Feb.2001作成    

「声の文化と文字の文化」 W・J・オング著  藤原書店

「声の文化と文字の文化」。著者のオング氏は、1912年カンサスシティ生まれ。イエズス会士であり、この本の出版 時点でセントルイス大学名誉教授で、専門は古典学、英語学。特に16世紀のフランスの人文学者ペトルス・ラムス研究の第一人者で、マクルーハンの「グーテ ンベルクの銀河系」などにも多大な影響を与えた、とのこと。とはいえ、無学な私はそこらへんのことはすっとばして、この難しそうな本を、一生懸命読んでみ た理由からお話しましょう。


 
 
 
1.(なにげに)(なにげなく)

 現在の私の職場(これが文学とも文化事業とも全く繋がらない、広い意味で言えばサービス業なんですが)で、体験し たお話。
 去年、シドニーオリンピックが盛り上がっていた頃、所属長のおじさまが、何やら怒っていました。「○○クン、なにげに(何気に)って言葉はあるかね?」「はあ? (な にげなく)じゃなくて(なにげに)ですか?またどうして急に」
 おじさま曰く、オリンピックの新体操競技をTVで観ていたら、解説をしていた元競技者の女性が「あの技は (なにげに)やっているように見えますが、本当は難易度が高いんです」と話したのだそうな。おじさまは、(なにげに)などという日本語はな い、NHKがあんな解説をしていいのか、と怒っていらっしゃる。そこへ20代前半の受付嬢が現れ、「エー? なにげにって使いますよお」とおじさまに向かって口を開いたので、話はますます盛り上がってしまいました。おじさまの主張では、(なにげな く)という言葉は(こともなく)とか(なんという気もなしに)という意味と一緒なのだから、(無く)という打ち消しの語が付かなければ全然逆の意味になっ てしまうじゃないか、という訳です。おっしゃる通りです。(なにげなく)という言葉を(何気無く)と漢字で書いてみれば全くその通りと解ります。
 でも、お嬢さんは引きません。彼女の主張は、(なにげに)って聞いた感じがいかにも(簡単に)って感じがする、というのです。「なにげにやってる」と言えばいかにも「ラクにやってる」って感じで、「なにげなく、やってる」と言う のは全然ラクな感じがしない、と‥‥。みんな使ってるし、という訳です。
 完全に意味を問題にしているのではなくて、音感だけに頼っているんですね。中間世代の私は、その感覚はよおく解かるけど、頼むから辞書ひいてくれよ、と 思いながら笑っておりましたが、内心、これだな、と感じていました。それが、この「声の文化と文字の文化」と いう対比のことです。活字離れとか、読書離れとかよく言いますが、それだから若い人が、言葉の正確さを失っていく、と巷で問題にされていることも当然そう なんですが、もっと広い部分での、例えばヒップホップやラップがどうしてこんなに受けているのか、字幕を出 さなきゃ何を歌っているのか全然わからない、英語と日本語とまぜこぜで、しかも巻き舌で歌うのが何でカッコいいのか(別に私も嫌いじゃありません)、そし て、ちょっと前にさかのぼるけど、宗教団体のプレゼンテーションではどうして同じことを歌みたいにして何度もリフレインするのか‥‥。そういうものにハ マってしまう人間と、全然ハマらない人間がいるのはどうしてなのか。
 現在の20代くらいから下の日本人はもう、ほとんど「声の文化」の世代なんですね。体感する情報が一番。原点の意味がそうだから、とか、辞書に載ってい るから、という価値よりも、テレビで言ってたから、誰かが(まわりが)そう言ってたから、という口コミ情報に重きを置く。それを作り手も呑み込んで来たた めに発信する音楽も映像もより効果的な「体感」重視の方向へ進んで、だからますます「体感」した情報が公約数として認知されていく、という繰り返しなんで すね、きっと。
 それはまずいことなんでしょうか。詩人、とか、小説家、とかいう人間にとってはお客さんがどんどん減ってしまうのですから、こんなまずいことはありませ ん。評論、なんてものは本当に空しいものになってしまいます。そこで、私は「声の文化と文字の文化」という大変論理的な本を一生懸命読むことになってし まったのです。

 
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2.音を立ち止まらせると、あるのは沈黙だけ。

「声の文化」と「文字の文化」を原題の英語で表すと、「orality」「literacy」になります。いま私たちが、文学、と呼んでいるのは英語で言えば 「literature」ですから、文字に書かれて、それが読まれて、初めて文学が成り立つという意識なわけです。ここには近代以降の知識偏重というか、 エリート意識みたいなものもないわけではないのでしょう。国民の広いレベルで識字率が高くなってみんなが本が読めて、そこにやっと文学が成り立つ、ってい う認識になってしまいますし、それじゃあ昔の文字が読めなかった人たちの間で、語り部とか吟遊詩人とかの言葉に耳を傾けていたのは、それは文学にはならな いの?ということになってしまいますし。
 この本では何を文学と呼ぶかは、もっと広い意味でとらえて、詩や物語を耳で聴いていた「声の文 化」の人々、さらにはもっとさかのぼって、自然の営みを聴き取っていた人々などと、文字で書かれたものを独りで黙読する「文字の文化」の人々とでは、思考 や表現にどんな風に特徴的なものがあらわれるのか、を詳しく探っていきます。そしてさらには、さっき私が書いたような現代人、つまり「文字 の文化」を通過し、エレクトロニクスの発展の末に、ふたたび音の洪水(声の文化)の中に浸っているわれわれ現代人がこれからどうなっていくのだろうか、 と、(この本が書かれたのは1982年ですから、この本の中ではまだまだ今の21世紀的な音の情報にまでは、話が及んでいません)状況はどんどん変わって しまっていますから、この先のことはまた誰かの本を読まないといけないのでしょうね。
 で、難しいことは言えません。そこで私がなるほど、と唸ってしまったことについて書きます。
 この2章のタイトルにした「音を立ち止まらせると、あるのは沈黙だけ」ということなので す。確かに、文字で記しておけば、後から何度でも目で確認してそれについて何度でも考えることができます。で、よくよく考えてみてやっぱり違うと思った ら、書き直せばいいんです。そしたらその後は書き直したことが証拠になります。
「音を立ち止まらせる方法はないし、それを所有する方法もない」(73頁)
 ラブレターや婚姻届は、ちゃんとそれを所有する(所有してもらう)ことができますし、「愛」という形の無いものに見た目上、形を与えることにもなります (あとあと残るから厄介でもあるでしょうけど)。でも、文字を持たない人の間では、その伝達方法は声(音)しかありません。(本書では、こんな「愛」なん てがさつな例は使っておりません、私が勝手に例にして考えてみているだけです。でもこの例は適切じゃありませんね、「愛」は時として声さえ飛び越えて赤い 糸の世界へ行ってしまうこともあったりしますから‥‥)
 話を戻して、「音を立ち止まらせると、あるのは沈黙だけ」ですから、何かを伝えたければ何度でも音にして言いつづけなければなりません。忘れてしまわな いうちに、また何度でも繰り返さなければなりません。しかし、こうも言えます。文字が無いのですから、かつて声には、私たちが想像する以上の重要性が込め らていたのではないでしょうか。75頁には「声の文化のなかで生きる人びとがふつう、そしておそらく、まず 例外なしに、ことばには魔術的な力があると見なしている事実」があったのだと書かれ、「活字 に深く毒されている人びとは、ことばとは、まず第一に声であり、できごとであり、それゆえ必然的に力によって生みだされるものだ、ということを忘れてい る」と書かれています。原初では、声を交わす、ということがとても意味のあるものだったとして、それが次に、文字を刻む、という形を与えら れたことでさらに確実さを増したにもかかわらず、そのことが当たり前になっていけばいくほど、声(言葉)なんて消えてしまうものさ、になり、やがて、書か れたものはいくらでも書き直しができる、になり、今ではいくらラブレターをもらっても、何度「愛してる」と言われても、まだまだ信用できないと思ってしま う寒い状況に至ってしまったというわけなのでしょうか(またまた貧弱な例ですみません)。
「声の文化」に属していた人々の能力を本書はこんな風にも書いています。「ジェインズ(1977)は、脳が 強固に「両脳的」であった意識の原初的な段階を、つぎのような特徴によって識別する。つまり[その段階では]、脳の右半球が、制御不能な「声」を発し、そ の「声」は神々に帰せられ、そして、脳の左半球がそうした神々をことばで言いあらわしたのだ、と。(中略)明らかにジェインズは、書くようになったこと が、原初の両脳性の衰弱に手を貸すことになったと信じている」
 このことは、古代ケルトで預言をしたり、自然が教えてくれるものを人々に伝えていたドルイド僧が決してその教義を文字に遺さなかったということや、アメ リカの先住民や、オーストラリアのアボリジニの人々、アフリカのシャーマンなど、ほとんど活字文化と接してこなかった人々が、自然や宇宙の声を聞き、それ を何世代にもわたって言い伝えてきたことを考えてみても理解できるような気がします。人間はかつて言葉(文字)では言い表せないけれどもとても確かなもの を、自然からキャッチでき、それで生存することができていたのでしょうけれど、もはやそのような能力は現代人にはありません。そのような能力がなくなって しまったにもかかわらず、「書いたり書かれたもの」に向き合って、自己内省というトレーニングを積まなくなってしまった現代人は、形だけ、かつての「声の 文化」の人々のスタイルを真似ているような、そんな感じがします。
「音の文化の第2世代」(文字の文化を通過し、エレクトロニクスの発展の末に、ふたたび音 の洪水[声の文化]の中に浸っているわれわれ現代人)は、とにかく何かと繋がっていたい、共通の意識の中にいたい。文字がつくりだす意味に もよりどころを見出せない(それ以前に、文字に求める術を知らない)、かといって語られる言葉もちゃんと信用できない、だから、全体的な音の感覚がもたら してくれる高揚感、グルーヴ感にずっとずっと浸っていたい。呪文のような音の海に、みんなで漂っている感じがラク、気持ちいい。それが(なにげ)な感覚な のでしょうし、聴き取れなくてもいい、英語っぽく聞えるからカッコいい、という音楽の氾濫にもつながっているのでしょうし、さらには音の呪文によって教義 の中に引き込まれてしまう弱みにも、きっとつながっていくのでしょう。

 
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3.声の文化の特徴と、文字の文化の特徴

 こんな私の一方的な解釈だけ書いていたのでは、この本の論旨を歪めてしまいそうな不安もありますから、第3章の「声の文化の心理的力学」の中にある、「声の文 化にもとづく思考と表現のさらなる特徴」という項目を、文字どおり、項目だけ挙げておきます。声は、とどめておくことのできないものです し、もういちどとりもどすためには、思い出す、というとても不確実な方法しかないものですし、声はただ独りで発していても何にもならないものですから、そ こには聞き手、さらには聴衆という対象が必要になり、声の発し手と聞き手の関係は、集団とか共同体をつくりだすものです。このようなおおまかな前提をふま えて、「声の文化にもとづく思考と表現のさらなる特徴」の項目を読んでみて下さい。
(1) 累加的であり、従属的ではない
(2) 累積的であり、分析的ではない
(3) 冗長ないし「多弁的」
(4) 保守的ないし伝統主義的
(5) 人間的な生活世界への密着
(6) 闘技的なトーン
(7) 感情移入的あるいは参加的であり、客観的に距離をとるのではない
(8) 恒常性維持的
(9) 状況依存的であって、抽象的ではない

 これらの特徴は「声の文化」を否定的に捉えるものでは決してありません。認識しておかなければならないことは、私 たち現代人は、もう「声の文化」に属していた人々の能力とか思考形態などをすでに失っている、と解かっていなければならないということです。人間が生身の 身体だけで厳しい自然と対峙して、何とか生き続けていかなければならなかった社会状況とも全く異なってきていますし。それなのに、形だけ、イメージだけ で、声の文化を真似ていることには、いくぶんかの危機的なものを感じてしまいます。
 最後に、「文字の文化」における文学(literature)について。
 最終章「いくつかの定理[応用]」の中に、次のような文章があります。著者はフランスの哲学者ジャック・デリダの言葉を引いています。
 
 デリダの結論は、文学は、そして言語それ自身もまた、それ自身の外部にあるなにかを「表象[表示]するも のrepresentational」でも「表現するものexpressive」でもない、ということである。文学は、パイプラインがものを伝えるように なにかを指示するものではないから、したがって、文学はそもそもなにものも指示しないし、意味しもしないのである。

 だからこそ私たちは一生懸命考えるし、考えるために言葉は必要なんだと思いますし、私がいつまでもこの「言葉」と いうものにかかずらっているのも、このためなんだと思います。グルーヴしてるのは楽しいし、気持ちいい。でも、気持ちいいことは、いつまでも続かない、で しょ。

 
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