「金色のトルソ」1977年 5231/10000 



 
 
 
 
 
 
 
 パウル・ヴンダーリッヒ(Paul Wunderlich)は、1927年 生まれのドイツを代表する現代作家です。
 ここに載せた「金色のトルソ」は縦15センチに満たない、写真立てに入って しまうくらい小さなリトグラフですが、これは8年ほど前に、ある方から我が家へ贈られたものです。いただいた時には、大学で美術を学んだ家族は別として、 私はヴンダーリッヒの名前すら知りませんでした。画面でははっきりと見えないかもしれませんが、製図をするときのような中心の縦の線が、裸像を真ん中から 二つに分け、また、左の乳房の中心を通って、横のラインが引かれ、肉体の不均衡な、非対称であるがゆえのあやうい美しさを強調しています。
 たいへん知的で静謐な印象を受けながらも、どこかで調和の世界に落ち着いてはいられない官能的な部分をもここには感じられ、私はヴンダーリッヒが好きに なりました。けれどもこの一枚のリトグラフ以外、作品を見る機会のないまま数年が過ぎてしまいました。

 画家との出会い、というのは不思議なものです。
ある偶然のひととき、目に入ってきた絵に理由もなく引き寄せられることがあります。あるいは、たくさんの絵、たくさんの版画が同じように視界に入っていて も、さして感慨もなく通り過ぎてしまうこともあるはずです。それがたまたまひとつの絵、ひとりの画家に惹きつけられてしまうのは、恋におちるのと同じ感覚 です。
 私が最初に恋におちたのはエゴン・シーレ(1890〜1918)でした。 20年近くも前でしょうか。その時もクリムトを始め、幾人かの作家と並んで展示されていたはずですが、エゴン・シーレに惹きつけられた理由はいうまでもな く、あの神経症的に震える線描に、胸が切なくなるような傷や病、もっと言えば死の匂いを感じ取ったからなのでした。
 シーレを求める時代は長く続き、1991年の秋にbunkamuraミュージアムで開催された大規模なエゴン・シーレ展では、長年思いを寄せていた憧れ の人とようやく対面したかのように緊張して「悲しみの女」や「隠者たち」や、それからたくさんの痩せた少女のデッサンに見入っていたものです。

 シーレ展より少し前のことになりますが、まだ故郷で暮らしていた私は、東京で友人に会うために上京しました。彼女の仕事が終わる 夕刻まで、どこかで時間を過ごそうと思い、たまたま百貨店の美術館でそのとき開催されていた、ドイツの現代作家ホルスト・ヤンセン展を見たのでした。
 シーレが神経症的ならば、ヤンセンの素描や版画は、自閉症的な中でグロテスクな欲望が肥大していったもののように感じられたのです。シーレとは裏腹に、 ヤンセンの肉体は膨れ拡がり、すでに人間らしい形さえとどめず、それでもそこに描かれている器官や臓器らしきもので肉体は示されているのでした。
 確かにグロテスクではありましたが、嫌いではありませんでした。ヤンセンもこうして、私の記憶に残る作家となり、その後、今回のヴンダーリッヒに出会う 事になったのです。

 先月、たまたま「ぴあ」で目にしたのは、神奈川県の平塚市美術館で4月21日から6月3日まで開催されていた「パウル・ヴ ンダーリッヒ展 ―ヴンダーリッヒは天使とは戦わない―」の記事でした。時間も体調も良くない時期でしたが、逃してはいけないと何かに急 かされて見に出かけました。行って間違いはありませんでした。
 今回、ヴンダーリッヒについて改めて調べてみて驚いたことに、ホルスト・ヤンセン(1929〜)と、ヴンダーリッヒ(1927〜)は、ハンブルグの美術学校時代、先輩後輩として交友を深めていた 間柄だったのです。何の前知識もなく出会った作家たちでしたが、思わぬ結びつきを知って嬉しく思いました。

 今月は、ヴンダーリッヒ、それからホルスト・ヤンセンについて、もう少しご紹介してみようと思います。   


 
  

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ヴンダーリッヒの原点

 ヴンダーリッヒに関する文献を読んだことがないので、美術展のカタログを参照しつつ、紹介してみます。
 1927年生まれの彼は、年譜によれば、1943年(16歳)の時から1945年まで、高射砲助手、勤労 奉仕隊、戦車部隊、として第二次世界大戦に動員される、とあります。ドイツ敗戦後、5ヶ月捕虜として収容所生活を送り、その後20歳から美 術学校で学ぶことになります。
 最も初期の作品に≪20.juli.1944≫(1959年、32歳の制 作)があります。宙空から吊るされた天秤棒の両端にフックがあり、左右ふたつのフックから吊るされているもの・・・それは人体なのですが、肉の塊のようで もあり、臓器のようでもあります。地面に向かって垂れる2本の(二体あるから4本)の痩せた脚が痛ましく思われます。
 美術展のカタログによれば
  1944年7月20日、午後12時42分、ヒットラー暗殺計画が失敗に終わる。クラウス・フォン・シュ タフェンベルク大佐(37歳)の鞄に仕掛けられた爆弾が爆発し、4名死亡し、7名が重傷をおった。しかしヒットラーは死ななかった。
 
 この後のヒットラーによる報復粛清は、大佐を同日銃殺、その後180名が処刑、さらに5000人が逮捕、とつづきました。
 ピアノ線でゆっくり絞殺される様は、映画にとられ、くり返しヒットラーは上映させたという。(中略)ヒッ トラーの人間性を無化する蛮行に対し、ヴンダーリッヒの18歳のアイデンティティーが目覚めたといってもよいであろう。それはヒットラーを恐れる、ドイツ 自身のアイデンティティーでもある。
   「パウル・ヴンダーリッヒ展 −ヴンダーリッヒは天使とは戦わない−」
      展覧会カタログ 平塚市美術館 2001年発行 参照

 ここがヴンダーリッヒの作品製作の原点であったことは確かなようです。「人間性の無化」を経験することから、その後の人生をふた たび始め、生きていくということ、そのことを考えたとき、ヴンダーリッヒの作品の多くが「死」の世界と常に結びついていることが実感させられます。
 ヴンダーリッヒの作品を見られるサイトをあたってみましたが、海外の画商のサイトを一応の参考としてここに揚げておきます。取り扱われている作品は、変 わるかもしれませんのでご了解ください。

  http://www.wolman-prints.com/pages/thumbnails/all/w/118.html

http://www.redfern-gallery.com/pages/thumbnaillist/27.html

 50年代から60年代、黒や赤の血のイメージが感じられた作品は、60年代中頃より色彩をもち始めます。リトグラフでは、青、 黄、赤、緑、といっても大変静寂で、夜を感じさせる色彩が使われています。また、アクリル絵具の作品では、レインボーカラーのグラデーションを使ったもの がヴンダーリッヒの特徴です。

 私の日々の戯れ言を載せた「words」(No.160)の中でも少し触れましたが、文学の大先輩に第2次大戦をシベリアで送 り、その後長い収容所生活を経験された方がいます。
 6月末、久しぶりにお目にかかったH先生はこちらの心配が恥ずかしくなるほどお元気そうで、気品があり、情熱的で、現在の仕事として昭和初期の文学群像 を新聞に連載されているとのことでした。先生はシベリアでの生活を私に語られました。(おそらく語り尽くせないもっともっと様々な経験をなさったはずです が・・)
「夜、寝ていると突然起こされて連行されるんだ。かならず、夜だ。深く寝入っているところ を起こされて、連れて行かれて尋問される。聞かれるのは自分のことだ。自分の経歴を全て調書にとられる。それを何十回と繰り返される。今まで寝ていた頭で 何十回と自分の過去を語らされ、少しでも前と違う部分があるとそこを突かれる。拷問、だな。自分のことを語っているのに、そのうちに事実の前後関係が狂っ てくる。それでも何度でも思い出して答える・・・」
 武装した兵士に囲まれ極度の緊張状態の中で、同じことを何度となく答えているうちにそれが本当に自分に起きた出来事だったのか確信が持てなくなってくる のでしょう。自己のアイデンティティを何十回と語ることで、確認しているはずなのに、それがアイデンティティの喪失につながっていくのです。そうやって強 制収容所で暮らし、度重なる尋問に耐え続けることは、私には想像も及ばないことかもしれませんが、ヴンダーリッヒが感じ、作品にあらわした「人間性の無 化」と同質であろうと思います。そして、一個の人間としても、国家としても、アイデンティティを一度は喪失したところからふたたび人生を始めなければなら なかったということが、後の作品の原点であったと考え、それが意味するものを私たちは考えなければならないのでしょう。
 H先生は文学作品に対しては大変厳しく、現代という混乱した時代の中で、しかも高齢にかかわらず大変研ぎ澄まされた視点をお持ちです。しかし、人の深い 深い哀しみをつつむ暖かさと優しさは、人間の最も奥深い絶望と痛みを超えられてきた方だけが持つ、底知れない力です。


 
 
 
 
 
ヴンダーリッヒの天使

 今回のヴンダーリッヒ展で私が惹かれたものに、天使を描いたものがあります。「青 い天使」(1967年)「指差す天使」(1966年)「天使と雌オオカミ」(1966年)などです。 ここで描かれる天使は、私たちがイメージする白い羽の天使像とは全く違うことを想像して下さい。
 天使は男性です。骸骨のような、透き通った人体模型のような生殖器をもつ天使です。肩甲骨の部分にはいわゆる天使の羽が骨でつながれています。
 例えば「青い天使」では、ソファとそこに横たわる女性が線で描かれ、女性は裸体です。(下肢は薄くなりソファの図の中に消えかけています)女性は左の手 で自分の右の乳房をつかみ、右手を宙に掲げています。上空に浮かんだ半透明の青い天使は手をのばし、天使の指先と、女性の指先が触れ合っています。
 ヴンダーリッヒのリトグラフの中で、たいがい女性は裸体、つまり生の肉体を持つ者として描かれ、男性は全てに描かれているわけではありませんが、えがか れる男性はこの世の存在ではない天使や骸骨として描かれています。

「生」を見るためにヴンダーリッヒは、厄介なるエロスとタナトスのイメージを女の身 体に発現の場を見つけだしているようである。

 と、カタログには書かれています。
「生」と「死」が交わるこれらの絵ですが、死と交わる女性が死に導かれるのでもなく、生と交わる男性が生を希求している様子でもなく、当然のように生と死 とが指と指の先で結ばれ、そこに恐怖もなく、透明なエロスとして描かれていることに私は惹かれるのです。

 今年ヴンダーリッヒは74歳。精力的にドライポイントの銅版画制作などをつづけ、各国の画廊にも多く作品を提供している様子で す。個人的には60〜70年代の作品が好きですが、老境に達して作品からは死の影がどんどん薄くなっていることは不思議なものです。

   

 
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