バーバラ・クーニ−の絵本の世界

May.2001作成 (文中のリンクをクリックするとAmazon.co.jpなどのリンク 先へとびます)   

1. 若草物語の思い出

 こちらの写真は、学習研究社が発行した「学研世界名作シリーズ」の中の「若草物語」(ルイザ・メイ・オールコット著 掛川恭子訳)という本の外箱の絵です。私の宝物 であるこの本はかなり古く、1974年の発行となっていますが、この外箱のおかげで中身は染みひとつない綺麗な本のままです。定価は1,000円。これは 当時としては随分いいお値段だったことでしょう。
 この本は誕生日のプレゼントでした。4歳から15歳まで、8回も入退院を繰り返していた子供時代のある時、ふたり部屋の同室になった男の子のお母さん が、私の誕生日に贈って下さったものです。そのお母さんは私に「何でもいいよ、欲しいもの言ってごらん」と訊かれました。私は本が大好き、というほどの文 学少女などではありませんでしたが、何か後まで残るものがいいだろうと思い、たまたま小学校の図書館で目にしたことのある、(確か学校では「ラ イラックの花の下」を借りたことがあったと思いますが)オー ルコットの代表作「若草物語」名前をおばさんに伝えました。おばさんは、「若草物語、ね」と何度も本の名前を確認して忘れないようにし ているようでした。数日後、おばさんからこの立派な本を手渡された私は、あまりの美しさに大感激したものです。なにしろ、学校の図書館にあった本は色も褪 せ、綴じの部分も緩み始めたような本でしたから、ぴかぴかの新品、しかもBOX入り。箱から取り出せば、クリーム色のしっかりとした厚表紙に、なんと銀色 に輝くベスの絵が彫られていたその本は、それまで見たこともないくらい立派で、自分には大人びた本だったのです。
 たしかに、この「若草物語」は完訳で、私にはまだ少し難しい言葉や知らない名詞がたくさん出てきました。けれども当時の本の素晴らしいのは、大概の漢字 にはルビがふられ、例えば「アイバンホー」という言葉などには(イギリスの作家サー・ウォルター・スコットによって1819年にかかれた歴史小説)というように注が 多くつけられていたのです。実際、この注のおかげで私はジョーゼフィンという名前をジョーという愛称にすることや、マフィンというのが丸く焼いたパンだと いうことを覚えていったのです。
「若草物語」が書かれたのはアメリカ南北戦争直後の1868年。物語の中でも、お父様は従軍牧師として戦場におり、家にはいません。牧師の家庭ということ もありますが、まだ時代的にも、つつましさを美徳とし、貧しい隣人のことを第一に考え、今日の暮らしに感謝をして夜を迎えるという、宗教的な理想と教訓臭 さが色濃く出ています。が、それは、普通の学校生活を離れ、病院で治るのか治らないのかわからない病気と向かい合って生活しなければならなかった自分には 大変ありがたい内容でした。夜、消灯したあとの枕もとに小さな電球を灯して、毎晩ひとつずつ章を読み、自分もジョーのように力強く、そしてベスのように病 を抱えてもけなげに、エイミーのようにわがままを我慢し、いつかはメグのように美しい大人の女性に(・・・とは思いませんでした。メグのようにはなれっこ ないと思っていたから、私の理想はジョーのままだったのです)、まるで本の中の4姉妹が、ジョ ン・バニヤンの「天路歴程」を導きの書として日々を送ったのと同じく、私も「若草物語」と共に病院生活を送っていったのでした。
「若草物語」を愛読するおとなしい少女のようでありながら、兄の影響か、父の影響か、それとも生来の好みなのか、10歳のころにはもうロックンロールが大 好きな子供にもなってしまい、病院から退院して自宅療養する部屋で深夜放送に聴き入り、今考えると、無謀なことをと思いますが、背中をざっくり30センチ も切った2ヵ月後くらいには、重いエレキギターを肩からぶら下げてKISSを弾いていた、というわけのわからない子供でもあったのです。でも「若草物語」 の不思議なつながりはロックにもなぜかつながっていき、洋楽雑誌でパティ・スミスの痩せて手足の長い仔馬のような身体と、並々ならない意志 を秘めた黒い瞳に一目惚れしてしまった私は、パティがじつは少女時代は病気がちで、「若草物語」のジョーに憧れて本を読み、詩を書くようになったことを知 り、狂喜したものでした。 
 それからはや20数年・・・パティ・スミスは54歳になった今でも、世界に向けてメッセージを歌い続け、今年の真夏には日本でのFUJI ROCK FESTIVAL ’01に参加するため来日します。私にとっては永遠の理想像。私は今でもジョーのようにパティのように強くありたい と思いながら、ベスのようにソファに横たわっていることしか出来ない不甲斐なさをいったりきたりしているのですが、幼い日に、生涯を結びつけることになる 「若草物語」とロックとパティに出会えたことは偶然にもとてもとても幸せなことだったと思っています。
 ・・と、話がそれてしまいましたが、この「若草物語」の美しい挿画を描いているのが画家のバーバ ラ・クーニー。400ページ余りのこの「若草物語」の中にじつに40枚以上の挿絵版画が載っています。これらの挿絵はすべて板版画 ですが、のちに知ったことでは、バーバラ・クーニーの版画はかなり珍しいようです。ともかく、このクーニーの可愛らしい挿絵がふんだんに載っていなけれ ば、厚い本を最後まで読みとおせたかどうか疑問です。
 残念ながらこの学習研究社の「若草物語」は現在では入手は不可能のようです。「若草物語」は他にも文庫などで幅広く読まれていますから、今月は古き良き アメリカを描き続けた画家バーバラ・クーニーの絵本をいくつかご紹介したいと 思います。

 

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「エミリー」
マイケル・ビダード 文 バーバラ・クーニー 絵 掛川恭子 訳 ほるぷ出版

 エミリー・ディキンソンは、1830年、マサチューセッツ州のア マーストで生まれ、1886年、同じ土地で亡くなりました。エミリーは表面上は平凡な一生を送り、結婚もせず、両親の家に住みつづけました。ただ、年がた つにつれて、ますます隠遁ぶりがひどくなり、死ぬまえの25年間は、父親の屋敷のそとへは出ようとはしませんでした

 これは、この「エミリー」という絵本を書いたマイケル・ビダードが、そのあとがきに記した冒頭の部分です。
 この本は上記のような状況の中で、1800編もの詩をのこしたエミリー・ディキンソンという詩人と、そのお隣に引っ越してきた一家のひとときの交流を描 いた作品になっています。
「わたし」と語る少女の一家が、エミリーの家の隣に越してきて間もなく、ドアの郵便口から一通の手紙がなげこまれました。そこにはブルーベルの小さな花 と、家へ来てピアノを聴かせてほしいということが書かれていました。ママの弾くピアノの音をおそらくエミリーは聴いていたのでしょう。
「どんな人、黄色い家にすんでいる人って?」とわたしはパパに聞きました。
 パパは詩を書いているのだと答えます。
「詩ってなあに?」わたしがききました。
 パパはこう答えます。
「ママがピアノをひいているのをきいてごらん。(中略)あるとき、ふしぎなことがおこっ て、その曲がいきもののように呼吸しはじめる。(中略)口ではうまく説明できない、ふしぎななぞだ。それとおなじことをことばがするとき、それを詩という んだよ」

 さて、ママがお隣へピアノを弾きに行く日がきました。
 ママが客間でピアノを弾く間も、エミリーは姿を見せません。「わたし」はこっそり部屋を抜け出して階段の下に行きました。階段の上で紙に何かを書いてい る白い服の女性は、「わたし」に気づくと、「こちらへおいでなさい」といいました。
「わたし、春をもってきてあげたの」
 と、「わたし」はエミリーにユリの球根をあげました。エミリーはさきほどまで書いていた紙をたたんで「わたし」にくれました。
 「りょうほうとも、そのうちきっと花ひらくでしょう」エミリーはいいました。
 春になり、「わたし」は、エミリーが自分の庭に植えた球根が、お日さまと雨のたすけをかりて、ぐんぐんおおきくなり、やがて、白いユリの花を咲かせるこ とを思い浮かべます。
 そして、エミリーが「わたし」にくれた紙には、このように書かれていました。

  天国をみつけられなければ―――地上で―――
  天上でもみつけられないでしょう
  たとえどこへうつりすんでも
  天使はいつもとなりに家をかりるのですから――
             愛をこめて
               エミリー

この色で書かれた部分は絵本の言葉をそのまま引用し ました。
 それ以外はあらすじをまとめたものです)

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おおきな なみ  ブルックリ ン物語
バーバラ・クーニー作 かけがわ やすこ訳 ほるぷ出版

 この作品は、バーバラ・クーニーのお母さんをモデルにしたものだそうです。クーニー家は、おじいさんの代にドイツ からアメリカへ来た移民で、ここでは材木商を営むクーニーのおじいさんと、その妻でピアノを教えていたおばあさん、二人の間の3人のこどもたちが登場しま す。こどもの内の、下の娘ハティがクーニーのお母さんとなる人で、この少女が家族の中で成長し、やがて画家を志すまでの様子を描いたのがこの「おおきなな み」という絵本です。
 日曜日やお休みの日には、おじさまやおばさまやいとこたちが、ブッシュウィック通りの家にやってきまし た。みんなしあわせと富をもとめてアメリカにやってきたドイツ人で、成功して、どうどうとしていました。

 この一文にもあるように、アメリカンドリームを求め、それを実際に手に入れた19世紀末頃の人々の暮らしぶりがよ くわかります。最初に住むのがレンガ造りのおおきな家なのですが、そこで子供たちは秋と冬の間だけ学校に通い、夏が来ると、海辺の別宅へ移り、ヨット遊び に興じ、浜辺を散歩し、大人たちはベランダで涼みながらおしゃべりをします。
 ニューヨークは発展して大きくなっていき、家を建てる仕事で成功をおさめたパパは、今度は「カシの森屋敷」という新しい家を買います。そしてそこでは乗 馬やテニス、夜はパーティーが開かれ、そんな中でハティはひとり絵を描き続けます。
 私たち日本人には、21世紀になってもこのような暮らしはなんだかため息が出るような夢物語です。
 やがてお姉さんのフィフィは、もうしぶんない相手と華やかな結婚式をし、男の子のヴォリーはパパの後を継いで事業をします。とうとうパパは、ブルックリ ンに自らホテルを建て、一家はホテルの最上階で暮らすようなります。
 小さいときパパに「おまえはなにになるのかな、おちびちゃん?」と聞かれ、
「わたしはペインター(絵をかく人)になるの」と答えて「女の子が家にペンキをぬる、ペインター(ペンキや)になるわけないでしょ」と姉たちに笑われたハ ティーは、このような暮らしの中でも自分の道を求め続けて、とうとうある日、決意して美術学校へ向かいます。手続きをすませて、帰りに浜辺を歩き、波が大 きくもりあがっては砕ける様子を見ながら、「すばらしい絵をかく。すばらしい絵をかく。」と ハティーはささやきつづけるのでした。

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おちびのネル −ファーストレディーになった女の子
バーバラ・クーニー 作 掛川恭子 訳 ほるぷ出版

 先の2作もそうでしたが、クーニーの作品には、自分の道を模索しつづけ、成長していこうとする女性を描いた作品が 多いようです。この「おちびのネル」もそうです。
 1932年から4期にわたって、米合衆国大統領に選ばれたフランクリン・デラノ・ルーズベルトの妻、すなわちファーストレディー、エレノア・ルーズベルトの少女時代を描いたのがこの絵本です。
 エレノアは大統領夫人として、社会福祉活動に励み、生涯、世界中の恵まれない人々のために献身した女性だそうです。
 しかし、エレノアの子供時代は決して愛にあふれたものではありませんでした。物質的には豊かではありましたが、実の母からも愛情を注いではもらえずに、 狩りやオペラやパーティーに出かけていく両親。母親は客人の前で、あまり容姿が可愛らしくなかったエレノアを見て「あの子のことをおばあちゃんとよんでいますのよ」などと真面目な顔で言ったりしました。
 やがて奔放な父は家庭になじまず家を出てしまい、エレノアが8歳の時に母親は死に、それからのちは、おばあさまやおばの元で暮らすことになります。
 彼女がどのようにして自分を磨き、自信を獲得し、他の人々への誠意にあふれた女性へと成長することが出来たのか、そこには大切な師との出会いがあるわけ ですが、細かいお話は省略します。
 大統領夫人として、また国連の代表として世界を回り、人々の人権を守り貧しい人々を助ける仕事をつづけたエレノアが亡くなったとき、その葬儀で友人のア ドレイ・スティーブンソン(元アメリカ国連大使)はこのように言葉を贈ったと書かれています。

 「エレノアは、暗闇をのろうよりも、まずロウソクに火をつけるよう な人だった」

 バーバラ・クーニーの絵は大変に素朴で優しい印象を受けますが、例えば19世紀末など、その時代の建造物や室内装 飾の写実性は、さすがに3代続いた画家の才能を思わせるものがあります。
「おちびのネル」の中で、エレノアの子供時代の室内を描いたものがありますが、本を読む母親の寝椅子のうしろに、日本の屏風絵がみられます。浮世絵風に縦 長にデフォルメした富士と月(たぶん月だと思います)、砂浜にあそぶ鶴。こんなところにも、19世紀末の上流社会の人々の異国趣味が垣間見られ、また、人 物の衣装や、ガラス器なども実に時代に忠実に描かれているようで、絵をゆっくりながめているとまた、いろいろな発見が出来そうな気がします。

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満月をまって
メアリー・リン・レイ 文 バーバラ・クーニー 絵 掛川恭子 訳 あすなろ書房

 上にご紹介した作品のほかにもクーニーの絵本は数多くあり、クーニーは「にぐるまひいて」で1980年にカルデ コット賞を、「ルピナスさん」で1982年に全米図書賞を受賞したそうです。「百歳になるまでお仕事をしたいわ」と語ってらしたそうですが、残念ながら 1917年生まれのクーニーは、2000年に亡くなりました。彼女の最後の作品がこの「満月をまって」です。
 舞台は今から百年よりもっと前のアメリカ。コロンビア郡の山あい。
 山で暮らし、かごを作って生計をたてている人々のお話です。

 満月になったら、とうさんはハドソンにいく。こんどこそ、ぼくもつ れていってもらえるかもしれない。

「ぼく」はまだ、山をおりたことがありません。とうさんの仕事を見て育ち、「どうやって木をきりたおし、丸太にして」、「どうやって木づちをつかって、丸太をリボンのように、細くうすくはぎ とっていくか」ぼくはそれを学んで大きくなっていきます。けれどもまだとうさんはぼくを町へ連れていってはくれません。
 山に雪がふり、山にみどりがもどり、ぼくが9さいになった、ある満月の日、
「いっしょにきてもいいだろう」と、初めてとうさんが言います。

 たくさんのかごをかついで、初めて見るハドソンの町。
「ぼくは色の洪水から、目がはなせなかった。かんづめのラベル、きれいにならべてある果物 や野菜、金色にかがやくチーズ・・・」

 ここから先は、著者のあとがきを引用します。
 けれど、町の子どもたちは親から、山奥に住んでいる「山ザル」に近づかないようにいわれ ていました。(中略)いろいろなうわさ話が生まれました。(中略)不気味な伝説がひろまっていましたから。リップ・ヴァン・ウィンクルが眠りつづけ、首の ない騎士が馬を走らせているキャツキル山脈の峰々が、すぐ西側に連なっていたのです。

 1950年代になると、かごにかわって、紙袋や段ボール箱やビニー ル袋が使われるようになりました。(中略)最後まで作りつづけていたひとりの女性も、1966年に亡くなってしまいました。

 お話は、少年が町で見たこと、そして、山へもどって、山の中で感じること、を描いて終わります。
クーニーが数々の絵本を通して、人々に伝えたかった思いは、この最後の作品まで、一貫して変わることがなかったように思われます。

 バーバラ・クーニーをご紹介した海外のサイトを見つけました。彼女の仕事の全容が美しい絵と共に紹介されています ので、どうぞ飛んでご覧になってみて下さい。(特に2ページ目に絵がたくさん載っています)>> このサイトは「Women Children’s Book Illustrators」ということで、女性の絵本画家について大変詳し いサイトのようです。クーニーの他にも大勢紹介されています。






* そ の他バーバラ・クーニー関連の本のリストです(Amazon.co.jp)>>
* オ ルコット関連の本のリストです(Amazon.co.jp)>>


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