HOMEWARD  BOUND 〜 帰るべき場所

 
 
 

 秋は、どこかへ行きたくなる季節なのかもしれない。行楽の秋、という意味ではな く、今までの自分をリセットしてどこか別の場所へ旅立っていく(あるいは帰っていく)という気持ちになるような気がする。
 ムーミン谷の旅人、スナフキンは、春から夏をムーミンたちと過ごし、秋がくるとどこかへ 行ってしまう。ムーミン谷に定住しているはずのムーミンパパも、秋が来ると病気にかかったみたいに別の場所で別の暮らしを始めるんだと、家出騒動を繰り返 す(結局は帰って来ちゃうんだけど・・)たしか、そんなエピソードがあったと思う。
 スナフキンにはきっと冬の間ひっそりと過ごす大事な場所があるような気がするし、パパが 家出できないのはパパにとって帰るべき場所はココだから。
 帰りたい場所、そこにいる人、そこへ帰り着くために全てのエネルギーを費やしても惜しく ないと思えるほどの大切な場所、それがあるということは幸せなことだろうし、大変な強さにもなる。

 抗えない理由(ここでは戦争)のために、自分のかつていた場所から遠く離され、傷 つき、ただ一心に帰りたいと願う不思議な共通点のある小説を、3作選んでみました。私がそうだからなのか、3作とも「山」というか寒い所へひたすら帰りた いと願うのが、また不思議な(でも頷いてしまう)ところなのです。
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テ ンレの物語 マリオ・リゴーニ・ステルン著 青土社
 
 

 舞台は19世紀後半の北イタリア。第1次大戦前のイタリアとオーストリアとの国境にあるアジアーゴという村から始まります。アル プス山麓の標高999mにある小さな村だそうです。
 オーストリア=ハンガリー帝国の領内に組み込まれていたこの村に生まれたテンレは、小さい時から徒歩でアルプスを越え品物を売りに歩いて生活をしてきま した。1861年にイタリア王国が立ち、国境が書き換えられると、今度は村はイタリア領になり、越境して商売をするのは違法行為とみなされるようになりま した。しかし、生活のため、それに、もともと国境などというややこしい観念を持ち合わせていない自由人のテンレは、商売をつづけ、警察に追われる身になっ てしまいます。
 村の人間にしかわからない場所に身を隠し、ひそかに越境しては絵を売り歩いたりして生計を立て、毎年クリスマスになるとこっそりと自分の家族の待つ家に 帰ってくるテンレ。彼の家がまた奇妙なのです。鳥が落としていったさくらんぼの種がいつしか芽生え、成長し、藁屋根の上には大きなさくらんぼの木が毎年実 をつけているのです。テンレは山肌からそっとそのさくらんぼの目印を遠く眺めては自分の帰るべき場所に思いをはせます。そして、毎年こっそりクリスマスに は帰ってくるから、逃亡者の主がいないはずの家に、毎年子供が生まれてくる、という不思議・・(笑)
 長い時代が過ぎ、第1次大戦がはじまると、再び村は国境をめぐる争いに巻き込まれます。その頃には恩赦をうけてテンレは自分の故郷で放牧をして暮らして いるのですが、今度は突然の砲撃のために村人は家を追われることになります。とるものもとりあえず家を残して山を降りていく村人。頑固爺さんになっている テンレは羊がいるから、と命令もきかずに村に残ります。砲撃で次第に壊れていく村、兵士が入り込んでは荒らされていく家々。昼間は高地で放牧をしているの で軍隊はテンレがいることには気づきません。そして砲撃のおさまった夜に、テンレは空いている家に入って眠るのです。もう誰の家でもありません。扉が開い ていて食料が残っているのがその日の家。
 しかしとうとうテンレも見つかってしまいます。過去に国境がくるくると変わった時代に、一時はオーストリアの兵士であり、一時はイタリア軍にも仕え、と いう経歴が今度はスパイ疑惑につながり、テンレは強制収容所送りになります。羊と一緒でないと行かないと粘り、テンレの言うことしかきかない犬や羊に兵士 が四苦八苦する場面は、可笑しいのですが胸が痛みます。
 国境を北へ南へ何メートルか動かすために自分の人生を捧げる兵士と、もともと国境の上に生まれ、ただ自分の小さな暮らしを守るためにラインのあちらとこ ちらを往復し続けるテンレ。収容所を脱走したテンレは山を目指します。その間にも戦局は変化し続け、テンレの村は奪われたり奪い返されたり・・・山道を行くテンレに軍隊の隊長が「どこへ行きたいのか」と尋ねます。「家ですよ」とテンレは答えます。「自分の家!」
 前線のただ中に置かれた村に近づくのは危険です。隊長は望遠鏡でテンレに村を眺めさせてやります。そこでテンレが見た、あのさくらんぼの家は・・。

 この村の出身の作者ステルンは、癌と闘う友人のためにこの物語を語り聞かせるという設定で本は書かれています。アルプスの山すそ に佇む牛を見て「あの牛は何を見ているのだろうね」と友人が呟きます。やがて見られなくなる 日のために、目に焼き付けているのだ、と病床の友人は思います。それに対してステルンは「あれは太陽が昇る のを見ようとして待っているのだ・・」と答えます。あの牛がどれほど待ち遠しい思いで朝日の昇る方向を見つめているか・・・と。
 たとえどんな厳しい一日になるとしても、太陽が昇るのを待っている間は、誰もが何かを期待している気持ちになれます。生涯、自分の場所へ帰る望みを捨て なかったテンレ爺さんのように・・。

 
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コー ルドマウンテン チャールズ・フレイジャー著 新潮社

 ストーリーの紹介の前に、翻訳者のご紹介なのですが、この「コールドマウンテン」の翻訳をしている土屋政雄さんは、出身地が一緒 で、私がずっと所属している雑誌の編集人とは高校の同級生だそうです。初めて土屋さんの訳に触れたのは、同じく新潮社から出ている「イ ギリス人の患者」映 画イングリッシュペイシェントの原作)を読んだときで、その静かで詩的な文章は読み飛ばしてしまうのが大変惜しく、1ページを読んでは言葉の世界 に浸ってため息をつき、それからまた1ページを読む、というように時間をかけて味わいたい文章だと思ったものです。それは原作が素晴らしいのはもちろん だったかもしれませんが、私には翻訳の力が大きいと(理由を巧く説明出来ないまま)考えていました。それを上記の編集人に「とにかく訳が素晴らしいの よ!!」と興奮して話していたら「あいつは俺の同級生だ」と言われ、恥じ入りつつ、とても嬉しくなったのでした。以来、土屋氏訳は、「ア ンジェラの灰」(新潮クレストブックス、こちらも映画化されています)、そしてこの「コールドマウンテン」と、出版されるたびに待っていたかのよ うに手にとり、いずれも素晴らしい作品に心打たれました。土屋さんが訳したいと引き受ける作品だから質が高いのか、あるいは、その質の高い作品に土屋さん の訳が付加価値をもたらすのか、翻訳について批評をする力を持ち合わせていない私は、もっと勉強したら、いつかきっと土屋さんに会わせていただき、翻訳の 魔法をちらと教えていただきたいと夢見ているのです。

 さて、この作品は1860年代のアメリカ南北戦争の時代が舞台。
負傷した兵士インマンは、無益な殺し合いに嫌気がさし、負傷した病院を脱走して自分の故郷であるコールドマウンテンをひたすらに目指します。そこに待って いるはずなのは自分の恋人、エイダ。
 南北戦争は、言うまでもなく同じ国の者同士が殺し合いをしなければならない戦争であったことと、また銃器の発達によってその戦争がさらに悲惨なものにな るという、それまでの一農民や、一市民だった者にとっては生の価値観を一変せざるを得ない出来事だったと考えられます。
 コールドマウンテンという大自然のもとで生きてきたインマンは、戦争から逃れた後の長い長い旅の間、何度となく生や死、魂について考えます。16歳のイ ンマンが初めて父親に放牧の仕事を言い付かって山で野営した日々・・・その時のことを思い出し、戦争で心も身体も傷ついたインマンは考えます。
  散り散りになった魂がまた集まる場所として、コールドマウンテンが心に強く焼き付けられていた。(中 略)目に見えるものだけがこの世のすべてだとは信じたくなかった。目に見えるものは、あちらでもこちらでも腐臭を放っている。だから別の世界に、もっとよ い世界の存在にこだわった。そして、コールドマウンテンがその場所であってもいいではないか、と思った。
 こうしてただひとすじに故郷への道を辿るのです。
 一方、山に住むエイダにも変化が起きていました。父との二人きりの生活が父の死によって、たったひとりで生きていくことを余儀なくされたのです。大自然 の中で、若い女性がひとりで生きる決心をし、生きるために何よりもまず農園で作物を栽培し、動物を飼い、自分の糧を自分で手に入れる術を彼女はひとつずつ 学んでいきます。そんなエイダの前にあらわれ、
  あんたは困ってる。雇う価値のある男はみんな戦争に行ってることを忘れちゃだめね。厳しいけど、物事っ てそんなものよ。戦争があったってなくたって。
 と言ってのける逞しい少女ルビー。自分の腕と誇りと自信以外には土地も財産もないルビーの支えに出会い、それまでか弱い娘にすぎなかったエイダは、だん だん生きる強さを身につけていくのです。
 物語はインマンの場面、エイダの場面、と交互にあらわれながら続き、インマンが長い長い道のりをコールドマウンテンに一歩一歩近づいていくように、二人 の物語の距離も少しずつ近づいていくのです。読んでいる者はいつしか同じ旅に加わり、ふたりがやがて出会えることを願ってコールドマウンテンを目指すので す。
 この作品は、フレイジャーの処女作で、書き上げるまでに7年かかったという、日本版で550ページもの壮大な物語です。7年もの歳月を掛けた作品にふさ わしい、言葉をゆっくり味わいたくなる翻訳になっています。そのことが書き手という米粒のひとつとして大変に嬉しく、7年かかっても書かれる価値のある作 品は、こんな忙しい時代の中でも大切に大切に読みたいという気持ちにさせられるものだと感じました。秋の夜、傍らに暖かい飲み物と、優しい音楽と、くつろ げるクッションと、それから涙を拭うティッシュボックスを用意して、ゆっくりと読むにふさわしい大きなドラマです。
 今、これを書いている夜更け、台風が接近してベランダの窓に大粒の雨が降りしきっています。お月様にも会えないこんな夜には、懐かしい場所と、懐かしい 人と、人間が長い長い歴史の中で続けてきた本来の暮らしと愛し方を思って、ぼろぼろと優しい涙を流すのは、決して淋しいことではないと思えます。

 2004年春、「コールドマウンテン」が「イングリッシュ・ペイシェント」と同じアンソニー・ミンゲラ監督、 ジュード・ロウ、ニコール・キッドマン主演で、ようやくロードショー公開されることになりました。オフィシャルHPはこちらです>>


 
 
 
白 の海へ  ジェイムズ・ディッキー著  角川書店

 上の二つの作品の紹介を書いてUPし終えたのが9月10日。その翌日、世界は突然混乱に陥った。私は予知者でも、霊感があるわけ でもないけれど、世界の人々が、会いたい人がいるからその人の元へ帰る、会いたい人がいるからその人の帰りを待つ、それを阻むのが戦争だった、という物語 を紹介しているさなかに今回のテロが起きたことは、私にとっては衝撃的なことでもあったし、反面、全く考えられないことではなかった。
 現代において、人々は破壊行為の中で突然に命を落とす。かつての果たし合いの時代でもなく、国家間の軋轢〜国交断絶〜宣戦布告・・という順序を経て戦争 に巻き込まれるのでもなく、日常の中で理由もわからず、唐突に無関係な人々の身に破壊行為が降りかかるのだということが身をもって感じられたこの日々だっ た。悲劇から2週間あまり経った今、帰るべき自分の場所へ帰れなかった家族や友人が、もうこの世界にはいないのだということを確認し納得するための手続き が行われている。納得・・?・・など出来るはずは無い。そして、帰るべき場所へ帰れない人々を世界はもっと増やそうとしているのか、どうか・・。
 最後に紹介する作品は、2000年10月発行の「白の海へ」という本。
 太平洋戦争の終末期、米国のB29型爆撃機の乗組員である主人公マルドロウは、日本に大空襲をしかけるために出撃し、東京上空で攻撃を受けて機体は墜落 する。マルドロウは脱出に成功して地上に降り立つが、そこは敵国の中心地。その瞬間から、マルドロウは生きて自分の故郷へ帰るため、北への壮絶な逃避行を 始める。
 空襲の中、逃げ惑う日本人の中のたったひとりの敵国人として身を隠し、逃げるために必要な物を奪い取り、必要とあらば相手の命も奪いつつ、闇にまぎれて 逃亡をつづける。そこに個人への憎しみはない。野生動物の檻に投げ込まれた人間と同じ恐怖と、生存への欲望があるだけだ。マルドロウはアラスカの生まれ だった。北緯70度の世界にある雪と月光と自然と動物たち・・・その世界へ生きて辿り着きたいだけの生存への旅。
 ここは敵国だ。周囲の人間は皆、敵にほかならない・・(中略)・・しかし、どの方角にも死があった。目に する顔、こちらを見る顔すべてに、死が認められた。自分自身にも死はまとわりついている。さまざまな拷問が頭をよぎる。殴打、火責め、四肢切断、去勢。い たるところで目にした。頭を切り落とされるのは、幸運なくらいだ。
 この文章からもわかるように、マルドロウ自身も死に直面しているが、そこで生きている敵国日本人も日々、空から降り落とさせる死の恐怖に脅えて生きてい る。今、顔を見合わせる互いには憎しみ合う何の理由もないのに、どちらかを殺さなければ片方が生き延びられないのが戦争である。理由は無い。
  
 この作品はブラッド・ピットを主演に、『ファー ゴ』のコーエン兄弟の監督によって映画化が進み、2003年に全国ロードショーが予定されていたということだったが、サイトで確認したと ころ、現在撮影は無期延期状態とのこと。
 くわしくはオン ラインサイトをご覧になって下さい>>

 小説について少しだけ個人的な感想を言えば、故郷アラスカの原風景だけを脳裏に描いて逃亡を続ける物語にはたいへん興味をおぼえ たが、日本の地理的環境、街の様子、人々の暮らし、農村風景、それらの描写にいくぶん首をひねってしまう部分が多くあった。1940年代の暮らしに(?) と思うところもいくつかあったのは、原作の描写のせいなのか翻訳のせいなのかはわからない。だから、この作品がどう映画化されるのか関心があったのだが、 現状では映画の完成は難しいのかもしれない。

 2001年の秋、ひと月後、ふた月後の世界はどうなっているのか。
 人々が心から会いたい人に会い、会いたい風景の中で心を慰め、今、どこか遠い場所にいる人たちも、必ず会いたい人たちの元へ帰って来られる日がつづいて いくことを願っている。(Sep.30、2001)


 
  
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