴチャゴチャ考えないの! 

男:そんな、観方もありかい。
女:おおあり名古屋のコンコンチキってところね。
男:なんだい、そりゃ。もう分からない!

分からないついでに、ウイル・スミスが出ている、「幸せの力」

 


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