2007年 5月の映画・演劇 評論

2007年

 パイレーツ・オブ・カリビアン −ワールド・エンド−

あらすじ:海に棲む怪物に捉われた海賊ジャック・スパロウ(ジョニー・デップ)を救うために、勝気な娘エリザベス・スワン(キーラ・ナイトレイ)と勇敢な青年ウィル・ターナー(オーランド・ブルーム)は幻の海図を手に入れるためにシンガポールにやってきた。しかし、海賊の討伐を進める東インド会社のベケット卿の攻撃は激しく、今は伝説となった9人の海賊の長を集めなければ、ベケット卿には対抗できない状況であった。手に入れた海図に従い、どうにか、ジャックとも会えたが無敵の幽霊船「フライイング・ダッチマン」の船長:デイヴィ・ジョーンズを手なずけたベケット卿との大海原での戦いは壮絶なものとなっていた。「世界の果てーワールド・エンドー」で女神「カリプソ」が怒って引き起こした渦巻きに巻き込まれながら、最後の戦いがくり広げられる。。。

喧騒と幻想と、そして不可解さが満ち溢れる
 いやーっ、まいった、参った。
観終わって、「あらすじ」をまとめようとして、困った。そう、全然話が繋がって行かないのだ。
これは、単に上映時間が170分と長いから、記憶に残らないせいではない。

 遊び心に満ちていると思えば少しは許せるのだが、ここまで適当に遊ばれては、もう「幼稚な出来栄え」となる。
理論的な考えを持つ大人の鑑賞には、堪えられない。

 船が砂漠に漂流し、それをバランスよく蟹がうまく海まで運ぶとは!
 海上でひっくり返った船が元にもどっても備品や船員の被害もないのは、いくらなんでも、適当過ぎないかい!
 女神カリプソは一体なんだったんだ!
 度々出てくる小さなジャックの分身は幻想か!

 例を挙げだしたらきりが無いほどで、面白いと思っているのは、製作者だけだ。
観客は、そのたびに戸惑う。話の中に入れない。

 一番ヒドイのは、登場人物の関係だ。
私は、最初の作品も2作目も観ているが、それでも、あるときは味方が、すぐに敵に変身とこんなに交錯しては、整理できなーい!
悪人であるはずのベケット卿まで、最後は「いいやつ」では、さすがは、お子様の情操を大切にするディズニーと馬鹿にしたくなる。

 私が評価した1作目の生きることの皮肉や「海賊の掟」の精神が無くなってしまった。
どうも、映画のテーマをディズニー・ランドで行われるアトラクションの一環として使う興業の方が優先していると感じられる。

 仕掛けは、壮大だけど、その場だけの映画だった。

過去のパイレーツ・オブ・カリビアン;1作目:「呪われた海賊たち」
                    ; 2作目:「デッドマンズ・チェスト

 主人公は僕だった

あらすじ:税務署の検査官のハロルド(ウィル・フェレル)は数字に強く、毎日、毎日決まった時間に起きて、決まった回数だけ歯を磨き、決まった歩数で決まったバスに乗り、決まった時間に寝るという、超退屈な生活を送っている恋人もいない30過ぎの独身男だった。そんな彼の耳元である日、ハロルドだけにしか聞こえない女性の声がし、その話し声の通りに自分の人生が進むので驚く。どこかの小説家が原稿を書いていて、その小説の主人公になっていることに気がつき、大学の教授(ダスティン・ホフマン)に相談すると、その作家はカレン・アイフル(エマ・トンプソン)といういつも主人公が最後に死ぬので有名な作家であることを突き止める。死ぬかも知れないハロルドは今までの単調な生活を変え、好意を抱いたアナ(マギー・ギレンホール)にも積極的にアプローチを始めた。一方どうすれば主人公を感動的な死で終わらせるのか、悩んでいたカレンは実在するハロルドを知っても作品の流れは変えなかった。ついに小説が完成する。。。

思い付きには感心したが、笑いはとれない
 予告編をみて、誰かの本の主人公になり、その本の通りの人生は面白そうだと思って観た。

 だけど、荒筋でも分かるように、超平凡な男が「死」を突きつけられて人生を積極的に生きるように変身するって設定は、ありふれたものにさせた。
そりゃ、よくある話でも、描き方によっては、充分に心が温められるし、腹の底から笑い、涙も流せるが、この程度の出来では無理だった。

 で出しの部分は、期待を膨らませるが、恋人になるアナが元々善い人だとすぐに分かったり、作家のアシスタントの役付けがはっきりしないところあたりから、面白さが薄れる。
変わり者の大学教授を演じるダスティン・ホフマンもどうしてプール・サイドにいるのか分からない中途半端なコメディ設定で、本当はこの場面のハロルドと教授の絡みで、大きな笑いが欲しいのに、「この足のシーンは何だ?」と笑いでなくて、真剣になってしまう。

 部屋を壊されて、たった一人の親友のところに転がり込む前後も、もともとの脚本では、もっと面白く書かれていたと思えるが、省き方が激しくておかしさがない。
そう、地下鉄での電話のシーンにしても、ここで何かあるのかなって思わせたが何も無く、バスで原稿を読んでいるシーンにしても単に長々としているだけで場面の流れが分からないつなぎあった。

 編集の粗さも、笑いから遠ざけた一因だ。

こんなに荒々しく歯を磨くと、歯が減るよ!

 眉山

あらすじ:四国は徳島市で飲み屋を営む河野龍子(宮本信子)の一人娘として父親の名も知らずに育てられ、今は東京の旅行代理店で活躍している咲子(松嶋菜々子)の元へ、故郷にいる母の入院が知らされた。駆けつけた病院の担当医の話では、龍子はもうガンの末期で、限られた時間しか残されていなかった。何事も自分勝手で、父親のことも隠している母に反発を覚えていた咲子だったが、眉山(びざん)を見上げる徳島で看病を続けていくうちに母の気持ちも分かり、父親とも会えた。寂しい環境のなか、医者の寺澤(大沢たかお)との恋も芽生える。汗と熱気が溢れる「阿波おどり」の輪のなかで、咲子の目論見はうまくいくのか。。。

女:「阿波おどり」の熱気の方が勝った内容ね!
男:徳島市の中心となる山の「眉山(びざん)」をタイトルにした、原作はミュージシャンでもある「さだまさし」の映画化だね。
女:原作は読んでないけど、この映画としての展開は完全に平凡ね。
男:どこが?
女:若い頃から親に反発していた子供が、死を目前にして、初めて親の気持ちが分かってくるのは、他の本や映画でもよく使われている手でしょう。
  それに、限られた命を題材にして、観客の心の中に「涙」を流させようとするのは、ちょとばかり安易なやりかたね。
  そんなありふれた話とやりかたをテーマにするなら、今までの映画をこえた展開と映像が無いと良い評価は得られないんじゃないの。
男:そうか。回想のシーンでの子役や若い頃の俳優が現在の松嶋や宮本に似ていないだけが、面白くない訳ではないんだね。
女:子供と大人のように、極端に歳の差があるんならともかく、大人になってからの回想場面では、今のメーキャップなら、いくらでも本人を若くしたり老人にできるでしょう。
  そのあたりの思い付きと気の配りが監督(犬童一心)に浮かばなかったのが、失敗ね。
男:気配りの無さといったら、病院での靴や履物の音の高さが非常に大きくて、気に障ったね。
  そして、タイトルとなっている眉山がどこまで市民との日常生活に溶け込んでいるのか分からなかった。
  山の上の決められた観光コースから、備え付けの有料の双眼鏡で下を眺めているよそよそしい感じの映像だ。
  撮影のアングルも練られていないね。
女: ひどいのは、咲子と医者の寺澤が恋人になる流れよ。
  簡単に謝られて、子供が好きというだけで、キッスまでもって行くのは、唐突な作り上げね。
  分からない母親の気持ちと死が間近にあって、孤独な咲子の気持ちが寺澤によって慰められていく様子を、もっと丁寧に作らないとだめね。
男:それは、孤独な感じが表現できない、松嶋の演技力も足りないのかな。
  いつも、真直ぐに歩いているシーンだけでは、孤独な寂しさが感じられなかったね。

  不明だった父親を許すのはどう思う?
女:いくら、母親の龍子が許しても、父親は自分の家庭を守るために、娘の咲子を30年以上もほったらかしにした現実はあるわけでしょう。
  それを、一度父親の病院を訪問しただけで、それも患者と医者という上辺だけの会話で、全てが何となく許されてしまう描き方も強引ね。
  それが「人情よ」って頭の中で作り出しただけよ。映像になっていないわ。
男:過去の母親に対する娘の「反発」の気持ちが観ている人に伝わってこないから、「善い人」に変わる今の娘がはっきりしなかったってことだね。
  
  
それで、母親役の宮本信子はどう?
女:今は徳島にいるけど、「江戸っ子」って設定でしょ。
  セリフの流れは、まるで「フーテンの寅」さんのままで、驚いたわ。
  かなりの重態でも、それを表に現さない病院生活は観ていても 納得の演技ね。
  でも、死んだ後に医大の解剖実習に使われる「献体」の 話は余分なおまけだったわ。

  全体としては、地元で撮影に協力した「阿波おどり」にかける徳島の人たちの興奮と夏の熱気を感じただけね。
男:(フーテンの寅の口調で)「それをいっちゃ、おしまいよ」。

 

松嶋菜々子が出ている;「犬神家の一族」

大沢たかおが出ている、これも さだまさし 原作の;「夏解」

 バベル

あらすじ:モロッコの寂しい山岳地帯で羊飼いをする少年に父親から、羊を守るためにライフル銃が渡された。まだ銃に慣れていない少年が試しに撃った弾がアメリカ人の観光バスにいたスーザン(ケイト・ブランシェット)の肩を射抜く。医者も居なく、言葉も充分に通じない異国で必死に治療を求めるスーザンの夫:リチャード(ブラッド・ピット)。事件はテロの可能性があると報道されて、国際問題になり、ライフル銃の元の持主だった日本のヤスジロー(役所広司)にも警察が訪れる。ヤスジローの高校生の娘のチエコ(菊地凛子)は耳が聞こえなく、また母親が自殺したこともかさなり、孤独で荒れた生活を送っていた。一方、アメリカでリチャード家の子供の面倒をみているメキシコ人の乳母は、息子の結婚式があり、預かっている二人の子供を連れてメキシコへ行くが、国境での言葉の不明確さから警官に追われて、荒野に迷い込む。「言葉」が通じない世界で、みんなの想いはどうなるのか、生命はどうなるのか。。。

生と死と、そして性まで扱うには、内容が飛び飛びだ
 菊地凛子が日本人として今年のアカデミー賞にノミネートされ、受賞の期待も大きく話題となった作品だ。
残念ながら、その助演女優賞は「ドリームガールズ」のジェニファー・ハドソンが取ったが。

 貧困のモロッコとメキシコ。まるでバベルの塔のような高層ビルが建つ豊かな日本。自分中心のアメリカ人。
しかし、心の満足はどこにあるのかを問いかける監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの気持ちはわかるが、時系列での纏め方が良くない。
モロッコの事件は連続して流れているにもかかわらず、日本とメキシコの話は過去の話や、時間が省略されており、モロッコと連動していないために、観客が混乱する。
(特にクラブのシーンでの、明滅するライトのせいではないと思う。)

 折角、人類が互いの気持ちを通わせるために生み出した言葉(私は、キリスト教徒ではないので、神が創造した言葉とは言いません)でも、その根底に「気持ち」がなければ、機能しないことは分かるが、モロッコやメキシコの話はなくても良かったのではないか。
愛の言葉を交わすなかでのスーザンのおしっこの話や、モロッコでの姉の裸を盗み見る弟の話は、かなり受け入れがたいものがある。
これなら、日本の話だけで、聾唖者のチエコと父親の話を充実させた方が、流れとしてもスムーズに行く。

 海外からも好奇な眼で捉えられる日本の女子高生の異常なミニスカート。
平和の中で遊んでいる日本の若者たち。
このあたりは、鋭い視点でイニャリトゥは分析していて好感が持てた。
 適度な緊迫感もある。
でも、観終わると、菊地凛子の裸だけしか印象にないのは、私が「スケベ」なせいだろうか。

同じ監督アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの話が交錯する;「21グラム」

アカデミー助演女優賞の;「ドリームガールズ」


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