コー
ルドマウンテン チャールズ・フレイジャー著 新潮社
ストーリーの紹介の前に、翻訳者のご紹介なのですが、この「コールドマウンテン」の翻訳をしている土屋政雄さんは、出身地が一緒
で、私がずっと所属している雑誌の編集人とは高校の同級生だそうです。初めて土屋さんの訳に触れたのは、同じく新潮社から出ている「イ
ギリス人の患者」(映
画イングリッシュペイシェントの原作)を読んだときで、その静かで詩的な文章は読み飛ばしてしまうのが大変惜しく、1ページを読んでは言葉の世界
に浸ってため息をつき、それからまた1ページを読む、というように時間をかけて味わいたい文章だと思ったものです。それは原作が素晴らしいのはもちろん
だったかもしれませんが、私には翻訳の力が大きいと(理由を巧く説明出来ないまま)考えていました。それを上記の編集人に「とにかく訳が素晴らしいの
よ!!」と興奮して話していたら「あいつは俺の同級生だ」と言われ、恥じ入りつつ、とても嬉しくなったのでした。以来、土屋氏訳は、「ア
ンジェラの灰」(新潮クレストブックス、こちらも映画化されています)、そしてこの「コールドマウンテン」と、出版されるたびに待っていたかのよ
うに手にとり、いずれも素晴らしい作品に心打たれました。土屋さんが訳したいと引き受ける作品だから質が高いのか、あるいは、その質の高い作品に土屋さん
の訳が付加価値をもたらすのか、翻訳について批評をする力を持ち合わせていない私は、もっと勉強したら、いつかきっと土屋さんに会わせていただき、翻訳の
魔法をちらと教えていただきたいと夢見ているのです。
さて、この作品は1860年代のアメリカ南北戦争の時代が舞台。
負傷した兵士インマンは、無益な殺し合いに嫌気がさし、負傷した病院を脱走して自分の故郷であるコールドマウンテンをひたすらに目指します。そこに待って
いるはずなのは自分の恋人、エイダ。
南北戦争は、言うまでもなく同じ国の者同士が殺し合いをしなければならない戦争であったことと、また銃器の発達によってその戦争がさらに悲惨なものにな
るという、それまでの一農民や、一市民だった者にとっては生の価値観を一変せざるを得ない出来事だったと考えられます。
コールドマウンテンという大自然のもとで生きてきたインマンは、戦争から逃れた後の長い長い旅の間、何度となく生や死、魂について考えます。16歳のイ
ンマンが初めて父親に放牧の仕事を言い付かって山で野営した日々・・・その時のことを思い出し、戦争で心も身体も傷ついたインマンは考えます。
散り散りになった魂がまた集まる場所として、コールドマウンテンが心に強く焼き付けられていた。(中
略)目に見えるものだけがこの世のすべてだとは信じたくなかった。目に見えるものは、あちらでもこちらでも腐臭を放っている。だから別の世界に、もっとよ
い世界の存在にこだわった。そして、コールドマウンテンがその場所であってもいいではないか、と思った。
こうしてただひとすじに故郷への道を辿るのです。
一方、山に住むエイダにも変化が起きていました。父との二人きりの生活が父の死によって、たったひとりで生きていくことを余儀なくされたのです。大自然
の中で、若い女性がひとりで生きる決心をし、生きるために何よりもまず農園で作物を栽培し、動物を飼い、自分の糧を自分で手に入れる術を彼女はひとつずつ
学んでいきます。そんなエイダの前にあらわれ、
あんたは困ってる。雇う価値のある男はみんな戦争に行ってることを忘れちゃだめね。厳しいけど、物事っ
てそんなものよ。戦争があったってなくたって。
と言ってのける逞しい少女ルビー。自分の腕と誇りと自信以外には土地も財産もないルビーの支えに出会い、それまでか弱い娘にすぎなかったエイダは、だん
だん生きる強さを身につけていくのです。
物語はインマンの場面、エイダの場面、と交互にあらわれながら続き、インマンが長い長い道のりをコールドマウンテンに一歩一歩近づいていくように、二人
の物語の距離も少しずつ近づいていくのです。読んでいる者はいつしか同じ旅に加わり、ふたりがやがて出会えることを願ってコールドマウンテンを目指すので
す。
この作品は、フレイジャーの処女作で、書き上げるまでに7年かかったという、日本版で550ページもの壮大な物語です。7年もの歳月を掛けた作品にふさ
わしい、言葉をゆっくり味わいたくなる翻訳になっています。そのことが書き手という米粒のひとつとして大変に嬉しく、7年かかっても書かれる価値のある作
品は、こんな忙しい時代の中でも大切に大切に読みたいという気持ちにさせられるものだと感じました。秋の夜、傍らに暖かい飲み物と、優しい音楽と、くつろ
げるクッションと、それから涙を拭うティッシュボックスを用意して、ゆっくりと読むにふさわしい大きなドラマです。
今、これを書いている夜更け、台風が接近してベランダの窓に大粒の雨が降りしきっています。お月様にも会えないこんな夜には、懐かしい場所と、懐かしい
人と、人間が長い長い歴史の中で続けてきた本来の暮らしと愛し方を思って、ぼろぼろと優しい涙を流すのは、決して淋しいことではないと思えます。
2004年春、「コールドマウンテン」が「イングリッシュ・ペイシェント」と同じアンソニー・ミンゲラ監督、
ジュード・ロウ、ニコール・キッドマン主演で、ようやくロードショー公開されることになりました。オフィシャルHPはこちらです>>