2.当時のロンドン社会
在米の英文学者、リチャード・D・オールティッ
クの著書「ヴィクトリア朝の緋色の研究」(村田靖子訳 国書刊行会発行 1988年)にはこう書かれています。
非常に多くのヴィクトリア朝の知識人、いいかえれば、まじめ、清廉、高尚な理想の精髄ともいえる者たちが、こと殺人熱
に関しては、商人、職人、肉体労働者など大衆と同列にいたということはちょっと意外だ。(p166)
冒頭で少し書きましたが、公開処刑や、公開解剖
などに、多くの作家や知識人が大変な関心を持ち、まるで楽しみを待つかのように事件のことを、夜の社交界で語り合っていたというのは、英国紳士の二面性を
あからさまに見せられているようで、私には大変不思議に思えました。そして、現代、というか70年代のコメディ、モンティ・パイソンのことを書きました
が、それもこのようなヴィクトリア朝の雰囲気をもちろん背景にして、それを現代の知識人(オックスフォード・ケンブリッジ出の彼ら)が笑いのネタにする、
という、まさしく英国を特徴付ける不思議な伝統であると言えるのではないでしょうか?
女王の統治がはじまって最初の30年間、公開処刑そのものはあらゆる民衆の娯楽の中でもいちばん大勢の群衆を集めた。
スコットランドその他の地方でも、処刑に集まる群集は荒っぽかったが、最悪なのはなんといってもロンドンだった。下層の人間たちがほとんどだったが、並み
以上の悪名を馳せた殺人犯の処刑には中流・上流階級の者もかなり集まった。若い紳士諸君が、悪徳悪漢の死を見て健全な教訓を学ぶように、学校も休みになっ
た。絞首台がよく見渡せる部屋は法外な値で貸され、処刑前夜は一晩中どんちゃん騒ぎのパーティー会場となり、浮かれ騒いだ客たちがオペラグラスをのぞいて
処刑の一部始終を満喫し、踏み台がはずれたあとは、陽気な朝食会の場となった。(p159)
そして、世間に知れ渡った凶悪な犯罪者が処刑さ
れたのちには、(もちろん医学的な研究を意図したものではありましたが)解剖がおこなわれ、一般の人々はそれを見学することが出来ました。
当局は、縛り首になった殺人犯の死体を医者が解剖する前に見せて欲しいという一般の人びとからの要望に応えた。(中
略)
また、バークの死体はまさにうってつけのエディンバラ
大学の解剖学教室に1日だけ陳列され、約3万人の見物客の目にふれた。翌朝、同じ数の群集が集まったが、大学当局はこんなことは1日だけでたくさんだとし
た。
この「ヴィクトリア朝の緋色の研究」は英国の文
化史や文学史を学ぼうとする人くらいしか、おそらく読むことはないと思いますが、犯罪史と社会学と文学史をむすんで明らかにするという点では、とても貴重
な本だと思います。興味本位で犯罪をとらえるのではもちろん無く、今まで文学という中では見逃されてきた英国の社会生活の一面、特に大衆に即した文化がど
のようなものであったかを教えてくれます。ごく限られた上流階級の人びとが暮らしていたウエスト・エンド地区とはうらはらに、都市化の裏で職も無く安酒に
溺れ、女たちは娼婦としてしか糧を得る術は無く、劣悪な環境の中にあったイースト・エンド地区。そんな二面性の社会で起きた犯罪が、ジャーナリズムにとり
あげられ、センセーショナルな記事であったもののそれがために、人びとはこぞって読もうと求め、結果的には大衆の識字率の上昇や、社会への関心を高めるこ
とにつながったのです。
ジャックの事件についてはほとんど触れられていません
が、一部を引用します。
1880年代後半のロンドンのイースト・エンドは、1820年代のエディンバラの、うす汚いアパート群と同列に並ぶ。
(略)ヴィクトリア朝も後期の大衆は、巧みに逃げおおせた沈黙の殺人狂の謎に怖気立ちつつも熱中し、その中で、この事件が暗示したより大きな社会的意味に
気づいたのだ、と。(略)
それまでにも、ジャーナリストや都会の伝道師た
ちはロンドンの貧民や浮浪者の生活について書き、こうして書かれるものは年々増えていた。それでも「切り裂きジャック」事件の報道は、(略)社会のどん底
にいた人びとは、いずれその苦境から開放されることになるが、--- 力を増しつつあった労働党の政治もそれに一役買っている ----
殺人事件があのようにさかんに書きまくられて、すでに長いこと存在していた状況を劇的に見せてくれたというめぐりあわせも、改善の一助になったとはいえま
いか。(p49〜50)
・・最後に、ではジャックとは誰・・? につい
ては、次の章で。