しかし、クレーベルクは小説をそのようなドラマには仕立てない。事
実としての結末をただ描写するだけだ。
1995年に発表され、ドイツの文学賞アンナ・セーガース賞を受けたこの現代の小説は、
言葉による盲目的な夢想を許さない。
作品の冒頭の方で、Kが自問する場面がある。「そもそもことばなどは、社会が共有するも
のであって、だれもが、それを蓄えてある場所から好きなときに借り出してきて、一定の組み合わせで使っているのに過ぎないのではないか。(中略)ことばの
力だけで、だれかがひっくり返って死んでしまったことなどが、かつてあっただろうか?」
これはコピーライターという職業のKの自問であり、クレーベルクという作家自身の小説に
対する冷静な考え方なのではないだろうか。クレーベルクはこの時代において、小説という言葉の構造物が持ちうる力と無力とを、きちんと判別しているのに違
いない。
それが、「裸足」という小説と、「stigma」という漫画が、同じ人間のネガと
ポジのようでありながら、極めて対称的な描きかたになっている理由なのだろう。
峰倉は、すべてのページがカラーという漫画で「stigma」を描いた。空の色、
血の色、色の無い世界、瞳の色。そしてもちろん漫画の線。傷の線、涙の伝う線、影の線、言葉の線。
漫画には、絵によって言葉の夢想を救済する力があるのかもしれない。峰倉はその力を信じ
て漫画を描いているように思える。