2.信頼という人間関係―― 映
画の「ブレイブ」
これが映画になると、描きかたはまったく別のものになります。
ジョニー・デップは、実の祖母が純血のチェロキー・インディアンだったと解説には書かれています。そのせいもあるのでしょう。デップは、「ブレイブ」の
他にも、95年にジム・ジャームッシュ監督の「デッ
ドマン」という映画で、まだネイティブアメリカンが本来の生活を細々と続けていた19世紀末を舞台に、ウィリアム・ブレイクという
名前で(もちろんこれは詩人のブレイクを象徴していますが)、聖霊たちと共に暮らすネイティブアメリカンの世界を旅する男を演じています。
「ブレイブ」の映画の中での、デップの漆黒の大きな瞳と、長い黒髪と、つややかな肌は、とても美しいものです。そしてラファエルという天使のような名前。
「シザーハンズ」からしてそうでしたが、哀しいほどに無垢な魂を持った青年をやらせたらジョニー・デップの右に出る者はいないでしょう。彼の表情と演技が
あるがゆえに、「ブレイブ」は小説の苛酷さとは正反対の映画になっているのです。
小説ではラファエルは、実際に人間が殺されるところを撮影して売るためのスナッフムービーの素材として仕事をすることになっています。狂ったビジネスの
ためなのです。ところが映画では、スナッフムービーという言葉はあまり強調されていません。ビジネスのためというよりも、ただ一人の男の純粋な(異常ではあるが)快楽のためだけに命を求められるのです。その男を演じるのがマーロン・ブランド。ブランドは「ドンファン」でもデップと共演し、彼の魅力に完全に惹きつけられ、
「君はシェイクスピアを演じるべきだ」というようなことまでデップに語っています。狂気の男を演じさせたらやはり右に出る者はいないマーロン・ブランド
は、苦痛と死への倒錯をラファエルに語ります。
激痛を伴って死ぬ時、その人の究極的な勇敢さが分かる。
といい、うっとりと涙さえ浮かべながら、
死がついに我々の肉体に訪れ、最初で最後の訣別をする時、
我々は勇気があれば死を歓迎できる。
と話しつづけるのです。小説に登場した契約書は、映画ではまったく存在せず、男はラファエルを見て、全額の5万ドル(前金としてその3分の1)をあっさり
と手渡すのです。
君のような精神や文化、正直さを持った者は、金を持って逃げはしない。
男はラファエルに完全に魅せられ、全く異常な仕事とはいえ、二人の契約は信頼によって結ばれるのです。
さて、小説でラファエルが手にするのはたったの200ドル。映画では5万ドルの3
分の1が手渡されます。死までの残された時間をラファエルは、家族のために、そして同じように死に瀕しているネイティブアメリカンの社会す
べてのために、精一杯つくそうとするのです。それは美しいファンタジーのようでもあるのですが、デップのマイノリティに対する眼差しと、せめてもの希望と
が描かれているように思えます。
詳しいことは省きますが、ラファエルは手にしたお金を惜しげなく使って、モーガンタウンの人々みんなのためにパーティーを開きます。ここで登場する町の
ひとびとのユニークで魅力的なこと。ラファエルの父親を演じるのは、映画「ダンス・ウィズ・ウルヴス」でもインディアンの長老を演じたフロイド・[レッドクロウ]・ウェスターマン。自らインディアン運動家でもあり、シンガーとしても有名
な彼は、今度の映画の中でも特別な存在で、パーティーでは歌を披露し、息子のラファエルには民族の教えを伝え、わたしたちにはわからない言葉で精霊たちと
交わります。そして、これは友情出演でしょうが、イギー・ポップが[鳥の脚を食べる男]とい
う役で出てきます。本当にただ大きな鳥にかじりついているだけなのですが、ファンにとっては強烈な存在感がたまりません。ジョニー・デップの人間的魅力が
マーロン・ブランドを始め、これらの大物を友情出演させてしまう楽しさにつながっているはずです。
映画には文字を書くシーンはまったくと言っていい位でてきません。小説が「ブレイブ」を打ち砕くことで「ブレイブ」の意味を浮き上がらせたのなら、映画
は、ネイティブアメリカンの社会における、人と人との語り合いから生れる信頼だけで「ブレイブ」を描いているのです。
そして、最初に信頼だけを担保に大金を与えられたラファエルは、その金をある人に託して死んでいこうとし
ます。事前に妻に渡せば、殺されるような場所へ夫を行かせるはずがないからです。命と引き換えの金を手渡し、それを家族とモーガンタウンと
いう絶望的な共同体のために間違いなく使ってくれることを信じて信頼を託す相手とは‥‥。そして、殺されることをわかっていながら、この大金を預からなけ
ればならない立場におかれた苦悩は‥‥。
この大切な人のことを書きたいのですが、やはりやめておきます。最後は涙でぼろぼろになってしまいました。