Dec. 2000 作成  (文中のリンクをクリックするとAmazon.co.jpなどのリンク先へとびます)
stigmasti

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「裸足」ミヒャエル・クレーベルク と
「stigma」峰倉かずや


倉 かずやの漫画「stigma」の発売日前日、唐突に思い立って図書館で本を借りた。ドイツの小説家ミ ヒャエル・クレーベルクの「裸足」という作品だ。ずいぶんと前に一度読みかけて、何と言うか、かなり常軌を逸した内容に、前半で読むのを止めてし まった作品だった。ただ、いつかは全部読むことになるだろうと予感させた本だった。
 どうしてその日、「裸足」を借りたのかわから ない。
 今なら読める、と思った。
 このような精神の奥深いところでの奇妙な符 号、シンクロニシティというようなものが、私にはしばしば起こる。そしてそんな風に手に入れたものは、大切な物になることが多かった。
 漫画の「stigma」を先に読んだ。翌日、 「裸足」を読んだ。
 まるで、同じ人間の前と後ろ、写真のネガとポ ジ。それほどに対称的で、同一の存在感が両者にあった。



1.所有する者。        何も持たない者。

クレーベルクの小説「裸足」の主人公Kは、全てを所有している。30代という若さで会社の共同経営者という地位にあり、美しい妻が いて、家がある。人間が生存を続けていく上での必要条件は、この上ないほどに整っている。


「stigma」の世界は戦争が終わった後の、何も無い世界。青空を失った灰色一色の天に はもう鳥さえいない。
 主人公の男には記憶が無い、名前が無い。あるのは札束の詰まった鞄と、男の身体中に残さ れた無数の傷痕。
「裸足」は、失うことから物語が始まる。
Kは溺愛してきた飼い猫を失う。猫の死はKに突然の憂鬱をもたらす。猫を失うくらいなら、人類全員を失ったほうがマシだ、と言わせるほどの喪失感。それは 社会生活の中での幸福を維持しつづけてきたKが初めて味わった敗北と、あらがいようのない完璧な降伏だった。

名前の無い男は拾い物をする。男の目の前に突然天から降ってきた少年。少年は小鳥という意 味の名前ティトと名乗り、絶滅したはずの鳥を探していた。そしてまだ見たことのない太陽のように笑った。
 ティトは記憶の無い男をストークと名付ける。

2.  stigma‥‥ 烙印を押された者、傷痕を持つ者。
 裸足‥‥ 傷つけられることを望むもの。
 Kは仕事中、株式ニュースを知るために操作したミニテルが、なぜか間違って別のサービスに接続してしまったのに気 づく。そこは、奴隷商人の夢と奴隷の夢とを繋ぐネットワークだった。
 Kの職業はコピーライターである。知的な言語遊戯を楽しむ余裕と、深入りすることなど有り得ないという自信を保ちつつ、Kは自分のハンドルネームを「裸 足」と打ち込む。程なく返ってきた質問は「おまえは外を歩くときは裸足なのか?」。Kは、はいと答え、「わたしはそこに込められた自由と屈従を愛している からです」と記す。
 Kはくだらない冒険だと判っていた。しかし、自分が書き記したはずの「自由と屈従」は、何もかも手に入れたはずのKが、唯一まだ手に入れたことの無い世 界だった。
 
 ストークは自分の身体になぜ無数の傷痕があるのか憶えていない。気づいた時は血塗れでゴ ミの山に棄てられていた。自分の血、他人の血、無数の死、無数の罪に埋もれて生きてきたことだけは判る。少年ティトはこんな世界にもどこかに青い空がある と信じている。そう言って青空のように笑う。
 だから一緒に行こう、ストーク。
 裸足のまま歩いて玄関の前に立て。
 Kは、ダニエルと名乗る相手にそう指示される。Kはまだこれが単なる遊戯だと信じている。自分がそんなものに巻き込まれるわけがないと思っている。だ が、成功を収めた社会生活の中で決して晒すことのない「裸足」で、路上に立ってしまった時、もう後戻りできない昂奮がKを呑込んでしまっていた。

 ストークは突然、記憶をとりもどす。
身体の無数の傷は、かつて自分が飼われていた男につけられたものだった。戦争孤児だったス トークを拾い、意のままに手なずけた支配者。ストークは何も考えてはいけなかった、何も望んではならなかった。
 決して逃れられないよう、手のひらに深くくい込んだ楔の跡。

3. 青 い 鳥
 
 飼い慣らされ、人間の手の中で死を迎えるようになった猫は、もはや人間にとっての青い鳥にはなり得ない。
 クレーベルクの小説では、猫が象徴的に描かれている。Kは、妻との旅行先で本能のままに生きる野良猫の、雌をめぐる壮絶な争いを目撃する。死と引き換え にしてでも獲得しようとする欲望と、それを遮らない自由。冒頭で飼い猫が死に、妻は再び猫を飼うことを提案するが、Kはもうそれに応じない。何でも所有す ることが出来るこの社会においては、もう青い鳥は何処にもいない。
 たったひとつ、求められる自由が残っているとするなら、全てを失い、自分の存在までも誰かの所有に委ねてしまう自由。自分の存在理由を放棄する自由。
 空っぽのストークにとって、痛みだけがアイデンティティだった。初 めは飼い主につけられた激しい痛み。そして今は、ティトのまっさらな笑顔がもたらす柔らかな痛み。
 穢れた過去と、汚れた空の救いの無い世界に舞い下りてきたティトの笑顔は、ストークに とってかけがえのない青い鳥になった。いま自分がここにいるすべての存在理由は、ティトの笑顔。
 だが、傷痕ふかく染み込んだかつての主の毒は、それを許すのだろうか。

. 小説 と 漫画

 えに来たよ。
ストークとティトの前に、かつての支配者が再び現れる。
ストークの中にstigmaを遺すことでしか、自分の存在を確認することが出来ない、い や、それさえできればきっと望むものはもう無い。ストークの身体に無数の傷痕を刻んだその男もまた、あらかじめ失われた世界の、空っぽな人間。 だが、彼 らが求めているのはたったそれだけの痛ましい願い。
  誰かのstigmaになるということ。

 身辺の物質とか安全という意味で言えば、完全に満たされてしまった 世界にいるKは、もはやstigmaを遺すべき「誰か」さえ求めない。
 お前は良い奴隷となった。お前に要求することは何もない。ダニエルはそうKに主従関係の 終りを宣告する。これからあとに残るのは、味気ないくり返しと慣れでしかない、と。
 それに対しKは、全てを納得しているように言葉を返す。その時Kは、もうダニエルをご主 人様とは呼ばない。社会生活の中で獲得してきたものを完璧に失いつくしたKは、ダニエルに唯一の望みを述べる。
 それは、言葉ではなく、仕草で暗示されたのだった。まっすぐに、そして両手を水平に広 げ‥‥。
 Kは誰かのstigmaではなく、傷そのものになることを望んだのかもしれない。だが、 かつての主人を今はご主人様とは呼ばず、自分の望みを冷静に要求するKは、それを受け入れるダニエルの表情の中に現れた聖痕(stigma)を読み取り、 存在理由の成就を確かめたのではないだろうか。
 そういう風に考えれば、Kもまた、誰かの中にstigmaを遺したひとりになる。
    
 しかし、クレーベルクは小説をそのようなドラマには仕立てない。事 実としての結末をただ描写するだけだ。
 1995年に発表され、ドイツの文学賞アンナ・セーガース賞を受けたこの現代の小説は、 言葉による盲目的な夢想を許さない。
 作品の冒頭の方で、Kが自問する場面がある。「そもそもことばなどは、社会が共有するも のであって、だれもが、それを蓄えてある場所から好きなときに借り出してきて、一定の組み合わせで使っているのに過ぎないのではないか。(中略)ことばの 力だけで、だれかがひっくり返って死んでしまったことなどが、かつてあっただろうか?」
 これはコピーライターという職業のKの自問であり、クレーベルクという作家自身の小説に 対する冷静な考え方なのではないだろうか。クレーベルクはこの時代において、小説という言葉の構造物が持ちうる力と無力とを、きちんと判別しているのに違 いない。

 それが、「裸足」という小説と、「stigma」という漫画が、同じ人間のネガと ポジのようでありながら、極めて対称的な描きかたになっている理由なのだろう。

 峰倉は、すべてのページがカラーという漫画で「stigma」を描いた。空の色、 血の色、色の無い世界、瞳の色。そしてもちろん漫画の線。傷の線、涙の伝う線、影の線、言葉の線。
 漫画には、絵によって言葉の夢想を救済する力があるのかもしれない。峰倉はその力を信じ て漫画を描いているように思える。



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