ヴンダーリッヒの原点
ヴンダーリッヒに関する文献を読んだことがないので、美術展のカタログを参照しつつ、紹介してみます。
1927年生まれの彼は、年譜によれば、1943年(16歳)の時から1945年まで、高射砲助手、勤労
奉仕隊、戦車部隊、として第二次世界大戦に動員される、とあります。ドイツ敗戦後、5ヶ月捕虜として収容所生活を送り、その後20歳から美
術学校で学ぶことになります。
最も初期の作品に≪20.juli.1944≫(1959年、32歳の制
作)があります。宙空から吊るされた天秤棒の両端にフックがあり、左右ふたつのフックから吊るされているもの・・・それは人体なのですが、肉の塊のようで
もあり、臓器のようでもあります。地面に向かって垂れる2本の(二体あるから4本)の痩せた脚が痛ましく思われます。
美術展のカタログによれば
1944年7月20日、午後12時42分、ヒットラー暗殺計画が失敗に終わる。クラウス・フォン・シュ
タフェンベルク大佐(37歳)の鞄に仕掛けられた爆弾が爆発し、4名死亡し、7名が重傷をおった。しかしヒットラーは死ななかった。
この後のヒットラーによる報復粛清は、大佐を同日銃殺、その後180名が処刑、さらに5000人が逮捕、とつづきました。
ピアノ線でゆっくり絞殺される様は、映画にとられ、くり返しヒットラーは上映させたという。(中略)ヒッ
トラーの人間性を無化する蛮行に対し、ヴンダーリッヒの18歳のアイデンティティーが目覚めたといってもよいであろう。それはヒットラーを恐れる、ドイツ
自身のアイデンティティーでもある。
「パウル・ヴンダーリッヒ展 −ヴンダーリッヒは天使とは戦わない−」
展覧会カタログ 平塚市美術館 2001年発行 参照
ここがヴンダーリッヒの作品製作の原点であったことは確かなようです。「人間性の無化」を経験することから、その後の人生をふた
たび始め、生きていくということ、そのことを考えたとき、ヴンダーリッヒの作品の多くが「死」の世界と常に結びついていることが実感させられます。
ヴンダーリッヒの作品を見られるサイトをあたってみましたが、海外の画商のサイトを一応の参考としてここに揚げておきます。取り扱われている作品は、変
わるかもしれませんのでご了解ください。
http://www.wolman-prints.com/pages/thumbnails/all/w/118.html
http://www.redfern-gallery.com/pages/thumbnaillist/27.html
50年代から60年代、黒や赤の血のイメージが感じられた作品は、60年代中頃より色彩をもち始めます。リトグラフでは、青、
黄、赤、緑、といっても大変静寂で、夜を感じさせる色彩が使われています。また、アクリル絵具の作品では、レインボーカラーのグラデーションを使ったもの
がヴンダーリッヒの特徴です。
私の日々の戯れ言を載せた「words」(No.160)の中でも少し触れましたが、文学の大先輩に第2次大戦をシベリアで送
り、その後長い収容所生活を経験された方がいます。
6月末、久しぶりにお目にかかったH先生はこちらの心配が恥ずかしくなるほどお元気そうで、気品があり、情熱的で、現在の仕事として昭和初期の文学群像
を新聞に連載されているとのことでした。先生はシベリアでの生活を私に語られました。(おそらく語り尽くせないもっともっと様々な経験をなさったはずです
が・・)
「夜、寝ていると突然起こされて連行されるんだ。かならず、夜だ。深く寝入っているところ
を起こされて、連れて行かれて尋問される。聞かれるのは自分のことだ。自分の経歴を全て調書にとられる。それを何十回と繰り返される。今まで寝ていた頭で
何十回と自分の過去を語らされ、少しでも前と違う部分があるとそこを突かれる。拷問、だな。自分のことを語っているのに、そのうちに事実の前後関係が狂っ
てくる。それでも何度でも思い出して答える・・・」
武装した兵士に囲まれ極度の緊張状態の中で、同じことを何度となく答えているうちにそれが本当に自分に起きた出来事だったのか確信が持てなくなってくる
のでしょう。自己のアイデンティティを何十回と語ることで、確認しているはずなのに、それがアイデンティティの喪失につながっていくのです。そうやって強
制収容所で暮らし、度重なる尋問に耐え続けることは、私には想像も及ばないことかもしれませんが、ヴンダーリッヒが感じ、作品にあらわした「人間性の無
化」と同質であろうと思います。そして、一個の人間としても、国家としても、アイデンティティを一度は喪失したところからふたたび人生を始めなければなら
なかったということが、後の作品の原点であったと考え、それが意味するものを私たちは考えなければならないのでしょう。
H先生は文学作品に対しては大変厳しく、現代という混乱した時代の中で、しかも高齢にかかわらず大変研ぎ澄まされた視点をお持ちです。しかし、人の深い
深い哀しみをつつむ暖かさと優しさは、人間の最も奥深い絶望と痛みを超えられてきた方だけが持つ、底知れない力です。